礼拝説教要旨 2023年6月25日
胸当ての十二個の宝石
(出エジプト記 28:15~30)
今日の要点

私たちは、考えられないほどに神にとって高価で尊い存在であることを心から確信する。

はじめに

前回から、大祭司の装束に表されたキリストについて学んでいます。大祭司とは、神と人との間に立つ仲介者です。当時はアロンが大祭司に任命されましたが、単なる人間に、というより罪びとに、その任が務まるはずもなく、実は、それは神と人との、永遠のまことの仲介者、罪なき生ける神の御子イエス・キリストを指し示すものでした。歴史が始まって以来のすべての人の、永遠の運命、すべての被造物の運命は、この仲介者にかかっていたのです。そんな途方もない重責を、人間に過ぎない者に負えるはずがありません。大祭司に任命されたアロンとその子孫は、イエス・キリストが来られるまで、キリストを指し示し、救いの希望をイスラエルの民に与え、イエス・キリストを待ち望ませるために立てられたのでした。そしてキリストは事実、今から約二千年前に、仲介者としての務めを完全に果たされました。私たちの永遠のいのちは、自分の力にかかっているのでなく、仲介者に全部かかっています。だから、心の底から安心できるのです。私たちの仲介者は完璧です。神ご自身が与えてくださった仲介者、罪なき神の御子なのですから。そのキリストを表す大祭司の装束。前回のエポデに続いて、今日はさばきの胸当てです。

一読して、様々な宝石が金のわくにはめられ、さらに純金の鎖でつながれ、と豪華絢爛です。ちょっと成金趣味…?と思いきや、そこには別な意味が込められていたのでした。

① さばきの胸当てのウリムとトンミム (15-30節)

さばきの胸当ての外観については、お配りした写真を参考にしてください。一応、言葉で説明すると、材料はエポデと同じく金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布で、まず長方形の布を作ります。それを真ん中で折って、一辺約22センチの正方形にします。折ってできた内側、袋状の部分に「ウリム」と「トンミム」というものを納めます(30節)。これについては、材料、形状等、何もわかりません。ただ、神の御心をうかがうために用いられる道具だったようです(民27:21、旧約p.283、Ⅰサムエル28:6、旧約p. 518)。ちなみに、ウリムとトンミムは、古代のギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)では「表明と真理」、ラテン語訳聖書(ヴルガーダ訳)では「教えと真理」と訳されています。後の時代になって、預言者が現れると、使われなくなったと言われます。「さばきの胸当て」と言いますが、ここの「さばき」は、いわゆる裁判のことではなく、「治める」ことを意味するようです。聖書では「さばく」という語は、裁判のように「裁く」ことを表す場合と、それも含むけれどももっと広い意味で、国や民族を「治める」ことを表す場合があります。

モーセの時代、イスラエルが重大な決断をするとき、ウリムとトンミムを用いて、主の御心を伺ったのでしょう。それで、主がイスラエルを治めるべく、御心を告げるものということで「さばきの胸当て」というのでしょう。今日ではウリムとトンミムのようなものはありませんが、重大な決断をなすとき、神の御心を仰ぐということは、やはり大切なことです。人間には先のことはわかりませんし、今のことだって知識は限られています。わからないことはたくさんあります。何が神の御心にかなったことなのか、知るためには、聖書に親しむことが有効です。神がどういうことを望まれ、喜ばれ、どういうことを忌み嫌われ、憎まれるのか、神はどのように物事を導かれるのか、このように行動したら、その結果、どうなるのか、あのように行動したら、どうなるのか、神の定めはどういうものなのか、などなど、聖書を何度も読み、親しむことで、わかってくることがあるでしょう。聖書はそれらの生きた実例集です。そして大きな決断をするときに限らず、日々のデボーションで、主の御前に祈りのときを持つことも、大切なことです。

特に、お願いする祈りというより、主の祈りを一つ一つ、自分に適用して、思い巡らしながら、丁寧に祈ることです。ただ唱えるのでなく。そのように主の御前でなされる瞑想は、聖霊の働かれる機会となり、思いが導かれていくように思います。そのように用いるなら、主の祈りは、私たちの日常生活を守り、御心にかなって導いてくれるものとして、とても有効です。そしてそのあとで聖書を開くと、必要な御言葉によって戒めを受けたり、励ましを受けたりすることがしばしばあります。<② 宝石に十二部族の名を刻み (17-28節)さて、そのようなさばきの胸当てですが、パッと見て目を引くのは、何と言っても、表側に飾られた12個の宝石でしょう。横に3個ずつ並べて、4列に取り付けます。17‐20節に12種類の宝石が挙げられていますが、元のヘブル語がどの宝石を指すのか、正確にはわからないものも多く、訳によって違うものがけっこうあります。なので今は、色といい、模様といい、いろんな種類の宝石があったことをおさえておけばよいでしょう。赤いのもあれば、青いのもあり、緑色のもあり。透き通ったのもあれば、濁ったのもあり、一色のもあれば縞模様になっているのもあり…。

この個性豊かな12個の宝石に、イスラエル十二部族の名前を彫ります。一つの宝石に一つの名前を彫ります。そして大切に金のわくにはめ込まれ、またずり落ちないように上は純金の鎖で肩当てと結ばれ、下は青いひもでエポデに結び付けられて、大祭司の胸に固定されました。胸当ては、大祭司の装束の中で最も「栄光と美」に輝くものだったでしょう。大祭司はキリストを表していました。私たちはひとりひとり、あたかもその名を、美しく尊い宝石に刻まれ、金のわくにはめられているかのように、天の至聖所で父なる神の御前に、大切に覚えられているのです。愛でられているのです。自分が、天地の造り主なる神にとって、これほど高価で尊い存在だったとは、夢にも思いませんでした。それも、私たちが何をしたから、かにをしたからではない。存在そのものが神の御目に尊いのです。前回も言いましたが、イスラエルの祖ヤコブという人物、それに十二部族の祖となった十二人は、彼らには申し訳ありませんが、決して聖人君子ではなかったと言わざるを得ません。以前、創世記で見た通り、ひどい失敗をし、罪深くもありました。もちろん、罪は罪として裁かなければなりません。事実、裁かれます。

主は彼らを懲らしめ、痛い思いをさせることもありました。しかし、彼らの存在自体は、いつだって神にとって高価で尊いものだったのです。純金の鎖につながれ、金のわくにはめ込まれた12個の様々な輝きを放つ宝石。一番目立つところにある豪華絢爛な胸当ては、大祭司自身を飾りたてるためではなく、愛する民を表すためのものでした。成金趣味ではなかったのです。あたかも、神が愛する我が子たちの名を刻むのに、高価な宝石に刻み、金のわく、純金の鎖をつけて、「あなたはわたしにとって、このように尊い存在なのだよ」と、彼らにわかりやすいように視覚教材としてくださったかのようです。イザヤ書43:4(旧約p. 1194)の主のみことばを読んでおきましょう。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…

③ 絶えず胸の上に (29-30節)

もう一つ、心に留めたいことがあります。29-30節「アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず【主】の前で記念としなければならない。さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが【主】の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず【主】の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。」胸当てですから、胸のところにあるのは当然。言わなくてもよさそうなものです。それをあえて何度も繰り返して、強調しています。何かアピールしているかのようです。胸にあるとは、心にあることを表します。十二部族の名が刻まれた宝石が大祭司の胸にあるとは、いわば、私たちひとりひとりの名が、キリストの心の中にあるということ。それも、高価で尊い宝石のような存在としてあるのです。みなさん、自分が宝石のようなものとして、キリストの胸に抱かれて、天の至聖所の父なる神の御前に覚えられていることを、想像してみてください。信じられないかもしれませんが、私たちはひとりひとり、キリストにそのように大切にされているのです。父なる神も、喜んでそれをご覧になっておられるのです。

イスラエルの子らに対する神のさばき・神の御心は、これなのです。キリストは大祭司として、この胸当てを父なる神の御前に携えて出て、あなたが私にお与えになった彼らを、わたしは自分の血をもって贖い、あなたの御前に連れてきました。わたしたちが愛する彼らを取り戻しました、と仰っているかのようです。「 心に主の愛 溢れて歌う 」新聖歌 352聖書は、一方ではすべての人は罪びとであると指摘します。義人はいない、一人もいないと断じます。と同時に、聖なる、義なる神が、私たちを愛しておられる、それも私たちが自分では考えられないほどに、この上なく愛しておられると宣言しています。私たちは、自分で思っている以上に罪深い、けれども同時に、夢にも思っていないほどに、神に愛されている。これが聖書の語っているメッセージです。神は元々、人をご自身に似せて、神の似姿にお造りになりました(創世記1:26-27)。元々、神の似姿なのですから、尊いものとして造られたのです。ここをおさえておきましょう。これが私たちの本来の姿です。ところが、サタンのウソにより、人は神に背き、罪あるものとなってしまいました。神のかたちは大きく損なわれ、罪と汚れにまみれてしまいました。

サタンのウソは今も世に響いています。お前は神に愛されていない、価値のない者だと。それはサタンの大ウソです。耳を傾けてはいけません。人が神に背いて、罪ある者となってしまっても、それを悲しみこそすれ、人に対する神の愛は変わらない。むしろ愛する者が罪によって苦しめられ、サタンのウソによって自分がどれほど、どれほど神に愛されているか、神にとってかけがえのない、尊い存在なのか、わからなくなってしまっているのをご覧になって、あわれみがあふれずにはいないのです。それゆえ、神は御子を遣わし、私たちに罪の赦しを与え、神のかたちを回復される道を開かれました。エゼキエル28:13(旧約p.1407)には、エデンの園にあった宝石が9つ記されていますが、それはすべて、ここに書いてある宝石と一緒です。つまり、罪が入る前にエデンの園にあった宝石が、大祭司の胸にあるのです。これは、人間の本来の姿、神の似姿に回復した姿を表しているようにも思えます。あなたは本来、今ある状態ではない。罪にやられて、サタンの偽りにやられているだけ。あなたは、本当は神の御前にこういう者なのだと。キリストは、私たちの本来の姿を回復してくださいます。完全な回復は、天においてです。

神は私たちに、自分が愛されている子であると確信してほしいと望んでおられると思います。親として、愛するわが子、尊いわが子が、自分はダメだ、価値がない、愛されていないと思っていたとしたら、親は悲しいでしょう。神は私たちに、自分が神の目に高価で尊い、愛されている子であることを確信してほしいと願っておられます。自分みたいな者が…、と思わずに。また、私たちは厳しい試練にあったとき、神の愛を疑ってしまうかもしれません。しかし、そういうときこそ、忘れてはいけません。私たちは、大祭司の胸当てにある宝石のように、キリストの胸に大切に抱かれて、神の御前にいることを。私たちは、そのように神の愛を確信するべきです。使徒ヨハネは、自分のことを「イエスに愛された弟子」と記していました。私たちもそのように言ってもよいのです。この確信こそが、私たちを神の似姿に造り変える力なのかもしれません。エペ 5:1、新約p. 378ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。神の目に高価で尊く、愛されているのは自分だけでなく、私たちの隣人も同じです。キリストを信じてキリストのものとなった兄弟姉妹はみな、神の目に同じように高価で尊く、愛されています。

私たちは、そのような目で隣人を見る必要があります。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさいとは、神が、私と同じように、私の隣人をも愛しておられるからではないでしょうか。