礼拝説教要旨 2023年7月9日
ささげ物に関しての咎を
(出エジプト記 28:36~38)
今日の要点

信仰生活のすべての点において、仲介者なるキリストにより頼むことの幸いを知る。

はじめに

大祭司の装束にあらわされているイエス・キリストについて、今日も見ていきます。大祭司とは、神と人との間の仲介者の役割をする人のこと。当時はアロンが任命されましたが、それはやがて来るまことの、永遠の大祭司、生ける神の御子イエス・キリストを指し示すものでした。仲介者に目を向けることによって、神と人との関係がどんな状態になってしまっているのか、教えられます。アダムの堕落以来、神と人との関係は、仲介者を必要とする状態になってしまったということです。決定的に、絶対的に。そして、その状況に対して、神がどれほどのことをしてくださったかを教えられます。神は私たちとの関係を回復するために、仲介者として御子をお与えくださったということです。仲介者と言っても、ただ右から左へと言葉を取り次ぐだけで済むものではなく、「俺の顔に免じて、どうか頼む」と頭を下げて済むものでもありません。御子キリストはそのために、私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかってくださる必要がありました。御子はそのことを、自ら進んで、私たちのためにしてくださいました。この仲介者を通してのみ、神と人との関係は回復します。仲介者なしに、望みはありません。

すべては仲介者にかかっています。そういうわけで、すべてのよきものの源であられる神からの祝福は、ただ仲介者からのみ、流れ出るのですから、私たちは仲介者に目を向け続けるべきです。今日は大祭司の頭を覆うかぶり物についてです。

① 「主への聖なるもの」と刻まれた純金の札 (36-37節)

大祭司が頭にかぶるかぶり物は、主への敬意のしるしとされます。お配りした模型の写真を見ると、給食の当番が頭にかぶった帽子みたいに見えますが、こうではなくて、ターバンのように長い布を頭に巻いたものだったという説もあるようです。材料は亜麻布です。ここで大切なのは、純金の札を作り、その上に「主への聖なるもの」と彫って、これをかぶり物の前面、額のあたりにくるように、青いひもで取り付けるということです。主が聖であられるから、主に受け入れられるものも聖でなければいけないということを表すと思われます。これが額のあたりに来るようにするということを深読みすると、その場所は脳で言うと前頭前野という部分のあたり。調べてみると、前頭前野は「脳の司令塔」「脳の中の脳」と呼ばれ、意思や計画性、判断、創造、記憶、感情の抑制、集中など、人間の行動のキーになる働きを司っているそうです。いわば、人間の精神活動の座ともいうべきところ。そこが「主への聖なるもの」でなければいけないのです。頭に思い浮かぶこと、考えること、判断すること、その他すべての精神活動が、すべて「主への聖なるもの」にふさわしく聖い…。聖くない思いが一つもない…。

そんな人が、この世に存在するのでしょうか。むしろ、イエス様は真逆のことを仰っていました。マルコ7:20-23、新約p. 79。7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」イエス様は愛の方ですが、かなり手厳しいこともときに、仰います。しかしこんなものとご存じの上で、そんな私たちのために、ご自分が命を捨ててお救いくださったことを思うと、なお、イエス様の底なしのご愛に心を打たれるのです。前にも言ったことがありますが、罪は普段は、それほど派手に暴れまわらずに、おとなしくしているかもしれません。例えるならば、水の入ったコップの底に泥が沈んでいるようなもので、何事もなければ水はきれいに見えます。ところが、棒でコップの中をかき回すと、泥が湧き上がって、コップの水全体が黒くなります。

そのように、人も何かがあったときに、あるいは状況が悪くなったときに、それで心がかき乱され、底に沈んでいた罪が姿を現す…ということがあるのではないでしょうか。しかし、キリストは、どんな状況になっても、罪が姿を現すことがありませんでした。どんなに棒でかきまわしても、泥は出てきませんでした。キリストの心には、罪という泥が全くなかったからです。妬みから、偽りをもって、インチキ裁判でご自分を十字架につけた者たちや、十字架上のイエス様に向かって、あざけり、悪口を投げつけた民衆たちのことを「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」と祈られました。言語に絶する苦しみの真っただ中で、もうすぐ死ぬと言うときに、こんな祈りが口から出て来るとは…。こんなことは人間にはとうてい考えられません。イエス様の心は、完全に主への聖なるものでした。<② 聖なるささげ物に関しての咎を (38節)ところで38節には、この純金の札がアロンの額にあるなら、「アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。」とあります。一瞬、えっ?とひっかかります。

イスラエル人が律法に従って、細心の注意を払って主のためにと聖別したささげものであっても、咎があるということです。ここに、神の聖さと、人の罪の深さとの間には、大きな大きな隔たりがあることがうかがわれるのです。ささげ物の本質は、ささげる人の心です。ということは、ささげる人間が罪びとである以上、そのささげものは汚れを免れないのでしょう。彼らがささげる最も聖なるささげものでも咎を免れない。罪ある人間の限界がある。だから仲保者が必要なのです。大祭司がその咎を負うとありましたが、罪の赦しのためには、血が流されることが必要です。しかし大祭司自身が死ぬわけにいかないので、代わりに罪のためのいけにえの血を注ぎ出すことによって、咎が赦されました。しかし真の大祭司なるキリストは、ご自身の血を流して、ご自身の民の咎をすべて取り除かれました。「主への聖なるもの」という純金の札は、単に心の完全な聖さを表すだけでなくて、実は、やがてくる真の大祭司は、ご自分の民のすべての咎を負って、自分自身を「主への聖なるもの」としてささげられることを、指し示すものだったのかもしれません。この大祭司こそが、罪のために主にささげられる「主への聖なるもの」なのだと。

エペソ書1:7、新約p. 373この方(キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。大祭司であられるキリストが私たちの咎を負って、私たちの代わりに血を流してくださったので、私たちのささげる礼拝、奉仕、ささげ物すべて、受け入れられます。ケロッグという人はこれについて、次のように注釈しています。(一部、表現に手を加えて引用。)「我々が、自分がささげる聖なるものの中の最も聖なるものにさえ、なお付着する汚れを意識して、失望落胆するたびごとに、アロンが帯びていた金の冠とその彫刻文のことを熟考しよう。主イエスが最も完全な意味で、「主への聖なるもの」であられるのだから、私たちは、アロンの額にあるこの聖なる冠について言われたことを、キリストに当てはめるべきである。すなわち「聖なる冠は常にキリストの額にあり、キリストは我々がささげるすべての聖なるものの咎を負われる。それは私たちのわざが主の御前に受け入れられるために、常にキリストの額にあるのだ」と。だから私たちは、この象徴から、常にすべての自分のうちにある汚れと罪から目をそむけて、主イエスのご人格の無限の聖さを見るよう教えられる。」自分の内側ばかりを見て、自己吟味し過ぎて、これは偽善ではないかとか、神経質になるよりも、私たちのために「主への聖なるもの」

となってくださったキリストを見つめて、キリストの聖さのゆえに私たちのささげる奉仕も礼拝も、受け入れて頂けると信じて、積極的に主に仕える方が喜ばれるように思います。「御国に行きて 諸共ほむるは イエス・キリストの 血潮のほかなし」新聖歌225番新約聖書をホテルや学校やいろんなところに配布しているギデオン協会という団体があります。その何代か前の会長が亡くなって、葬式の準備がされていましたが、なんと生き返って、葬式がやめになったという話を聞きました。身元のはっきりしている人の話ですし、証人もたくさんいるでしょうから、本当なのだろうと思います。その人は、そのときに天国に行って、黙示録に描かれているような、すばらしい光景を見て、「神様、私もこんな素晴らしいところに入れるんですか?」と聞いたそうです。すると、神は「そうだ。あなたも入ることができる。ただし、それはあなたが会長だからではない。あなたが偉いからではない。ただキリストの十字架の故だ。」と言われたそうです。

そして「あなたは今見た天国のことを多くの人に伝えなさい」と言われて、地上に送り返されたとのことです。天国に行ったという人の話は、けっこうあって、中には明らかに荒唐無稽な作り話もあり、また、そういうのは確かめようがないので、私は基本的には、その手の話は信じません。ただこの話は本当にそうだったのか、それとも幻覚だったのか、わかりませんが、うそをついているとは思えないような気がします。そして言われている内容は、聖書的です。つまり、人がどれだけ奉仕をしても、熱心に伝道しても、主のための最善の奉仕をしたとしても、人が救われるのはそのわざのゆえではなく、ただ仲介者であられるキリストのゆえだということです。ここがブレると、喜びが消えます。自分の功績ではなく、ただ完全なる仲介者、神の御子キリストによって、神に受け入れられ、永遠のいのちにあずかり、すばらしい天の御国に入れて頂けると知るとき、喜びがわき、キリストを喜び、慕う心が形作られていくのでしょう。そしてだからこそ、ローマ人への手紙12章1節はこのように教えています。新約p. 308そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。私たちも、自分自身を聖なる生きたささげ物として神にささげることが命じられています。神は、私たちが自分自身を神にささげて、神の御心に従う生活を送ることを望んでおられます。古い肉の性質を十字架につけて、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることを望んでおられます。私たちのささげる従順は、神の前ではみな、欠けだらけ、咎を負っているものであることは百も承知ですが、だからといってやらないのでなく、できるところから、みことばに従う、みことばを行う、御心に仕える。新約の時代は、そのような御言葉への従順が、神への霊のささげ物です。隣人を愛しなさい。赦しなさい。これらのみことばへの従順は、神に対する信仰によるささげものです。キリストを通してささげられるので、神がそれを受け入れてくださる。何と幸いなことでしょう。私たちは天の御国に入るためだけでなく、神を礼拝する生活のためにも、仲介者キリストを見上げて、支えられ、励まされるのです。

私たちの信仰生活のすべての天において、仲介者なるキリストにより頼むことの幸いを知ることができますように。