
神が、ご自身の子たちのために用意している天の故郷を望みとしつつ、今、置かれている所で、主の御心に仕える。
大祭司の装束に表されたキリストについての学び。3回目。復習になりますが、大祭司とは、神と人との間に立つ仲介者です。歴史が始まって以来のすべての人の、永遠の運命、他ならぬ自分の永遠の運命は、この仲介者にかかっていました。そんな途方もない重責を、人間に過ぎない者に負えるはずはなく、まことの、永遠の大祭司となられたのは、神に遣わされて、天から下って来た生ける神の御子イエス・キリストでした。神に対して罪を犯したのは人の方なのに、神の方が仲介者を立ててくださったのです。本当は逆でしょう?罪を犯した側が、仲介者を立てて、「どうか、赦してください。」とお願いするのが筋でしょう。それを神の方から、御子を仲介者としてお遣わしになったのです。そして、私たちにご自身のもとに帰ってくるようにと、招いておられるのです。神の親心と言いましょうか。その神のお心に思いを巡らしましょう。そして、その神のご愛をありがたく受けましょう。そのような神のお心に感謝しつつ、今日は大祭司の着た青服に注目します。以前、配った大祭司の装束の絵を参考にしてください。
「青服」と訳された元の言葉は「上衣」を意味するものです。通常、一番下に着るのが亜麻布の長服で、その上に着るものだったようです。この青服の上に、エポデ(エプロンのようなもの)を着ました。これは、青色の撚り糸だけで作るので、「青服」と訳したのでしょうか。確かに「上衣」よりこの方がわかりやすい気がします。一般的な「上衣」は、そでなしで、丈はひざが隠れるほどですが、ある場合には足首までの長いものもあったようで、ここではその長い方のものだったのでしょう。真ん中に頭を通す穴を開け、ほころびないように縁を付けました。通常は、一般の人は亜麻布の長服だけ来て、上衣を着るのは、身分の高い人が多かったようです。ここで特徴的・印象的なのは、青色の撚り糸だけで作るという点です。目の覚めるような青一色。大祭司の衣装は、エポデも胸当ても、金、青、紫、緋の4色と亜麻布で、腕のいい職人の巧みなわざで作られました。一番下に着る長服は真っ白な亜麻布だけです。ほかに一色だけで作られるものはありません。青一色とは、何か特別に強調したいことがあるのでしょうか。以前、述べたように、青は天を表しました。私たちの真の大祭司は、天におられることを表すのでしょうか。
地上で大祭司に任命されたアロンは、あくまでも天におられる大祭司を、地上で表す影のようなものに過ぎない。真の大祭司は天におられる。また、真の大祭司は天から来られる、ということをも表すのでしょうか。聖なる神と罪びととの間に立つ仲介者が、罪びとから出ることはありえません。仲介してもらう側の罪びとの一人が、まるで自分には罪がないかのように、神と罪びととの間に立って、神に向かって「なんとか彼らを赦してやってください。」などと言うことはできません。たとえその人が、「私のいのちと引き換えに、彼らの罪を赦してやってください」と申し出たとしても、その人自身が死すべき罪びとなのですから、誰かの罪を代わりに負うことはできません。その人自身の罪に対する報いを受けるだけです。だから、すべての人の罪を身代わりに背負って、罰を受けてくださる方は、罪のない方でなければいけないのです。それが、天から来られた生ける神の御子が、人となられたイエス・キリストです。青服は、イスラエルの民たちに、まことの大祭司を天に求めさせるためだったのではないかと思われます。<② すそにつけられたざくろと金の鈴(33-35節)
青服のすそ周りには青色、紫色、緋色の撚り糸で作ったざくろと、金の鈴を交互になるようにつけました。ざくろ、鈴、ざくろ、鈴と。空気の乾いたイスラエルでは、ざくろは貴重な果実で、いちじく、ぶどう、なつめやしのような甘いものが多い中に、ざくろはその酸味のゆえに清涼飲料として愛用されました。また、たくさんの実を付けることから、豊かさや生命の象徴とされました。ソロモンの神殿の装飾にはざくろが多く用いられ、またイスラエルの貨幣にもざくろの形を刻んだものがあるそうです。ちなみに、旧約聖書にはざくろに関する言葉が30回以上も出ているのに、新約聖書には1回も出てきません。ざくろと金の鈴が何を表すのかは、明白ではないようです。よく山登りをする人が、熊を遠ざけるために鈴をつけますが、あるところでは、悪霊を近づけないために、魔除けとして鈴を鳴らすということもあるそうです。しかしそういうことは聖書的ではありませんし、第一、大祭司が仕える場所は至聖所ですから、ここではまったくナンセンスです。一つの解釈は、これらが何かを思い出させるため、注意を促すためにつけられたというものです。
というのは、一般のイスラエルの民は、着物のすその四隅にふさを作り、そのふさに青いひもをつけるよう、命じられていましたが、それは彼らがそれを見て、主の命令を思い起こすためと言われているのです(民数記15:38以下、旧約pp.258-259)。では彼らは、このざくろを見て、何を思い起こしたのか、というと、ユダヤ人の伝承では、ざくろは神の戒め、神のことばを象徴するとされていたそうです。戒めというと、今日ではちょっと敬遠したいもののように扱われがちかもしれませんが、彼らは、神の戒めはよいものであって、人々に力と活気を与え、豊かさを与え、いのちをもたらすものと理解していました。詩篇19篇や119篇などを見ると、確かに神の戒めは、そのように良いもの、喜ばしいものとして記されています。毛嫌いしては、いけないのです。食わず嫌いはもったいないのです。ここでは、大祭司が主に仕えるとき、勝手なことをせずに、神の戒め、神のことばにくれぐれも従って行うようにということになるのでしょうか。他方、鈴は、その金属音により、注意を喚起する効果があるのでしょう。
ともかく、大祭司が至聖所で奉仕するときには、誤ると主に打たれるわけで、命がけでしたから、こうして最大限の注意を促されたのだという解釈です(35節)。そのような注意喚起の意味はあったのかもしれませんが、これは福音を表すものだったのではないか、とも思います。これまでも、青、紫、緋は福音を表す色でしたし、多くの種子が詰まっているのも、そこから多くのいのちー新しいいのち、まことのいのちーが生まれることを表しているようです。またざくろが、甘いだけでなく酸味もあって、清涼感があることも、福音にふさわしいように思われます。エペソ5:9、新約p. 379光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。そしてざくろに関わる言葉が、旧約ではたくさん出て来るのに、新約では一度も出てこないのも、旧約では象徴として、影として表されるに過ぎなかったのが、新約の時代になって福音が明らかになったため、象徴や影が消え去ったことに通じるように思われます。そして金の鈴が響かせる麗しい音色は、それこそ良い知らせ―福音が奏でる音色ではないでしょうか。それは、人の魂をまことの喜びで満たす音色です。
鈴は、風鈴のように音色を楽しむものもありますが、何かを知らせるという実用的な目的のもあります。授業の終わりを告げるチャイムは、解放をもたらす喜ばしい音。給食時間の到来を告げるチャイムは、喜びをもたらす音?福音は、人々を罪と死の牢獄から解放し、神のご愛で人の魂を満たすものです。「はるかに仰ぎ見る 輝きの御国に 父の備えましし 楽しき住処あり」新聖歌517番以前、アロンとその子たちと70人の長老たちは、神を仰ぎ見ました。その際、御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようだったとありました(24:10)。この青服は、アロンたちに、その光景を思わせたでしょうか。今朝は、青色で表される「天」というものが、リアルにあるということに心を留めたいと思います。まずは使徒パウロの祈りの言葉から。エペソ3:14-15、新約p. 3763:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。パウロが祈るとき、天にいる神の家族、すなわち先に天に召された兄弟姉妹たちのことも彼の意識のうちにあったのでしょう。天と地とにまたがる壮大な視野です。
地上からも、また先に天に召されて、今は天にいる愛する兄弟姉妹たちも、ともにただ一人の父なる神に祈るという、天と地の隔たりを超えた一体感がうかがわれるのではないでしょうか。天にある者も、地にある者も、ともに唯一の神を礼拝することのうれしさ。神と私たちの関係が永遠であるばかりでなく、兄弟姉妹方との関係も永遠なのです。パウロの視野には、すでに世の終わりに受け継ぐ御国の光景が浮かんでいたのかもしれません。歴史上のすべての兄弟姉妹がたが、ともに神を礼拝する光景が。そしてキリストを信じる者は、みな、天に国籍を持つ者です。今は、身を地に置く者も、国籍は天。ピリピ3:20、新約p. 387けれども、私たちの国籍は天にあります。…国籍は天ですから、やがて天に帰るのです。天が故郷。本来、いるべきところ、帰るべきところ。地上ではいわば旅人、寄留者というのが、聖書の教える地上での信仰者の位置づけです。ヘブル11:13-16、新約pp. 438-43911:13 これらの人々(アブラハム、イサク、ヤコブたち)はみな、信仰の人々として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。キリストを信じる者たちの故郷は、天にあります。そして天の父は、私たちが住むべき都を用意しておられます。この世がすべてではないということは、なんという慰め、望み、また支えでしょうか。死んだら終わり、ではないのです。その先があるのです。しかもそれは、神がご自分の子たちのためにと用意しておられる都です。私たちが、苦労多き世の旅路を終えた後、故郷で安息を得、慰めを得、喜びを回復するようにと、あらゆる良きものを用意して、待っておられることでしょう。最後にパウロの言葉を見ておきましょう。ピリピ1:23-24、新約p. 383
1:23 …私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。パウロは、今の世にいるよりも、天に召されてキリストとともにいるようになることの方が、はるかにまさっていると言いました。いつでも天に召される用意ができていたということです。しかし彼は、肉体にとどまるほうが、まわりの兄弟姉妹方のためにはもっと必要だと言って、神が自分を地上に置いている間、精一杯、なすべき務めを果たし、人々に仕えました。このバランス感覚を見習いたいものだと思います。天こそ、わが故郷と心に定めて、天に望みを置きつつ、むしろ待ち望みつつ、今、置かれている所で主のために、周りの人たちのために、何かできることを精一杯させて頂く。それこそコップ一杯の水でも、福音宣教のために労している人のためにあげるなら、決して報いに漏れることはないとの、イエス様の言葉に励まされて。