礼拝説教要旨 2023年5月28日
祭壇の角
(出エジプト記 27:1~8)
今日の要点

キリストが、十字架を通して、私たちのために力・勝利・救いとなってくださった。

はじめに

幕屋に表れているキリストについての学び、7回目になります。古代イスラエルの民が神を礼拝する施設だった幕屋。それは単なる礼拝施設ではなく、そこにはキリストが、また私たちに対する神の御心が、至る所に表されていました。先週は、「至聖所の幕」を学びましたが、礼拝後に、至聖所の幕がそういう意味だとわかって、涙が出るほど感動したと仰ってくださった方がいました。寸法が何キュビトだの、材質が、ガラがどうだのと、ただ読んだだけではまったく面白くないような箇所ですが、忍耐をもって説教を聞いてくださって、そのように神の御心に触れてくださった方がおられたことは、大いに励まされました。今日もキリストを求めて、この箇所を読み解いていきたいと思います。さて、前回まで聖所・至聖所の建物とその中に設置される物を見てきましたが、今回は建物の外に出て、庭にある祭壇についてです。次回見ますが、庭も掛け幕でグルリとまわりを囲んであって、一か所だけ入口に幕が掛けてあります。その入口を通って庭に入ったときに、目の前にドーンとあるのが、この祭壇です。

神を礼拝しに入口の幕をくぐって、幕屋の庭に入った者は、絶えずいけにえの動物を燃やして、モクモクと煙を立ち昇らせている祭壇が目に飛び込んで来るのです。

① 祭壇の構造、他 (1-8節)

祭壇の構造については言葉だけではわかりにくく、諸説ありますが、今回は週報の裏の図のようなものとしておきたいと思います。まずアカシヤ材で枠を作ります。大きさは、タテ・ヨコともに5キュビト(2.2m)の正方形の面に、高さが3キュビト(1.3m)の直方体。枠だけで、中はからっぽです。上部の四隅には角(つの)があります。そして、いけにえを燃やすので、そのままだと燃えてしまいますから、祭壇の全体に青銅をかぶせます。ちなみに、青銅は銅にスズなどを加えたものですが、叩いて延ばすなど加工しやすい性質だそうです。この青銅で網細工の格子を作り、祭壇の内側、真ん中くらいの高さに来るように取り付けます(4-5節)。その上にたきぎを組み、その上にいけにえを置いて、焼きました。と言っても、丸焼きではなく、焼けやすいように皮をはいで、部分に切り分けてから、たきぎの上に整えました(レビ記1:6-8、旧約p. 170他)。3節には、いけにえをささげるときに使う道具が記されています。「灰を取るつぼ」集めた灰を入れるもの。後で、宿営の外にある灰捨て場にもっていき、そこに灰を捨てます。「十能」は小さなスコップのようなもので、灰などをすくうもの。

「鉢」はいけにえの血を中に入れて持ち運ぶもの。「肉指し」は、大きなフォークのようなもので、焼いている肉をひっくり返したりするもの。そして「火皿」は熱い炭火を運ぶものです。たかが道具と思うなかれ。道具は大事です。これらの道具がなければ、祭司はいけにえをささげることができません。これらの道具も、神の御心が行われるために大事な働きを担っていたのです。私たちも、一人ひとりは小さなものかもしれませんが、それぞれに与えられた持ち場を守ることによって、神の御心を行うために大切な働きを担うことになるのでしょう。

② 祭壇はキリストを表す

さて、祭壇とはそもそも何をするところかというと、いけにえなどを神にささげるところです。このモーセの幕屋の祭壇では、五種類のいけにえなどがささげられましたが、今日は全焼のいけにえと罪のためのいけにえの二つだけ、触れます。まず、「全焼のいけにえ」と訳された語は、元のヘブル語は「上る」という意味の語から来ています。いけにえを焼いて煙にして、神にささげるというイメージでしょう。煙は天に立ち上りますから。そしてこの全焼のいけにえには二種類あって、一つは民が誰でも、自発的に主にささげるものです(レビ記1章、旧約pp. 170-171)。ささげるのは、基本、雄牛か、雄羊ですが、神へのささげ物なので、傷のないものでなければいけません。そして家畜を引いてきた人が、最初にその家畜の頭の上に手を置きます。けっこう、グイッという感じで少し力を入れて押します。これは、これからささげるこのいけにえは、私の身代わりです、ということを表します。そしてほふります。血が流れます。これは罪の赦しを表します。そののち、焼けやすいように皮をはぎ、部分に切り分けて、祭壇の上のたきぎの上にのせます。丸焼きではありません。

内臓も水で洗ってきれいにしてから、焼いて煙にします。こうして「全焼のいけにえ」の名のごとく、全部、焼いて煙にします(厳密には、皮は祭司のものとなった。レビ7:8)。これは、全部を焼いて煙にし、天に立ち上らせるように、すべてを神にささげること、すなわち献身を表します。内臓もささげるのは、外側の見えるところだけでなく、内面・心もささげることを表します。こうして、私の身代わりに、このいけにえのすべてを主におささげします、これは私の気持ちですという、心をささげるのです。誤解してはいけないのは、神に対して、何かプレゼントを贈って、見返りに祝福を…という意味あいは、まったくないことです。いい牛を捧げたから、多少良くしてもらって当然だろう、これくらいのことはお願いしてもバチはあたらんだろう、などと見返りを期待してのささげ物は、まったくキリスト教的ではありません。まず先に神から恵みを頂いていることを覚えて、それに対する応答として、感謝、礼拝、献身といった霊のささげ物をささげるのです。

もう一つの全焼のいけにえは、常供(じょうく)の全焼のいけにえと言われるもので、祭司が毎日欠かさず、一歳の雄羊を朝に一頭、夕に一頭、ささげます(出エジプト29:38-42)。火が消えないように、祭司は前述の道具を使って、灰を取り除いたり、たきぎを追加したりします。こちらは、祭司の「務め」ではありますが、だからと言ってイヤイヤながら、仕方なく…ではなく、喜ばしい心をもって、主に仕えることが望まれているのでしょう。こうして、民が誰も全焼のいけにえを捧げない日があっても、祭司が毎日、朝夕ささげていて、イスラエルの民全体として、全焼のいけにえを神の御前に絶やさないようにしていました。繰り返しますが、全焼のいけにえは自発的なものです。主にささげたい思いが与えられた人がささげる。自発性が重んじられています。愛とか感謝とか献身という霊のささげ物は、自発的でなければ意味がありません。旧約の時代でも、実際にささげるのは動物や穀物といった「物」ですが、神がご覧になっているのは、ささげる人の「心」です。あの人が牛をささげたから、私も…と競争意識でささげても、神の御前には何の価値もありません。

新興宗教では、競争心をあおってたくさんささげさせようとするようですが。神が求めておられるのは、純粋な、神に対する真心です。さて、次は罪のためのいけにえです。こちらは、罪を犯したことに気づいたとき、ささげなければならないもの、義務でした。命令でした。罪は放っておくことはできないのです。清算しなければいけないのです。幾つかのパターンがありますが、一般の個人が罪を犯した場合、ささげる人が最初に雌やぎの頭に手を置いて、これが自分の身代わりであることを表します。そのあとで、それをほふります。燃えやすい脂肪の部分は、なだめの香りとして祭壇で焼いて煙にします。流れ出た血は、祭壇の角に指で塗り、残りは祭壇の土台に注ぎます。一番高いところにある角と一番下にある土台で、全体を表すのでしょう。「頭のてっぺんから足の先まで」で全体を表すように。つまり、祭壇全体が、いけにえの血によって覆われることを表していると思われます。この罪のためのいけにえを通して、神が私たちに教えておられるのは、罪が赦されるためには、血が流されなければならないということです(へブル書9:22、新約p. 435)。

そして、私たちのために、自ら進んで身代わりとなって、十字架上で血を流してくださったのが、生ける神の御子イエス・キリスト、その方です。イエス様は十字架にかかられる前夜、最後の晩餐の席で言われました。マタイ26:26-2826:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。まったき献身を表す全焼のいけにえが絶えずささげられ、罪のためのいけにえの血が塗られ、注がれたこの祭壇は、私たちのために人となられた生ける神の御子キリストを表していたのでした。キリストは、地上の全生涯を通して、御父に完全な心からの自発的な従順を捧げ、そして私たちの罪のために十字架にかかって血を流してくださいました。

③ 祭壇の角

ところで、祭壇の四隅には角(つの)がありました。角は、聖書では力、勝利、救いを表します。これらの三つは一つでもあります。たとえば、ナチスドイツに占領されていたどこかの国で、息をひそめていたユダヤ人がいたとします。そこへ、アメリカ、イギリス、フランスの連合軍が十分な力をもってきて、ナチスと戦い、打ち負かしたとします。そのとき、ナチスに占領されていた人々にとっては、連合軍は頼もしい力であり、そしてナチスに勝利して、彼らをナチスから解放した救いです。力と勝利と救いが一つのことを表しています。祭壇の角もそうです。サタンと、すべての人を有無を言わせず、強制的に従わせている「死」との支配下にあって、人は誰一人、勝利することができなかった。死の先は、永遠の滅びです。死と永遠の滅びを待つばかりの人類でした。そこに天から永遠の生ける神の御子が人となって来てくださった。そして神の御子の力をもって、これらの敵に勝利し、信じる人々をその状態から解放してくださいました。しかし御子キリストがサタンに勝利した、その「力」とは、いわゆるけんかして勝つような、腕力の強さのような力ではなく、十字架の死にまで従う「力」でした。

無力になりきる「力」、力を捨てきる「力」でした。キリストが得られた勝利は、サタンを力づくでねじ伏せることではなく、十字架への道を妨げようとするサタンに対して、十字架に従いきる勝利でした。ただの力比べだったら、イエス様は神の御子ですから、無傷で痛くもかゆくもなく楽々勝利できますけれども、この戦いは、霊的な戦いであり、むしろ傷だらけになりながらも、血を流しながらも、十字架に留まり続けることによって、勝ち得る勝利でした。キリストが与えてくださった救いは、ご自分が死ぬことによって、十字架につけられることによってのみ、私たちにもたらされる救いでした。他の誰も真似のできないことでした。一見、無力で、敗北で、滅びでしかない十字架が、実は本当の力であり、勝利であり、救いだったのです。血を塗られた角は、そのことを表すものでした。キリストが血を流して、死なれたことこそ、神の力であり、勝利であり、救いなのだ、と。「 いざみ民よ 救いの主に 栄えの冠を ささげまつれ 」新聖歌 4キリストは、私たちの身代わりに、完全な献身を神にささげてくださいました。十字架の死に至るまでの完全な従順をささげてくださいました。

また、私たちの罪の赦しのために、十字架上で血を流してくださいました。それはすべて私たちを愛して、私たちを救うために、自発的に従ってくださったことでした。キリストが戦われた戦いは、私たちのための戦いであり、キリストが勝ち取った勝利は、私たちのための勝利でした。私たちは、ただキリストがしてくださったことを信じて、キリストについていくことです。幕屋の入り口から入ると、真ん前に祭壇が目に入ったように、礼拝に来て教会の玄関の前に立った時に、横にある⼗字架を⾒てから会堂に⼊るのも、いいかもしれません。十字架は、御子が私たちのために完全な従順を神にささげてくださったことのしるし、私たちの罪のために完全な赦しが与えられたことのしるし、そしてそれは私たちへのこの上ない愛のしるしであると覚えて、大胆に、喜びをもって、主を礼拝するために。