礼拝説教要旨 2023年7月23日
亜麻布の長服
(出エジプト記 28:39~43)
今日の要点

キリストを信じる者は、みな祭司。日々の生活の中で主に仕えよう。

はじめに

28章に入って、大祭司の衣裳に表されているイエス・キリストについて4回にわたって見てきました。今日は大祭司の衣装の残りの部分と、祭司の衣装について見ていきます。と言っても、今日見る大祭司の衣装の残りの部分は、実は祭司の衣装とほぼ共通しています。つまり、祭司の衣装の上に、大祭司は特別な衣装―青服、エポデ、さばきの胸当て、それに「主への聖なるもの」と刻まれた純金の札ーを身に着けるということになります。お配りした下のイラストを参考にしてください。大祭司はキリストを表しましたが、祭司はそうではありません。今日、「万人祭司」という言葉があるように、新約の時代はキリストを信じる者は、みな祭司と言われます。大祭司=キリストはただおひとり。その大祭司のもとで仕える祭司=クリスチャンは大勢です。ということで、今日は、祭司の衣裳から私たちクリスチャンについて教えられていることを汲み取らせていただきたと思います。

① 長服、かぶり物、飾り帯 (39-40節)

39節は大祭司アロンの衣裳の残りの部分です。まず亜麻布で市松模様に織られた長服。織り方で市松模様を織り出すのでしょうか。亜麻布は、これまでも出てきましたが、改めて調べてみると、亜麻は丈夫で長持ち、水に濡れると強度が増す、ただし洗濯すると縮む。吸水性・通気性・発散性にすぐれているので、濡れてもすぐ乾く。汚れにくい、肌触りが良いなどとありました。そして「リネンの繊維は中が空洞で、空洞部には空気が含まれており、その空気が余分な熱を逃がすことで夏は涼しく、冬は中の空気が熱を保持するために温かく感じられる。このように、リネンは天然のサーモスタットのような性質を持ち、通気性、保温性に優れている。リネンは涼しげな見た目で夏の素材だと思われがちだが、実は春夏秋冬一年を通して使用することができる素材。」と、生地屋さんのHPに宣伝文句がありました。祭司に限らず、今日でも中近東では肌着として使われているそうですが、当時の祭司は荒野で、炎天下で、祭壇で火を燃やしていけにえを捧げるわけですから、汗を吸って速乾性のある亜麻布は適した素材だったでしょう。

さらに亜麻布は、難燃性でもあるとのことで、火の粉がついても簡単には燃えないということで、祭司の衣裳としてまったくおあつらえ向きなのです。長袖で、丈はくるぶしまである、ゆったりとしたものです。これに頭にはやはり亜麻布のかぶり物をつけます。頭を覆うのは、敬意の表れとされますが、実際に頭を直射日光や火の粉から保護する役割もあったでしょう。そして刺しゅうを施した飾り帯です。40節「アロンの子らのために」とあるのは、祭司のためにということ。アロンは大祭司、アロンの子らは祭司たちです。祭司の衣裳については長服、飾り帯、ターバン(かぶり物)の3点のみ。簡潔に記されていますが、長服も頭に巻くターバンも亜麻布でしょう。それに長服がダブダブして邪魔にならないように締める帯。祭司の衣裳については、わずかこの1節のみ。大祭司のように宝石を身に着けることも、純金の札を額に着けることもありません。もちろん、以前学んだように、大祭司がそれらの貴金属を身に着けるよう指定されたのは、大祭司自身が偉いから高価なもので飾るというのでありませんでした。大祭司の肩のしまめのうに刻まれたイスラエル12部族の名は、彼らの名が神に永遠に覚えられることを表していました。

ナイフでひっかいても傷がつかないしまめのうに刻まれたイスラエルの十二部族の名は、崩れることも摩耗することもなく、いつまでもその名が残るのです。胸当ての12個の宝石には、12部族の名がそれぞれに刻まれ、大祭司の胸に、純金の鎖をもってずり落ちないように固定されて、常に結わえ付けられていました。それは、彼らが、キリストと神にとって、このように高価で尊い存在として心に覚えられていることを教えるためのものでした。優等生でも何でもない、あの12部族がです。そして「主への聖なるもの」と刻まれた純金の札は、真の永遠の大祭司キリストこそが、チリほども罪も汚れもない、完全に聖なるものとして、主に捧げられた方であることを示していました。それら大祭司の衣裳とは打って変わって、祭司の衣裳は至って質素。祭司も、神に仕える聖なる職務ではありますが、そのような貴金属は一切なく、質素な衣装なのです。牛や羊をいけにえとして捧げるのは、重労働です。祭司の服装は、実務本位といいますか、着飾る必要はまったくなく、実際的なのです。亜麻布の長服という祭司の衣裳は、「仕える」イメージのように思われます。

イエス様が最後の晩餐のとき、上着を脱いで、腰に手ぬぐいをまとって、弟子たちの足を洗われたときは、このような亜麻布の服だったのかもしれません(ヨハネ13:3-5、新約p. 207)。私たちも、実際に足を洗い合うわけではないにしても、身を低くして互いに仕えあうという点で、イエス様にならう者でありたいものです。なんで俺様が、私が、こんなことをしなきゃならないのか…と思うことがあったなら、このイエス様を思い出して。

② 亜麻布のももひき (41-43節)

こうして大祭司、祭司の衣裳について語られて、いよいよ任職です。これらの衣裳をアロンとアロンの子らに着せて、そして彼らに油を注ぎ、彼らを祭司職に任命する。こうして彼らを聖別して祭司としてわたしにつかえさせよ、と主は言われました(41節)。任職式については、29章で詳しく記されます。ここでは、こうしていよいよ大祭司・祭司の任職というところまできて、ここでひと段落かと思いきや、その後に今度は「ももひき」を作るように命じられます(42~43)。それは裸をおおうため、腰からももまでの、バミューダパンツかステテコくらいの丈で、やはり亜麻布で作ります。ところで、細かいことですが、どうしてこれがここに記されたのか。大祭司・祭司の衣裳なんだから、ほかのといっしょに前の方にまとめて書いた方がスッキリするのに、と少し考えてみました。

直前の41節で、彼らを聖別してわたしに仕えさせよ、と晴れがましく宣言されましたが、それでアロンたちが舞い上がってしまわないようにと言いますか、まるで自分たちが特別にきよいから、偉いから、その役割に召されたと高慢にならないように、彼らもまた罪びとであり、亜麻布の衣で全身をおおわれる必要のある者だと、わきまえさせるためかもしれません。創世記の3章で、アダムとエバが禁断の木の実を食べ、目が開かれて、自分たちが裸であることを知ったときに、彼らはイチジクの葉をつづりあわせて、自分たちの腰のおおいを作りました(3:7)。腰のおおいは、罪をおおうことの象徴です。大祭司も祭司も、罪がないからその聖なる務めに召されたのではない。亜麻布で全身をおおわなければ、どうなるか。彼らは自分の咎のゆえに、死ぬのです(43節)。そういうことを考えると、亜麻布はキリストの義の衣を象徴していたと言えるでしょう。パウロも、使徒として召されたとの揺るぎない確信をもっていましたが、自分自身については、老年になっても、罪びとのかしらと告白し、そんな者をも使徒として召してくださった主の恵みをほめたたえていました(第一テモテ1:13-17、新約p. 406-407)。

有名な15節。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。「私は自分で思っている以上に罪深い。と同時に、想像もできないほどに、神に愛されている。」この言葉をもって、高慢からも、卑屈からも守られて、へりくだらされつつ、神の愛の確信に満ちた、神の子どもらしい幸いを自分のものとしたいものです。「 この人を見よ 」新聖歌99番最初に書いた通り、キリストを信じた者は、みな神に仕える祭司です。万人祭司です。では、現代の私たちは何をすればよいのでしょう。具体的に、日常生活の中でどのように主に仕えるのか。今日は3つだけ挙げたいと思います。まずヘブル13:15-16 (新約p. 443)。13:15ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。13:16 善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。賛美のいけにえ。

神のすばらしさー特に、万物の創造者であられること、私たちの贖い主であられることーを思って、神を賛美すること。教会で礼拝の時だけでなく、週日も一人でも、家族でも、神への賛美を絶えずささげましょう。私の神学生時代の下川友也校長は、よく歩きながらでも校長室でも、大きな声で賛美を捧げておられました。神学校を賛美で満たそうとのおつもりだったのかもしれません。主を賛美することは、結果的に、自分の霊性にも、信仰にも、メンタルにも、また肺を使うので健康にも、また家庭の雰囲気にも、良い影響をもたらすのではないでしょうか。そしてそのような「効果」がたとえ、なかったとしても、それは決して無駄ではありません。その賛美はーたとえ貧しい賛美だったとしてもー真の仲介者なるキリストを通して、きよめられて、とりなされて、聖なる神の御前に事実、捧げられているのですから。天国に行ったときには、自分が思っていたよりもはるかにたくさんの賛美が、御前にささげられていたのを発見して、驚くということも、もしかしたらあるかもしれません。私たちのささげものを、神は一つも忘れずに覚えておられます。賛美が絶えず捧げられている生活は、それ自体が祝福です。

「いけにえ」という言葉にこだわるならば、これは犠牲をあらわす言葉ですから、何か良いことがあったときだけでなく、苦しみの中から、試練の中から、ときに涙を流しながら、ときに主に従って迫害を受けながら、それでも神を信頼してほめたたえる。そのような賛美のことも念頭に置かれているのかもしれません。むしろそれこそ、ほかでは成し得ない尊い捧げものとして、神も涙を流しながら、受け取られるのではないでしょうか。痛みをこらえながら捧げる賛美というものも、あるのかもしれません。そしてそれもまた、結果的にその人の心を守り、自暴自棄から守るものともなっているのでしょう。そして「善を行うことと、持ち物を人に分けること」隣人愛のわざを行うということです。これも「いけにえ」とあるように、犠牲を伴うことが念頭に置かれているのでしょう。痛みを伴わない範囲で善を行うのも、よいことですが、痛みを伴っても行う善行=隣人愛のわざは、いっそう、神への「いけにえ」として喜ばれるのでしょう。そこに御子キリストの似姿が映し出されているのですから。最後に、祭司の大切な務めの一つは、民を祝福することです(民数6:23-27、旧約p. 239)。

私たちは互いに祝福しあう務めがあるのです。ペテロの手紙第一3:8-9、新約p. 455-456。3:8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。ペテロの時代にも、悪や侮辱などがあったのでしょう。地上の教会は、いまだ天国ではありませんでした。しかしそういうことがあったときに、悪に対して悪を返し、侮辱に対して侮辱で返すのでは、どこに教会らしさがあるのでしょう。クリスチャンはそうであってはいけません。教会であれ、家庭であれ、そういうことが、仮にあったとしても、自分の肉の思いを十字架につけて、神の御心に従って、相手を祝福する。そこに教会らしさが、現れるのではないでしょうか。神は、私たちに祝福を受け継がせるために召された。その神の御心を思って、互いに祝福しあう。祈りの中で祝福するだけでなく、行動で祝福しあう。そこに神の祝福が支配する神の国があるのではないでしょうか。

神に仕える現代の祭司―すべてのクリスチャンーの務めは、キリストの御名によって、兄弟姉妹を祝福することです。