礼拝説教要旨 2023年6月4日
幕屋の庭
(出エジプト記 27:9~21)
はじめに

幕屋に表れているキリストを学んでいます。その8回目。この27章で、いったん幕屋は終わります。今朝は幕屋の庭についてです。写真を週報の裏に載せました。見るからに殺風景です。しかし、そのことから浮かび上がってくるメッセージがありました。

① 幕屋の庭の作り (9-15節)

前回見た祭壇、それにその少し奥にある洗盤(祭司が聖所に入る前に手足を洗うところ)、そしてその奥に神の御住まいである聖所・至聖所の建物。これらの周りをグルリと掛け幕で囲みます。その囲ってある所のうち、建物以外の所が庭です。掛け幕は東西が100キュビト(約44m)。南北が50キュビト(約22m)。これは講壇の後ろの壁から奥の部屋の奥の壁までの幅で、線路の方向にずーっと行って線路を少し超えたあたりまでの大きさです。この広さを掛け幕で囲みます。幕は亜麻布で作ります。真っ白な亜麻布は、聖さや義を表します。幕の高さは5キュビト(2.2m)で、これはだいたい今月の月間聖句が書いてある紙の上の方までの高さです。この幕を掛けるための柱をおそらくアカシヤ材で作り、これを立てるために青銅で台座を作って、5キュビトおきに一個ずつ配置します。10節の「帯輪」という日本語は、調べてもほとんど出てこないようで、2017版は「頭つなぎ」、口語訳、新共同訳は「桁」と訳しています。柱の頭の部分に銀をかぶせて、それを隣の柱の頭とひもか何かでつなぐようです。気になる方は、礼拝堂入り口に貼ってある図をご覧ください。

周囲の掛け幕の長さは、入り口を除いて280キュビトになります。これを280日ととって、赤ちゃんがお腹の中に宿っている期間ということで、人はこの幕屋に入ることによって新しいいのちが始まることを象徴していると取る向きもあります。つまり、幕屋がキリストを表しているので、キリストを信じて、キリストの交わりの中に入ることによって、神とともにある新しいいのちが始まると。人は二回生まれるチャンスがあります。最初にオギャーとお母さんのおなかから生まれること、そして御霊によって新しいいのちに生まれること。すなわち、キリストを信じることによって、新しいいのちの歩みが始まることです。その神とともにある新しいいのちは、永遠のいのちです。

② 庭に入る門(16-19節)

庭の掛け幕は、東側に20キュビト(約8.8m)の幅の入り口があります。その入り口にも青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布を使った幕がかけてあります。入口が東側に置かれたのは、かつてエデンの園で、アダムたちが神に不信の罪を犯したとき、エデンの園の東から追い出されたことに由来しているのでしょうか(創世記3:24)。神との交わりに戻るときは、東側にある門から入り、祭壇、洗盤、聖所、至聖所へと西に向かって進むことになります。入り口は、この一か所のみ。他のところから入ることはできません。世界を造られた唯一の真の神に受け入れられるための入り口も、ただ一つ、イエス・キリストだけと、聖書は教えています。第一テモテ2:4-6、新約p. 4072:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。キリスト様も信じているけれども、他の宗教も拝んでおかないと…はいけません。それは第一戒に対する違反、最も重大な罪です。

日本人は「すべての道は神に通じる」という考えが好きです。自分たちが信じている神以外に、救いがないというのは、独善的に思われがちです。これは民族性が多分に影響しているのでしょうが、一つには、宗教というものに対する誤解があるのではないか、と思われます。もし、宗教が、人が幸せを感じるためとか、心の拠り所とするためだけにあるなら、人の数だけあっても不思議ではありません。しかしこれが真理の問題であるなら、そうではありません。たとえば、100-50=50は真理です。これに対して、いや、俺にとっては100-50=10だと言っても通らない。100円で50円の買い物をした人に、10円しかお釣りを渡さないということはできません。また自然界には重力の法則という真理があります。いや、俺にとっては重力などない、と言ったところで、重力から免れることはできません。木に登って枝が折れたら、重力を認めない人も木から落ちます。気持ちの問題ではなくて、真理の問題だからです。世界を創造した神がおられること、罪、裁き、救い、永遠のいのち、天国、地獄。これらは気持ちの問題ではなくて、真理問題。事実か否かの問題です。俺は信じないと言う人も、最後は真理の通りになるのです。

聖書の信仰は、好き嫌いの問題ではなく、真理かどうかの問題です。私たちは、キリストが真理だと信じています。神が与えた救い主は、イエス・キリストただおひとり。もしほかに救われる方法があるなら、神は最愛の御子を十字架につけることはなさいません。ところで、幕屋のまわりは高さ2.2mの掛け幕で囲まれ、入り口にも幕が掛けられましたから、普通の人は外から中は見えません。ここから思いつくことは、中に入ってみないと、見ることのできない光景があるということです。門をくぐって、初めて見えてくることがある。キリストを信じて、キリストという門をくぐって、初めて神との交わりの世界が開ける。幕をくぐって新しい世界に足を踏み入れるのは、勇気のいることですが、しかしその幕をくぐって中に入ったときに、神とともに歩む、新しい世界が始まるのです。

③ ともしびのための純粋なオリーブ油(20-21節)

次の28章以下、祭司について記されますが、ここではその祭司の務めの一つ、聖所の燭台に油を切らさず、ともしびをともし続けよ、と言われています。歴史家ヨセフスによると、夜間は4燈、昼間は3燈に点火したそうです。火をともしつづける燃料とするために、主はモーセに「上質の純粋なオリーブ油」(20節)を民に命じて、持ってこさせるようにと言われました。「上質の純粋なオリーブ油」は、直訳「砕いて採った純粋なオリーブ油」です。伝承によると、オリーブの実を棒などで砕き、またはつぶし、それを器に入れ、自然に流れ出る油を取ったものが上等のオリーブ油とされたそうです。油絞り機などで完全につぶして採った油は、品質の程度の低いものとされました。イエス様が十字架にかかられる前夜、血のように汗を滴らせて祈られた場所が、ゲツセマネという園でした(マタイ26:36、新約p.56)。ゲッセマネとは「油しぼり」の意味です。この園にはオリーブの木があり、その果実から油をしぼる圧搾所があったことから、そう呼ばれたようです。聖書では、油は聖霊を表します。

御子キリストは、十字架を前にして、その名もゲッセマネの園で、血のように汗を滴らせて祈り、苦しみ、もだえ、砕かれて、心を父の前に注ぎ出しました。十字架の苦しみは、すでに始まっていたのです。御子の、その苦しみがあって、聖霊が私たちに与えられました。その聖霊を受けて、真理のともしび、キリストのともしびの光を輝かせることができますように。「 喜び満ち 望みもて 仕えまつる うれしさ 」新聖歌 20さて、最初に言ったように、この幕屋の庭は、実に殺風景なものでした。ところが、そんな幕屋の庭に入ることが、うれしくて仕方がない、と歌った人がいました。詩篇100篇。100:1 全地よ。【主】に向かって喜びの声をあげよ。100:2 喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。100:3 知れ。【主】こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。100:5 【主】はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。エンタメ的な要素は何もない。

あるのは、真っ白な幕で囲まれた庭に、動物のいけにえをささげる青銅の祭壇。その奥に、水の入ったたらいのような青銅の洗盤。さらにその奥は聖所ですが、中は祭司しか入れません。外観は、じゅごんの皮がかぶせてあり、決して見栄えがするものではありません。これの何が楽しいの?と言われそうです。しかし、詩人は感謝と喜びをもって大庭に入れ、と呼びかけます。それは、なにか面白いことがあるからではなく、神がそこにおられるから。慕ってやまない神に近付くことができるから。神の恵みとまことを身をもって知った者にとっては、神を礼拝すること自体が喜びなのです。詩篇84篇。84:1 万軍の【主】。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。84:2 私のたましいは、【主】の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。…84:4 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。…84:10 まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。あの殺風景な幕屋の庭にいる一日が、千日にまさる…。

主ご自身が慕わしい者にとって、主の幕屋の庭でさえも、喜びが湧いてあふれる。当時の幕屋は、聖書の話を聞けるわけでもない、何か役に立つ話を聞けるわけでもない。ただ主がそこに住まわれている幕屋の近く、その庭というだけです。それでこの喜びです。ここに礼拝というものの原点を見る思いがします。礼拝は基本的には「ささげる」ものであって、何かを「得る」ことが主目的ではない。もちろん、主の恵みを求めて、みことばを求めて、励ましを求めて来るのもよいことです。それを否定するのではありません。ただそれだけだと、礼拝の本質が骨抜きになってしまう。礼拝の根本的な意義は、神にささげることです。感謝、賛美といった霊的なささげものを、神にささげるために来るという意識を持つことは、大切なことです。それが結果的に、私たちの霊を力づけるものであり、リフレッシュになるのだと思います。何か益を受けるために礼拝に来るという姿勢から、ささげるために来る、ほめたたえるために来る、という姿勢に転換して、初めて神を礼拝する喜びを知った、というあかしもあります。

アメリカのある牧師が、デボーションをして、どうしても恵まれるときと、そうでないときとあって、恵まれなかったと感じる日がずっと続いて、落ち込んでいました。そんなある日、「明日のデボーションは、自分が恵まれるためでなく、ただ神をほめたたえるために行なおう」と思い立ちました。翌朝、喜びに満ちて飛び起き、神を礼拝しました。それまで経験したことのない、喜びで満たされたそうです。そして、自分が得るためというより、神を喜ばせるため、という根本的な姿勢の転換は、デボーションだけでなく、生活のあらゆる面に変革をもたらしました。妻に親切をするときも、それによって妻の好意を得るためとか、信頼を得るためとか、無意識のうちに見返りを期待してしまいがちかもしれませんが、それを、ただ神を喜ばせるために行なうように意識しました。それで、相手の反応に一喜一憂しなくなり、その良いわざを神にささげることができた喜びを味わうようになったそうです。それこそ、私たちがささげるべき霊的な礼拝なのかもしれません。神は、無理に、ご自身を礼拝せよ、と命じているのではありません。

私たちが神をお慕いし、礼拝したいという思いは、日頃与えられている恵みを数え上げるとき、大自然に表れた神の知恵と偉大さと慈しみを知るとき、自発的に私たちの心から湧いてくるものです。そして何よりも、福音のうちに表された神の私たちに対するこの上ないご愛を知るとき、それが一番の、神への礼拝心の燃料となるでしょう。聖霊の油を注がれて、霊の目が開かれ、福音のうちに表された神のご愛をますます自分のこととして、知ることができますように。