礼拝説教要旨 2023年7月30日
わたしに仕えるように聖別するため
(出エジプト記 29:1~9)
今日の要点

キリストの救いにあずかった者はみな、真理に立って歩むよう、聖別されている。

はじめに

28章では、大祭司と祭司の衣装について見ました。それはすべてキリストを表すもので、その一つ一つの装束に神の尊い、麗しい御心が表されていました。私たちに対する尊いご愛が表れていました。続く29章は、彼らの聖別任職式です。前回も言いましたが、モーセの時代は祭司はアロンの子たちとされましたが、今日は「万人祭司」の時代です。牧師や宣教師など一部の人だけでなく、キリストを信じる者はみな、祭司として主に仕えるよう、召されています。具体的に現代のクリスチャンが、どのように仕えるのかということについて、前回、3つのことをあげましたが、今日も私たちがどのように主に仕えるかということについて、別の視点から学びたいと思います。

① 聖別任職式の目的 (1節前半)

1節「あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。」ここは大祭司も含めてまとめて「祭司」と呼んでいます。モーセの兄アロンを大祭司として、その子らを祭司として、彼らが主に仕えるように、聖別するために、これから語られる儀式を行う。「聖別」とは、もっぱら主の御用のために、きよめ分かつことです。そのままではダメなのです。生まれながらの人間はみな、生まれながらの罪びと。そして主は聖なる方なので、主に仕える者もきよめられる必要があるのです。これから行われる聖別任職式は、彼らをまず罪や汚れからきよめ、彼らに献身の決心をさせて、生涯、主に聞き従い、主に仕えて、主から糧を頂いて生きることを誓わせるものでした。ところで、人間は本来、神に仕えるために創造されました。神の御心に従って、地を治めることによって、神の栄光をあらわすべき存在でした。それが罪によってできなくなった状態というのは、悲惨な状態です。主に仕えずに、自分の欲や自分自身に仕える状態は、倒錯した状態なのです。そこから数々の悲惨、悲劇が生じます。みなが神に仕えるときに、調和と平和が確立します。

天国では、神の民が永遠に神に仕えると描写されています(黙示録7:15、22:3)。神に仕えることができるというのは、この上ない祝福であり、幸いなことなのです。天国に行ってまで、神に仕えなきゃなんないのか…と、あんまりうれしくない気持ちになるとしたら、それは神に仕えることのすばらしさ、喜びを知らないが故の誤解です。神に仕えることは、私たち人間にとって最高の幸い、喜びだと認識を新たにしましょう。

② 聖別任職式に必要なもの:1節後半―3節

祭司となる人たちを聖別・任職するために、実際に何が行われるかというと、いろいろあありますが、その中心は三種類のいけにえと穀物のささげものをささげることでした。若い雄牛1頭、傷のない雄羊2頭。それに種を入れない(パン種/イースト菌を入れない)パンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい。これらを、最良の小麦粉で作ります。雄牛は罪のためのいけにえ、雄羊の1頭は全焼のいけにえ、もう一頭の雄羊は、任職のいけにえとも和解のいけにえとも呼ばれます。穀物のささげものは、一部は全焼のいけにえとともにささげられ、残りは任職される祭司たちが食べます。これらのささげ物については、10節以下で詳しく語られますが、一つだけ。私たちも、万人祭司として主に仕える者となるために、キリストの十字架による罪の赦しが必要ということ。それがなければ、主に仕えるどころか、近づくこともできませんでした。キリストが、私たちを愛し、自ら進んで、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったおかげで、私たちの罪がすべて赦され、神に受け入れられたので、神に仕えることができるようになりました。

御子キリストの十字架のみわざは、私たちが主に仕えるーとこしえに主に仕えるー幸いにあずからせるためだったということも、心に刻みましょう。

③ 水による洗い、着衣、油注ぎ(4-9節)

3節の最後「ささげよ」と新改訳3版が訳しているところ、原語は「連れて来る」が直訳で、2017版はそう訳しています。つまりこれらのいけにえの家畜を、かごに入れた各種のパンとともに、幕屋の前に来るということです。式の段取りを述べています。4節の「会見の天幕」は聖所のこと。以前見た、板を立てて並べた壁と、上には4枚の幕がかけられていた、あの建物のことです。アロンとその子らを、その会見の天幕の前に連れてきて、以下、水による洗い、大祭司・祭司の衣裳の着衣、そして油注ぎと行って、その後、次回見る10節以下で、いけにえをささげます。今日はその準備段階です。まず水の洗い。ここには触れられていませんが、祭壇と会見の天幕の間には、「洗盤」という大きなたらいのようなものが、台の上に載せてありました。これに水を入れておいて、祭司たちは聖所に入るとき、また祭壇で奉仕をするとき、手足を水で洗うことが定められていました(30:18-19)。おそらくこのときも、洗盤の水で手足を洗ったのでしょう。次に、アロンに大祭司の衣裳を着せます。長服、青服、エポデ、胸当てをつけて帯を締める。そして頭にはかぶり物、その額には聖別の記章をつける。

これらの装束を、前回まで一つ一つ見てきました。その意味をまた思い返すのも有益でしょう。そしてその次に油をアロンの頭に注ぎます。油と言っても、てんぷら油のようなものではなく、主が指定した香料を調合した、良い香りのする油です。これは聖霊を表します。そしてここには記されていませんが、続けて幕屋の器具、祭壇などに油を振りかけて聖別し、その後で祭司も亜麻布の長服を着させ、油を振りかけました。ちなみに、大祭司が水で洗われた後、油を注がれたという「型」は、キリストがヨルダン川でバプテスマを受けて水から上がったときに、天から鳩のような形をした聖霊が頭上に降られたことにおいて成就したと言われます。「キリスト」という言葉は、ギリシャ語で「油注がれた者」という意味で、そのヘブル語が「メシア」です。旧約聖書では、救い主のことをメシア、油注がれた者と呼びました。救い主という特別な任務のために、特別に聖霊を注がれて、任命された者ということです。その他、王、預言者の任職の時にも、油を注ぐ儀式が行われました。いづれも、その務めを果たすに必要な聖霊が注がれることを表します。

こうして準備万端整って、最後に9節、主はモーセに「永遠のおきてによって、祭司職は彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを祭司職に任命せよ」と命じました。祭司職は永遠にー旧約の時代の最後までーアロンの家系のものと言われて、ことの重さをアロンたちも、民もわきまえさせられたでしょうか。「 主と共に歩む その楽しさよ 」新聖歌355番今日は最初に触れた「主に仕えるよう、聖別する」ということについて、現代のクリスチャンにどう適用するのか、考えてみたいと思います。当時の祭司はほかの仕事はせず、祭壇でいけにえを捧げたり、聖所に供え物をしたりという形で主に仕えることに専念しましたが、今日のクリスチャンは、教会の奉仕をしているだけでなく、世にあって仕事をしている人も大勢います。その方々も、主に仕える祭司です。現代の私たちが聖別されて、主に仕えるとは、教会で奉仕をするということでなく、生き方、生きる姿勢のことだと思います。先日の祈祷会で触れましたが、イエス様は最後の晩餐の夜、弟子たちのために次のように祈られました。ヨハネ17:15-18。以下、繰り返しになりますが、大切なことなので。

17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。弟子たちはこのあと、ユダヤ人から迫害されますが、だからと言ってその世から取り去るのでなく、彼らがそこに置かれたまま、守ってくださるようにとイエス様は祈られました。イエス様の言う「弟子たちを守ってください」とは、ただ身体的に守られることでなく、基本的には、世になびいてしまうことや、同化してしまうことから、守ってくださいということ。信仰を捨ててしまうこと、骨抜きにされてしまうことから、守ってくださいとの、霊的な守りです。それで16節でも「わたしがこの世のものでないように、彼らものこの世のものではありません」と繰り返されます。

この祈りを聞いている弟子たちに、わたしがこの世のものではないように、あなたがたも、この世のものではないのだから、彼らと同じになろうとするな、彼らに同化しようとするな、と教えておられるのでしょう。そして17節「真理によって、彼らを聖めてください。あなたのみことばは真理です。」真理によって、聖め別つとは、私たちが世にあって、真理を堅く保ち、真理に立って生きるということです。真理によって生きる生き方によって、世から区別される。地の塩、世の光となる。この世界を造られた神がおられること。その神に背いて、人は罪あるものとなってしまったこと。その罪によって、人類は悲惨な状態になってしまったこと。死すべきもの、永遠の死を受けるべきものとなってしまったこと。しかし神は、御子を救い主としてお遣わしになり、私たちの罪のために身代わりに十字架にかけてくださったこと。御子キリストは、私たちを愛して、自ら進んで私たちのために十字架にかかってくださったこと。そして神は三日目にキリストを死者の中から復活させたこと。そのことを信じる者は、誰でも罪赦され、神の子とされ、神がその人のところに来てくださって、ともに住んでくださること。神がともにおられるということ。

そして、永遠のいのちにあずかり、永遠の御国を受け継ぐこと。本当に永遠の御国を受け継ぐこと!ただし、世の終わりには、すべてをご存じであられる神の正しい裁きがあること、すべての行いには必ず報いがあること…。これらの真理を受け入れ、その真理にとどまり、またこれらの真理を拠り所として、また望みとして、それぞれが置かれている人生の旅路を歩むこと。それが真理によって聖別されるということです。創世記の時代から、神の民の生涯を特徴づけてきたのは、神を恐れ、神に望みを置く生き方でした。現代も同じように、神を恐れ、神に望みを置いて、悪から遠ざかり、世のさまざまな誘惑に惑わされず、あるいは厳しい状況の中でも、普通なら自暴自棄になってもおかしくない状況でも、神に望みを置いて、踏みとどまる。そのように世にあって、みことばの教える真理を拠り所として、人生の土台として、そこに立って生きること。それが、キリストを信じる者が、真理によって、世から聖め別たれるということの意味だと思います。パウロは当時の奴隷たちに、地上の主人によく仕えるよう勧めた後、そうすることによって「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただけることを知っています。

あなたがたは主キリストに仕えているのです。」と諭し、反対に「不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。」と戒めました(コロサイ3:32以下、新約p. 393)。すべての背後に神の御心を見てとって、神があなたをそこに置いておられるのなら、その神の御心に仕える、たとえ人はそれに報いてくれなくても、そんなことは意に介さず、神が公平に報いてくださると信じて、良心的に仕えるように。それが神を信じる者の生き方だと(もちろん、ブラック企業とか、そういう所にも我慢して留まれということではありません。常識の範囲での話です)。最後に、イエス様は御父に、真理によって弟子たちを聖別してくださいと祈りました。私たちを聖別するのは、神です。神が私たちを悪から守り、真理によって聖別してくださる。この神の守りを信じたいと思います。イエス様が父に祈られた祈りは、すべてきかれています。聞かれなかった祈りは、一つもありません。今日から始まる新しい週も、主が私たちとともにおられるという真理に堅く立って、また羊飼いなる主が憩いの水のほとりに伴ってくださることを期待して、歩んでいきましょう。