今日は礼拝一回です。一回に集中してみことばにしっかり耳を傾けたいと思います。前回はイースターでした。今朝は2月からイエス様の語られたことばに耳を傾けたいといいました。その続きになります。主の日の礼拝につどう私たちの大半は神様がおられることを知ったものたちであります。知っただけではなく神様の前に罪あることを気づかされて罪あるままでは滅びに至ることをしって信仰に導かれた経緯があります。そのような信仰が聖書が教えているならば自分も従いたいと思いながら主の日の礼拝として集まっているのだと思います。自分自身に罪があることを気づかされ神様が救い主イエス・キリストをつかわしてくださっていることを信じて滅びからいのちにうつされる救いの恵みにさずかったことを覚えたうえで神様の前にでているはずですが、その喜びは私たちが思っている以上に大きいものだと思わされます。今日お読みした箇所は案外私たちが大きな恵みを見失っているのではないかという警告です。イエス様は十字架に向かって歩んでいました。身代わりの死をはっきりと自覚しておられたのですが多くの人に救いの恵みをあたえることをわかっておられたのですが
罪許される幸いを忘れることがあるのだと気づいておられるのだという気がします。マタイの福音書を読み進むときにペテロが16章16節であなたこそキリストですと信仰を言い表した箇所があります。そのはっきりとした信仰告白に導かれたこととして十字架で身代わりの死をとげることを告げられています。弟子たちの信仰が明確になったことによって苦しみをうけて十字架で死なれ三日目によみがえられることを語っておられます。神さまご自身の栄光に輝く場面があります。イエス様ご自身は山で栄光の中でご自分が世に来られた意味はなんなのか。父なる神様は何を意図しておられるのかを確認しておられるようです。山をおりてから人々の前にたつ。そしてガリラヤ地方でエルサレムでの受難を語られます。マタイの福音書はそのような順序でだんだんだんだん十字架が鮮明になっていきます。17:22 23節弟子たちはそれを聞きながら三日目によみがえられることはうわの空で聞き流していたのかなと思われます。十字架が世に来た一番の目的だと繰り返されるのです。弟子たちは天国では誰が一番えらいのかという質問をします。聖書を読んでいて気になることのひとつに弟子たちが誰が偉いかを聞くんですね。
こういう質問というのは私たちの普段の生活の中でもしょっちゅう降りかかってくる質問のような気がしてなりません。この中で誰が一番えらいのか。小学校でも一番偉いのは校長先生だと浸透してしまって。そういう考え方そのものが間違っているとイエス様はなんとかして教えようとしておられます。小さい子を真ん中にたたせて、子どものように身を低くするものが天の御国で一番えらいと語られます。心を低くすることこそが神様が求めておられることだと語っておられます。私自身もクリスチャンとして歩む中で悔い改めるこころをもつこと、心を低くすることはなんとしても大事なことなんだろうと思います。その後 羊飼いのたとえがあります。失われたひとりがたちかえること。罪を犯した者が悔い改めに導かれることを神様は願っておられそのために教会の交わりがあるという教えがずっと続きます。そのなかで、今日の箇所があります。私自身も学びながらイエス様と弟子たちがいろんな教えを聞きながら従っていったのだろうなと。そのなかでペテロが、兄弟を何度赦すのかと聞いたのだろうなと浮かんできます。ペテロ自身、イエス様が罪を犯した者の赦しについて語っておられる。
イエス様が罪びとの赦しのために世に来られたと理解していたのだと思います。悔い改める者に赦しを与えることをある程度わかりつつあったのだと思います。そうなのですが現実生活にあてはめてみると果たしてそんなことができるのだろうか。ゆることができるのだろうかと現実問題としてせまっていたのだと思います。イエス様は赦しなさいとおっしゃっている。ユダヤ人の指導者は赦すのは三度までだと説いていました。イエス様は7度までとおっしゃっていたんですね。ペテロはそれを覚えて自分自身の解釈もふくめて、聞いています。イエス様が七度とおっしゃったことに何かひっかかりがあったのでしょうね。ですから7度まででしょうかと訊ねます。イエス様の教えの中心は本当の意味での赦しは無限なのだということ。七度までとか7度の70倍とかではない、赦しは無限なのだとおっしゃったのだと思います。それを聞いた弟子たちはどんな思いだったでしょうか。私たちはどんな重いでしょうか。昔映画で7の70倍の491でそういった映画がありました。どうでしょう、堪忍袋の緒が切れるとか我慢の限界とかイエス様はそんなペテロのこころを見透かすようにして王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。イエス様は非情にはっきりと天の御国は地上の王にたとえることができるとおっしゃっています。1万タラントの負債がどのくらいのものなのか1デナリは当時の一日分の労賃。1タラントは6000デナリだと書いています。6000デナリとは6000日分の報酬。最近は電卓があるんで簡単ですが10000タラントとは6000デナリの何倍か。それを割り算して何日分かとなると分からなくなるのですが、ようするに数えきれない・計算しきれないくらいの巨額負債でそのものが王のところに連れてこられて当然のように彼はご猶予くださいといっていますが全部お払いするその可能性はほとんど0です。どんなにがんばっても返せないくらいの負債だとわたしたちも理解しなければなりません。ここに人間の神様に対する罪が大きいのかがある意味こめられています。わたしたちの罪深さはなにをどう逆立ちしても返しきれない負債なのだと。
私たちが罪を赦されるのは このしもべが1万タラントの借金を免除されたのと同じくらいのこと。イエス様が代わりに返してくださったのだと聖書全体を通して理解しなければならないことです。18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。100デナリは100日分の労賃ですので私が自分でわかるように調べたのは大工さんとかの日当は1万円という時期がありました。だとしたら100デナリは100万円でいいのだなと。100万円だったら、なんとかしたら返せるかもしれないと分かるのですが、このしもべはどうしたかというと18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。赦された自分であると彼は理解しなかったようです。自分の仲間が100デナリの金をかえせないその仲間を許さないで牢に投げ入れた。そうしたことは当然のように見ていた人から王に告げられることになるのです。18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行
って、その一部始終を主人に話した。18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。この例えが意味していることは明確です。イエス様がおっしゃろうとしたことは明白です。18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」私たちはこのたとえ話を ただのたとえ話として読み過ごしてはならないのだと思います。あなたがたは互いに許しあいなさいという勧めではないということを覚えておきたいです。広い意味では互いに許しあいなさいというところに行き着くのですが心から兄弟を許さないなら・・とイエス様はおっしゃっています。イエス様は警告を発しておられると理解すべきです。私たち自身が罪の赦しをいただいたものたちだということを決して忘れないようにとイエス様が一番言いたかったこと。私たち神の民とされたひとりひとり
とてつもなく大きい罪をイエス様の十字架のみわざによって赦していただいたのだと忘れないようにしたい、イエス様の教えを知るときに思い知らされるように心に迫ってきます。10000タラントという負債大きさを私自身理解しきれていないなと思います。実感として到底払いきれない・償いきれない額の負債だとわかっていないなと思います。私たち自身の神様の前での本当の姿を考えるときに神様の前での負債の大きさはどのくらいなのかと時々おぼえなければならないと思います。私は教会に仕える働きをさせていただきながら罪の大きさをどうゆうふうにして自分で理解して伝えることができるのかうまくできなかったと繰り返し反省させられています。全的堕落ということについてお話しましたが私たちの罪の大きさは神様がよしとされるものを全くもっていないということを理解する・伝える難しさを経験してここまで来ました。人間のなかによいものが残っていたとしても神様がよしとされるものは何もないのだと教会にきていきなりあなたは罪びとだと言われて教会にくるのをやめた・・という話を聞いたことがありますじゃあどう理解して罪を伝えたらいいのか。いまだに解決はないのですが10000タラントの負債は、
神様の前の罪の大きさを理解するためのたとえなのではないかと。王様が清算をしたいと思ったときに連れてこられた。王様が清算しようとするまでそんなに負債があることに気づかずに過ごしていた。私自身も神様の前に罪があることに気づかずに過ごしていた幸いにしてちいさなころに信仰に導かれたのですが神様に気づかせていただかない限り気づくことができない自分のちからでいきていくことができるそういう罪の状態だったのだと。聖霊なる神様がわたしたちのこころを照らしてくださって十字架の前につれていってくださったのだと。神様ご自身の憐れみによって罪をゆるされたのだと罪許される幸いは途方もない神様からの恵みなのだということです。途方もない幸い、これをいつも喜び感謝して歩むこと天の御国へむかっていく地上の歩みなのだと理解したいと思います。聖書の中に警告といわれる教えが繰り返しいわれています。私たちは主の祈りを祈っています。私たちも負い目のある人たちを赦しました。と祈ることは難しいことです。自分が赦すのが先なのか後なのか新改訳では まず私たちの負い目をお許しくださいと祈っていますが新改訳2017では 赦します・・と訳しています。
これからの歩みの中で私も赦します。と赦された者たちが赦しの恵みを知って赦す歩みをすることが課題なのだと。あなたがたも赦さなければ神様は赦してくださいませんよと語っています。私たち自身が十字架のイエス様のみわざで赦されたことを感謝して途方もない大きな幸いなのだと覚えて地上生涯を生きることが大事です。