礼拝説教要旨 2023年8月6日
主への芳ばしい香り
出エジプト記 29:10~18
今日の要点

キリストの十字架による罪の赦しを土台として、みことばを行う歩みを神にささげる。

はじめに

大祭司と祭司の聖別任職式の続き。今日の10節以下は式の中心となるところで、三つのいけにえをささげることになります。罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、そして任職のいけにえですが、今日はこのうち最初の二つを見ていきます。心優しいみなさんの中には、こういう動物の解体作業が苦手な方もおられると思うので、そこはサラッと流します。これまでと同じように、これを遠い昔の、イスラエルという国で行われた、単なる儀式というのでなく、今日クリスチャンは万人祭司なので、ここから現代の私たちに適用すべき霊的原則を汲み取りたいと思います。罪のためのいけにえは、キリストの十字架による罪の赦しを表し、全焼のいけにえは、直接的には献身ですがーいわゆる献身者のことでなく、すべてのクリスチャンがなすべき献身―これはキリストの似姿に変えられること、すなわち聖化を表します。成長と言っても良いでしょう。罪の赦しと聖化・成長。この二つは切り離すことはできません。罪の赦しがすべての土台です。が、土台だけで終わってはいけません。その上に私たちがどう生きるか、人生という建物を建てるのです。

その建物の真価は、裁きの日に、火で明らかにされるとパウロは言っています(第一コリント3:10-15、新約pp. 320-321)。せっかく与えられた尊い罪の赦しという土台に立って、どういう人生を歩むか、注意して、賢い建築家のように生きたいものです。また罪の赦しから新しいいのちー神とともに生きるいのちーが始まるとも言えます。もし赤ちゃんが生まれただけで、全然成長しなかったら、親は心配になるでしょう。五年、十年…全く成長せずに生まれたときの赤ちゃんのままだったら…。いのちは成長するものです。霊的ないのちもそうです。罪赦されただけで、聖化と無関係な生き方をしていたら、クリスチャン歴何十年でも、霊的には赤ちゃんのままです。それを続けていたら、新しいいのちそのものも弱っていくでしょう。罪の赦しは、それを土台として成長し、やがて成熟へと、イエス様の似姿へと進んで行くためにあるのです。そして成長には喜びが伴うのです。

① 罪のためのいけにえ:キリストの十字架による罪の赦し (10-14節)

最初にささげるのは、罪のためのいけにえ。これなしには、何も始まりません。大祭司として指名されたアロンも、例外ではありません。アロンとその子らは、まず、雄牛の頭に手を置きます。これは「私の罪を身代わりにこの雄牛に負ってもらう」ことを表します。そしてその罪を負わされた雄牛を会見の天幕(聖所)の前でほふります。これで罪に対するさばきが行われました。正義が行われました。そしてそのことを証しする血を器にとって、祭壇の四隅にある角に指で塗ります。角は救い、勝利、力を表します。キリストの血は、救いであり、勝利であり、力です。残りは祭壇の土台に注ぎます。いけにえは大きく分けて4種類ありましたが、血を祭壇の土台に注ぐのは、罪のためのいけにえに特徴的なことで、ほかのは祭壇のまわりに注ぎかけます。罪のためのいけにえの血が、土台に注がれるのは、すべての土台が罪の赦しであることを教えるものでしょう。神とともに生きる新しいいのちは、そこから始まります。罪の赦しなしには、どれだけ奉仕しても、どれだけささげても、霊的には死んだまま。神に対しては死んだままです。そこに新しいいのちはありません。

すべての人は、生まれながらに罪びとであり、そのままでは神の御怒りの下にあるからです。13節は祭壇の上で燃やして煙にするもの。「肝臓の小葉」とありますが、これは普通に肝臓と考えてよいと思います。これらを焼いて煙にします。煙は天に立ち上ることから、天におられる神にささげることを可視的に表すのでしょう。これらの内臓が、内面を象徴するとすれば、イエス様は身体は十字架で苦しみを受けながら、霊は、心は、きよい神へのささげ物として天に立ち上っていたということでしょうか。14節「肉と皮と汚物(胃や腸などその他の内臓?)」は、わざわざ宿営の外に持ち出して、灰捨て場で焼きます。なぜこういうことをするかについて、ケロッグというレビ記の大家は、全部丸ごと焼いてささげる全焼のいけにえと区別するためと言っています。また、ヘブル書13:11-13(新約p. 443)ではここから、動物のからだが宿営の外で焼かれたように、イエス様はエルサレムの町の門の外で十字架につけられたと言われています。イエス様が十字架につけられたのはゴルゴダという場所で、エルサレムの城壁の外にありました。

罪のためのいけにえが表す中心思想は、罪に対する神の御怒りをなだめるためには、血が流されなければならないということです。私たちの罪のためには、キリストが血を流してくださいました。それなしには、私たちは誰一人、救われなかったのです。この厳粛な事実を私たちの人生の土台として、しっかり据えましょう。

② 全焼のいけにえ:神への献身=イエス様の似姿(15—18節)

次は全焼のいけにえ。こちらは雄羊です。先と同じように羊の頭に手を置いて、「この羊は私です。私の代わりです。」ということを表します。そして同じように、聖所の前でほふり、その血を器に取ります。そして今度は、その血を祭壇のまわりに注ぎかけます。そしてこちらは、雄羊を燃えやすいように部分に切り分けて、内臓も足も水で洗って汚れを落として、全部祭壇の上で焼いて煙にします。全焼のいけにえは、その名の通り、全部を焼いて煙にすることが特徴です。祭壇のまわりにかけられる血は、罪の赦しを表しますが、こちらは罪の赦しそのもののためではなくて、罪の赦しのうちに、自分自身のすべてを神にささげることを表すことが主目的です。主への全き献身を表します。これは第一義的には、キリストが完全に父なる神に信頼し、自分自身をささげて、従われたことを象徴します。そのキリストの義は、信じる者にただで与えられています。だから私たちは、一点のシミもない完全なキリストの義の衣を着て、神の前に出ることができます。同時にまた、これは私たちも神への全き献身をするようにと教えるものでもあります。私たちは本来、このように自分自身を神にささげるべきものなのだと。

罪の赦しの土台の上に、神への献身の生活、人生を建て上げていく。それが神が望み、喜ばれる人生です。18節「その雄羊を全部祭壇の上で焼いて煙にする。これは、主への全焼のいけにえで、なだめのかおりであり、主への火によるささげ物である。」ここの「なだめのかおり」と訳された所、新改訳2017版では「(主への)芳ばしい香り」です。英語では sweet aroma (甘美な香り)と訳しているものもあります(NKJV)。また a pleasing aroma (喜ばしい香り)とも訳されています(NIV)。なだめの香りというのと、ちょっと印象が違うのではないでしょうか。順序からすると、罪のためのいけにえで、すでに罪の赦しがなされ、神との関係が回復しているのですから、愛されている子として、すでに受け入れられている子として、神に喜んでいただきたいという心からー神への愛からーささげられるものと思われます。だから芳ばしい香りであり、sweet aroma, pleasing aroma なのでしょう。「 われらは主のもの 主に在りて生く 」新聖歌206番

今日のクリスチャンが、具体的にどう全焼のいけにえとしての生活を送ることができるのか、新約聖書を二か所開いてみたいと思います。まずローマ12:1-2、新約p. 308-30912:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。「生きた供え物」当たり前ですが、私たちはほふられて、焼かれるわけではありません。生きて、神の御心を行うことに自分自身をささげる。それが生きた供え物でしょう。「私の願いではなく、あなたの御心が行われますように」ということです。と言って何も特別なことをするわけではありません。若い人はいわゆる献身するのも、主が導かれるなら大歓迎ですが、多くの人にとってはそうではないでしょう。ここでパウロは具体的にどういうことを念頭に置いていたんだろう、と続きを読んでいくと…。

次の3節「慎み深い考え方をしなさい。」これがこのあと、通奏低音のように響いているように感じられます。確かに、福音書に出て来る弟子たちは、お山の大将になりたがっていました。そのようなあり方が、この世と調子を合わせることでもあるのでしょうか。そして神の御心は何か、何が神に喜ばれて、神に受け入れられるのか、心の一新によって自分を変えなさいとは、そういう古いあり方を十字架につけて、キリストが示されたあり方に従うこと。たとえば14節「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」16節「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低いものに順応しなさい。…」17節「誰に対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」19節「…自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。…」20節「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。…」21節「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」私たちがこのように生きるとき、それは主への甘い香り、芳ばしい香りなのです。

古い自我には、まるで釘が食い込むように、痛く感じるかもしれませんが、それは一層、イエス様の似姿を宿すものとして、神に喜ばれる香りとなるのでしょう。それは祈りなしには、できないのかもしれません。イエス様がゲッセマネの園で祈られたように。もう一か所。エペソ5:1-2、新約p. 3785:1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。この箇所の直前4章29節から「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。…」31節「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」32節「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」何もない時に、悪い言葉を出す人は、あまりいないかもしれません。何か、面白くないこと、腹の立つことがあるから、そういうのが出て来るものでしょう。

そういうとき、肉体がほふられるわけでも、焼かれるわけでもありませんが、確かにこのように行うには、古い生まれながらの自分が、キリストともに十字架につけられて、そして聖霊の火を注がれなければ、成し得ないことなのかもしれません。自分の力でやるわけではありませんが、自分でもその意思を持たないと進まないのではないかと思います。ゲッセマネの祈りが必要です。そしてその祈りそのものも、芳ばしい香りとして、御前に立ち上っているのだと思います。最後に、私たちがイエス様の似姿に近付く歩みに励むときに、忘れてはならないのは、すべては罪のためのささげものーキリストの贖いによる完全な罪の赦しーの土台に立って、その歩みをしているのだということ。どれだけ失敗しても、自分の罪の深さ、ふがいなさを思い知らされたとしても、罪の赦しという救いの土台は、ビクともしないということです。愛されている子であるという関係は、決して変わることがない。私たちがささげるのは、なだめの供え物ではなくて、芳ばしい香りなのですから。なだめるのに失敗した、なんてことはないのです。

むしろ、主をお喜ばせしたいという心、意思を持っているならば、神はその歩みを喜んでくださり、励ましてくださるに違いありません。ですから、安心して、私たちを愛し、私たちのために、ご自身を香ばしい捧げものとして神にささげてくださったイエス様にならって、私たちも少しでも愛する父なる神に、芳ばしい香りをお捧げさせていただきましょう。