礼拝説教要旨 2023年6月18日
彼らの名を両肩に負い
(出エジプト記 28:1~14)
今日の要点

神の子どもたちの名は、ただキリストにあって、常に神の御前に大切に覚えられている。

はじめに

前回まで幕屋に表れているキリストを8回にわたって学んできました。幕屋はそこでいったん終わり、今日のところは、大祭司の衣装です。と言っても、これまで同様、ここでも衣装そのものを学ぶわけでないことは、もはや言うまでもないでしょう。2節には「栄光と美を表す聖なる装束を作れ」とありますが、古代イスラエルのファッションを学ぶわけではありません。大祭司の衣装に表されたキリストを学ぶのです。聖書は、キリストを中心に読むという視点を持つことが、大切です。ヨハネ5:39、新約 p.183あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。どんな本でも、漠然と読むよりも、特定の視点をもって読むことで、理解ができ、得るものがあるのではないでしょうか。聖書は、どの個所も、ここはキリストとどういう関係があるのだろうか、キリストの何を教えているんだろうか、という視点で読むと、霊益多大です。大祭司とは、神と人との間に立つ仲介者の役割の人です。とても大切な役割です。神と人との間に立つ仲介者ですから、大祭司はこの点でキリストを表します。

キリストは、聖なる神と、滅ぶべき罪人との間に立って、ご自身の血を注ぎ出して、ご自分を罪のためのいけにえ、また全焼のいけにえとして捧げ、神と人との間の和解を成し遂げてくださった、永遠の唯一の大祭司です。第一テモテ2:5 新約p.407神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。「キリスト教」の中心は、ある意味では、この「仲介者」にあるとも言えます。歴史が始まって以来の、すべての人の永遠の運命は、この仲介者にかかっているのです。仲介者だからと軽く見るのでなく、聖書は、この仲介者にこそ、目をとめよ、よく見つめよ、そしてこの仲介者に従いなさい、と徹頭徹尾、仲介者であるキリストを指さしています。父は、最愛の御子に栄光をお与えになり、ご自身も、御子によって栄光をお受けになるのです。ですから、祭司職はある意味、幕屋以上に直接的にキリストを表しています。この29章も私たちはキリストを求めて、読み進んでいきたいと思います。

① 主の召し (1節)

1節以下、主なる神がモーセに語られた言葉です。主はご自身に仕える祭司として、モーセの兄アロンとその子孫を指名されました。主に仕える祭司は、主がお決めになり、取り分ける。それは生まれながらに定まっているもので、努力によってどうにかなるものではない。ただただ神の側からの一方的な選びとしか、いいようがありません。もちろん、アロンたちが完全な人だったから、ということではありません。このあと、アロンは、大失態を演じてしまいます。使徒たちが、イエス様を見捨てて逃げたのに匹敵するような大失態です。アロンも使徒たちも罪びとでした。しかし、それでも彼らの召しは変わりませんでした。彼らは赦され、悔い改めて、アロンはその後も大祭司として主に仕え、使徒たちもキリストに仕えました。主の召しは変わらないのです。何があっても。主が召したということは、そういうことです。そしてそれは今日、キリストを信じる者たちにも言えることです。私たちはみな、キリストによって召された者たちです。神は、キリストを信じる一人びとりを、御国を受け継ぐ者として召しています(エペソ1:14,18、新約pp.373-374)。

御子の似姿に造り変えられる栄光に召しています(ローマ8:28-29、新約p. 302)。それは、私たちが神に愛されている者だということです(ローマ1:6-7、新約p. 289)。神は自由な御心のままに、愛する者を召されます。その召しは、どんなことがあっても、また人間の側の弱さ、罪深さによっても、変わることがありません。神の召しとは、そういうものです。

② 大祭司の衣装の栄光と美 (2-5節)

2節に「アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」とあります。これは大祭司のための装束ということ。「大祭司」はアロン一人だけです。アロンの子たちはみな「祭司」となります。ちなみに、「祭司」の装束は質素で、40節以下、簡潔に記されます。大祭司だけ、特別に「栄光と美を表す聖なる装束」だったのです。前述のように、アロンも罪びとです。栄光にも美にもふさわしいものではありません。そんなアロンのために「栄光と美を表す聖なる装束」を作るのは、大祭司がキリストを表すものだからです。アロンのすばらしさでなく、キリストのすばらしさを表すために、栄光と美を表す装束が用意されます。この衣装を作るには、高度な技術と知識が必要だったと思われます。そんな技術を持った人がいるかな、、、元々エジプトで奴隷として、レンガ造りならできるだろうけど…と心配は無用。主にぬかりはありません。主が知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちを備えてくださいます。そして大祭司の装束として4節に、胸当て、エポデ…と6つ挙げられますが、これらを作るのに必要な材料として、民がささげる金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布などを受け取ります。

それぞれの色の意味は前にも言いましたが、金は、神の臨在を表します。青は天、また慈しみと真実、紫は王、緋色は血を表し、真っ白な亜麻布は神の義や聖さを表します。どれもキリストを表します。ところでこの大祭司の装束の栄光と美とは、どういう栄光、どういう美なのでしょう。美は、麗しさとも訳されます。それはいわゆるこの世の栄光や美しさとは違います。イザヤ書53章では、キリストについて「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」とあります(イザヤ書53:2、旧約p.1214)。ですから、肉の目で見ていては見えない栄光、また美なのです。視点を変えてというか、霊的な目を開いて見つめて、初めて見え、迫ってくる栄光と美あるいは麗しさです。それは、キリストの十字架に表れている栄光と美、麗しさだと思います。私たちを愛し、私たちのために、私たちの罪を背負って、身代わりに苦しみを受け、恥を受け、傷を受け、肉を引き裂かれて、そのすべてを耐えてくださった神の御子。ただ私たちのために…。

全宇宙を造られた神の御子ですから、そんなことは避けようと思えば、いくらでも避けられたし、十字架から降りようと思えばいつでも降りることができました。けれども、御子はそこに留まり続けてくださった。なぜか。そうしないと、私たちが救われないからです。滅びに至るからです。御子キリストは、ただ私たちを愛し、私たちのために、十字架に留まっておられたのです。キリストを十字架につけていたのは、釘ではなく、私たちに対する愛なのです。そのことに目が開かれたときに、十字架にかかられているキリストの姿が、まったく変わって見えてきます。がぜん、神の栄光と麗しさとして迫ってくるのです。それはまた、正義を露ほども犠牲にせず、妥協せず、完全に正義を貫いて、私たち罪びとをお救いになったという点で、栄光と美を表すものだったでしょうか。愛、愛と言って、正義を犠牲にする、そっちには目をつぶる、というのでなく、ご自身の死をもって正義を貫いて、私たちをお救いになった。そこに、キリストの栄光と美が表れているように思われます。このキリストのお姿を心の目で見てこそ、私たちの良心が息を吹き返し、生かされる。そして神の似姿が回復し、真のいのちに至るのでしょう。

キリストの十字架を折に触れて思い巡らし、そこに表されている神の栄光と美を見る目を養われたいと願わされます。

③ しまめのうに刻まれて主の前に覚えられる12部族の名(6-14節)

さて、大祭司の6つの装束のうち、最初にエポデについて記されます。エポデとは、原語「巻く」からきた語で、もともと腰に巻く前掛け、エプロンのようなものを意味したと思われます。詳しくは、お配りした絵をご覧ください。ここで注目したいのは9-11節。エポデの肩のあたりにつけた肩当てです。大祭司の両肩には、二つのしまめのうの石が付けられ、その石にイスラエル12部族の名を刻むよう、命じられました。「二つのしまめのうを取ったなら、その上にイスラエルの子らの名を刻む。その六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、生まれた順に刻む。印を彫る宝石細工師の細工で、イスラエルの子らの名を、その二つの石に彫り、それぞれを金のわくにはめ込まなければならない。」刻む、彫ると繰り返し念を押されています(9節「刻む」も11節「彫る」も、原文は同じ語)。イスラエルの子らの名を、しまめのうに刻むことが強調されているようです。いとおしいわが子の名を刻むように。主なる神がイスラエルの民をいとおしんでおられるのが、うかがわれるような気がします。しかも、それは金のわくに大切にはめ込まれます。さらにその金のわくには、純金の鎖で撚ったひもをつけるのです。

めのうは、石英の微小な結晶が集まって形成されるもので、その美しい色彩のため、古くから人の目を引き、飾りに用いられたそうです。そのめのうのうち、切断面に白と黒の色帯が平行または多少波状の美しいシマ模様を表すものを「しまめのう」と言うそうです。その美しい宝石に、彼らの名が刻まれました。それだけではありません。めのうは、硬度が高く、ナイフでひっかいても傷がつかない。ナイフの方がいたむそうです。それだけ硬いものに名前を彫るというのは、相当高度な技術が必要だったと思いますが、しかしあえて、その硬い、硬いしまめのうにイスラエルの子らの名前を彫ったのです。ナイフでひっかいても傷がつかないくらい硬いということは、そこに彫られたイスラエルの子らの名は、傷がつかない、摩耗して消えてしまうこともない、いつまでもそのまま残る、ということでしょう。しまめのうに刻まれたイスラエルの子らの名前は、いつまでも消えずに、そこにある。これは、永遠性を表すのでしょう。大祭司は、このイスラエルの12部族の名が刻まれたしまめのうを肩に負って、至聖所の神の臨在の前に出ます。神は大祭司の肩にあるその名をご覧になります。

同様に、真の仲保者なるキリストは、キリストを信じる私たち一人びとりの名を携えて、天の真の至聖所で、神の御前におられます。キリストが神の御前に携えておられる名は、永遠に変わることも、消えることもありません。キリストにあって、常に、またとこしえに、神の御前に覚えられているのです。「 主のものとせられし わが身こそ幸なれ 」新聖歌 266こんなに大切にされたイスラエルの12部族の名ですが、以前、創世記で見たように、イスラエルの12部族の祖ヤコブも、その12人の子たちも、決して聖人君子ではありませんでした。失敗もあり、罪深くもありました。それでも、彼らの名は尊く硬いしまめのうに刻まれて、大祭司によって至聖所に携え入れられ、神の御目に覚えられていました。神に忘れられることは決してありませんでした。地上の歩みは、必ずしも良い時ばかりではなく、ときには、主は私を忘れておられるのではないか、と感じることもあるかもしれません。しかし、そんなことは決してありません。完全な仲保者であられるキリストが私たちの名を携えて、天の神の御前におられるので、どんなときにも私たちの名は神に覚えられています。キリストによって、私たちの名は天に書き記されました。

ルカ10:20…だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」天にはいのちの書なるものがあると言います。そこに名を記されている者が、永遠の御国に入ることができます。そこには、神の民の名が一人も漏らさず、記されています。大人も、子どもも、赤ちゃんも。神の民の子らの名は、大切にいのちの書に記されています。不確かな世にありながらも、永遠に至る神の確かな守りを保証する天の書―それは神の永遠の愛を保証するものでもありますーに自分たちの名が刻まれていることを思い、喜びたいと思います。