
序~今日の説教の題名は「成長」です。ウエストミンスター信仰告白には、聖化という用語で教えられています。イエス様を信じて救われた者は、救いの約束の中で聖化されて行く、つまり霊的に成長して行くとされているのです。今日の箇所でも、聖徒たちの霊的成長が教えています。Ⅰ~大人になって、成長して~13,15-16この箇所で、成長に関する表現がどれだけあるか見つけてみてください。いくつもありますね。成長も繰り返し出て来ます。それだけでなく、大人になって、身丈にまで達するという表現も繰り返されています。人は、イエス様の十字架の犠牲が自分のためだと信じて、救われ、罪の赦しと天国への命をいただきます。それを新生と言います。洗礼を受けたなら、何か到達したということではありません。新しい命をいただいたのです。生まれ変わったのです。新生と言います。そして、天国へ入るのを栄化と言いますが、その新生と栄化の間を聖化と言うのです。聖く変えられて行くということです。ですから、クリスチャンは、聖化、成長のプロセスにあるわけです。例え私たちが年を取っていても、御国に入るまでは、霊的成長して行くのです。素敵ですね。
「完全におとなになる」という原語は、完成とか成熟ということです。この信仰の成熟、霊的成長が、聖徒たちの信仰の生涯を決定づけます。聖徒たちの仕事や家庭生活、学びの生活を変えて行きます。霊的に成熟した聖徒たちが世に仕え、信仰で生きて行くと、家庭を変え、地域を変え、職場を変え、社会を変えて行くのです。ですから、私たちも、自分に期待し、互いに期待しましょう。どれほど成熟するのでしょうか。どのくらいまで成長すればいいのでしょうか。13節を見ると、「キリストの満ち満ちた身たけにまで」と言っています。言い伝えではイエス様は180cm位だそうですが、イエス様の身長まで成長するのですか、と考える人はいないでしょう。キリストの身丈というのは、イエス様に似た者になるということです。Ⅰヨハネ3:2。天国へ入る時には、イエス様に似たものとなると約束されています。それまで、成長、成熟して行くのです。霊的に成熟するためには、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し」と言っています。13節。ですから、御言葉に養われ、御言葉によって整えられることが必要だということです。Ⅱペテロ3:18。
イエス様に似た者となって行く成長の過程は、イエス様の十字架と復活による救いを信じることから始まるのですが、そこに表されたイエス様の犠牲と謙遜の姿に私たちも倣うということでしょう。また、イエス様に似た者になるには、イエス様を知っていなければなりませんね。知っていると言っても、知識の次元ではなく、生活の中でイエス様を体験しているということです。イエス様ならどうするかと考えながら生活して行くのです。Ⅱ~子どもではなく~14では、成長しなければ、どうなるのでしょうか。14節。そのように信仰と御言葉で生きて行くのでなければ、教えの風に吹き回されたり、サタンの悪賢い策略にもてあそばれたりします。聖徒たち一人一人が、霊的大人でなく、霊的子どものままであるならば、ということです。何が子どものようなのでしょうか。子どもの特徴を見てみましょう。子どもは、まだ弱い所が多く、病気になりやすく、自己中心性が強く、善悪の判断もつかず、親の保護が必要です。霊的に幼い場合もそうなのでしょう。霊的な子どもは、どれほど世の悪い風潮や間違った価値観、罪の思いによって、惑わされ、騙され、振り回されてしまうことでしょうか。
聖書の価値観をしっかり持っていないと、世の罪の風潮に流され易くなります。たとえば、噂話です。うわさは、世の人々が大変好きなものです。肉の思いは、否定的なこと、裁くことが好きだからです。噂話には、人の悪巧みや欺きが入り込むし、言う者、聞く者の心を歪めます。争いや憎しみも生じさせます。私たちは、救われた時は、どんなに年を取っていても、社会経験や世間的分別があったとても、信仰的には幼子です。なぜなら、私たちがイエス様に救われた時、新しい人として誕生するからです。そこから霊的成長をし始めるのです。イエス様の尊い犠牲でもって救われ、新しい命をいただいたのに、成長しない霊的子どものままでよいのでしょうか。いや、成長しないままだと、世の惑わしや罪の試みにさらされて危ないですよ、と警告しているのです。霊的に幼子である場合の特徴として、変化を嫌うという傾向があるそうです。私はこのままでいい、と固まってしまうというのです。心理学の用語で固着というそうです。過去の幼稚な習慣、あるいは否定的な習慣を捨てずに維持することにより、心理的な安定を得ようとする現象を言います。
心理的に処理できないような感情やストレス、葛藤を抱えた場合、固着地点まで退行します。結果、未熟な防衛規制が働き、程度が過度になると精神的な症状が形成されると言います。変わらないというのは、停滞するだけでなく、退行もするというのです。エペソ2:1-3。もちろん、聖化ということですから、これも、聖霊の働きです。ただし、私たち自身が願わない、拒むならば、聖化しません。Ⅲ~成長するためには~11-12,16霊的成長、聖化を望む私たちのためには、どんなことが用意されているのでしょうか。一つは、牧師や教師の働きが与えられています。11-12節をみると、牧師の働きが何であるかが教えられています。牧師になってから数年して、悩んでいた時、この御言葉に出会いました。衝撃的でした。この御言葉に出会った時、私は何をやっていたのだ、牧師としての働きをして来なかったと愕然としたのです。主が牧師を立てられたのは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」ためだというのです。聖徒たちを整えるとは、何をもって整えるのでしょうか。もちろん、御言葉をもってです。聖徒たちが御言葉で養われて、御言葉で整えられるように助けることが牧師の働きなのだと分かったのです。
それは、聖徒たちが御言葉によって養われ、御言葉によって生きること、御言葉によって聖徒たちが霊的に成長して行くことでした。牧師の働きは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げる」ことだと言っています。奉仕の働きより先に、霊的に整えられることが先だということです。クリスチャンだから奉仕をするというより、御言葉によって養われた聖徒たちは、自ら喜んで主の働きをして行くようになるというのです。イエス様に救われた恵みを覚えるなら、他の人々が救われることを願い、証しし、人々に仕え、助けることを喜ぶようになります。ここで大事なことは、主の働きの主体が聖徒たちであるということです。牧師の働きは、聖徒たちが主の働きができるように御言葉で整える、助けることです。この「整える」という原語の派生語が、他の箇所ではどんな意味に使われているかを調べてみました。それは、イエス様の弟子になる者たちが網を繕っている箇所で出て来る「繕っていた」という言葉です。マルコ1:19。「整える」という原語には、傷付き、壊れた所を改修し、回復するという意味が含まれています。
つまり、神様は、御言葉を通して傷付いた心、破れた家庭、壊れた生活を修繕してくださるというのです。私たちの生活にどんな問題と苦しみと傷がありますか。主の生ける御言葉によって繕われ、修繕され、整えられますように祈ります。教会に導かれた聖徒たちが、御言葉によって癒され、整えられ、御言葉によって養育されて成長し、信仰で生きて行くようになるのです。そのように聖徒たちを整える牧師の働きには、イエス様の心が必要です。牧師自身も、御言葉によって修繕され、整えられて行くことが必要です。そのためにもお祈りくださり、助けてください。そうして、御言葉によって整えられ、主の働きをするようになって、キリストの体、すなわち教会が建てられて行きます。一人ひとりの霊的成長は、その人自身に留まりません。15-16節。一人一人が霊的に成長して行くと、教会も霊的に成長します。規模のことではありません。信仰的に健康な教会になるということです。聖徒たちの信仰の成長と教会の霊的健康は、互いに関係があります。一人で成長して行くのでなく、互いに成長して行くのです。信仰が成熟して行けば、互いに霊的成長に役立つことを分かち合うようになります。ローマ14:19。
そこには、信仰による愛が働きます。聖徒一人一人の成長がなければ、健康な教会としての成長がありません。もちろん、健康な教会があれば、それが聖徒たちの成長のための助けとなります。一人一人の信仰が成熟するならば、教会が健康になり、教会が健康に成長すれば、聖徒たちが霊的に成長するように導かれて行きます。時代が進み、世代が変わり構成して行く聖徒たちは変わるでしょうが、御言葉に記された聖徒像、教会の姿は変わりません。これが、主の御旨だからです。すでに、一人一人の霊的成長と信仰の成熟が、主のあわれみの中で歩んでおられるでしょう。健康な教会として成長する環境があるでしょう。ですから、私たちは、信仰の成熟、霊的成長を願い求め、互いに御言葉と信仰を分かち合い、互いの霊的成長を助け合いましょう。エペソ4:16。