礼拝説教要旨 2023年5月21日
至聖所の幕
(出エジプト記 26:31~37)
今日の要点

神と人との間を仕切る至聖所の幕は、神ご自身が、御子の犠牲によって取り除いてくださった。その神のお心を思う。

はじめに

幕屋に表れているキリストについての学び、6回目。今日も、大切なキリストにかかわる真理を求めて、ここを読み解きたいと願います。真理の御霊の導きを乞い願います。幕屋には二つの部屋がありました。いづれの部屋も幕を通って出入りするようになっていました。まず、外から最初の幕をくぐって建物の中に入った所、第一の部屋は「聖所」と呼ばれる所です。そしてその奥にあるもう一枚の垂れ幕をくぐって入る、第二の部屋が「至聖所」です。今日は、聖書の記述と順番が入れ替わりますが、最初に聖所の入り口の幕、その次に聖所と至聖所を仕切っている垂れ幕を見ていきます。

① 聖所の入り口の幕 (36-37節)

聖所は、幅・高さとも10キュビト(4.4m)、奥行き20キュビト(8.8m)の部屋です。それは読んで字のごとく「聖なる所」です。神のために世から取り分けられた聖なる場所。聖なる神が住まわれるゆえに、聖なる場所です。次回以降、見ることになりますが、祭司は聖所に入る前に、外庭にある祭壇で罪のためのいけにえを捧げ、さらに洗盤という水を入れた器具のところで手足を洗いきよめて後に、入ることが許されました。それは、神が聖なる方であり、罪や汚れがあるままでは、神に近付くことができないことを教えるものでした。この聖所の入り口には、一枚の幕がかけてありました。青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕です。ここにはケルビムの模様のことが言われていないので、おそらくケルビムの模様はなかったと思われます。どんな模様だったかは、わかりません。ただ色は指定されていて、青は青空のイメージで天と、それに恵みとまことを表し、紫は高貴な色で王を表し、緋色は血を表すことは、以前に言ったとおりです。亜麻布の白は、義を表します。

祭司たちは、この聖所の入り口に立つたびに、天を思い、神の恵みとまことを思い、これから彼らの真の王であられる主の家に入るのだとわきまえる。そして自分たちが主の家に入ることができるために、罪のためのいけにえがささげられなければならなかったことを思い、真っ白な亜麻布のようなきよい良心をもって、聖所に入るということでしょうか。もしかしたら、祭司たちはこの入り口の前に立って、それらのことを思い巡らして、しばし祈りのときをもってから、聖所に入ったのかもしれません。この幕をかけるために、5本の柱とその台座が作られます。柱は例によってアカシヤ材で作り、その上に金をかぶせます。幕をひっかけるためのかぎ(鉤)も金で作ります。柱を立てるための台座だけは青銅で作るよう指示されました。ちなみに、青銅とは、銅にスズなどを加えたもので、スズの量が少なければ十円玉のような赤銅色、多くなると黄色味が出てきて黄金色になり、さらに多くなると白金色になるそうです。青銅というと、青緑っぽい色のものを思い浮かべるかもしれませんが、あれは長い時間、空気に触れて「緑青(ろくしょう・別名「青錆び」)」という錆びがついて、あのような色になるそうです。

この青銅の台座も、作りたては、ピカピカの十円玉のように輝いていたかもしれません。聖所の中に入ると、入口から見て右手に供えのパンを置く机、左手に燭台、そして奥には香をたく壇がありました。これらの器具と、左右の壁をなす板はすべて神の臨在を表す純金で輝いていました。ここに祭司たちは毎日、入って、燭台の火を絶やさないようにしたり、香を焚いたり、あるいは一週間に一度、供えのパンを新しいものに替えたりしました。作業としては大したことではなさそうですが、生ける神の住まいで、神の臨在の前での作業で、間違ったら場合によっては神に打たれる、という緊張感の中での奉仕だったでしょう。旧約の時代は、そういう時代でした。

② 至聖所の垂れ幕 (31-35節)

次は、聖所の奥にある至聖所です。幅・高さ・奥行とも10キュビト(4.4m)の立方体の部屋です。すべての辺の長さが同じ立方体は完全を表すと言われます。ずっと時代が下って、ソロモンが建てた神殿も、至聖所は一辺が20キュビト(8.8m)の立方体、そして黙示録には、天から下ってくる聖なる都エルサレムが一辺1万2千スタディオン(約2,220km)の立方体として描かれていました(21:16、新約 p. 501)。ちなみにこの長さは、東京から北京の距離ほどだそうで、面積にすると、西ヨーロッパがほとんどカバーできるほどだそうです。この至聖所と聖所を仕切る垂れ幕は、やはり青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で作りますが、こちらはケルビムの模様を織り出します。ケルビムは、神のそば近くで仕えている御使いです。これから先、至聖所に入るということは、聖なる神にさらに近付くのだという、緊張感をもって入ります。この垂れ幕をかけるためのかぎのついた柱を4本、アカシヤ材で作り、金をかぶせます。その柱を立てるための台座は銀です。

ですから、最初の聖所の入り口は、ケルビムなしの幕に台座は青銅、奥にある至聖所の前は、ケルビムの模様のある垂れ幕に銀の台座となって、至聖所がより聖なる所であることが表現されているのでしょう。「至聖所」は、直訳は「聖所の中の聖所」で、「最も聖なる所」の意味です。以前見たように、そこにはあかしの箱が置いてあり、その上は贖いのふたで覆われていました。この贖いのふたは、生ける神ご自身が語られる場所でした。特別な神の臨在の場所です。聖所には祭司たちが毎日、入って奉仕をしましたが、この至聖所にはイスラエル全体で一人しかいない大祭司だけが、一年に一度だけ、「贖罪の日」に、イスラエル全体の罪を贖うためのいけにえの血を携えて入ることになっていました(レビ16章、旧約pp. 199-201)。ちなみに、ものの本によると、垂れ幕の内側に入る大祭司の装束には鈴がついていて、身体にはロープがついていたそうです。外で待っている人たちが、鈴の音が聞こえなくなったら、大祭司が何か誤ったことをして、主によって打たれたかもしれないので、そのときはロープで彼の身体を引っぱり出すというのです。大祭司の務めも、命がけだったのです。

③ 裂かれた垂れ幕

前述のように、垂れ幕の奥の至聖所には、大祭司が年に一度、血を携えて入ることを許されただけでした。聖なる上にも聖なる神の臨在の場だからです。定められた時、定められた方法以外で、至聖所に入ろうとするなら、打たれて、死ななければなりませんでした。たった一枚の幕ですが、至聖所と聖所を仕切る垂れ幕には、重大な意義があったのです。ですから、33節の後半に「その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる」とあるように、この垂れ幕は、人々が死なないように、人々を守るためのものでした。垂れ幕は、神が人に対して「お前ごときが我が輩の顔を直接見るなど、無礼千万!」と威張るためではなくて、罪びとを守るためにあるのです。闇と光がぶつかると、その瞬間に闇が消え去るように、聖なる神と罪びとが接触すると、罪びとはその瞬間に滅んでしまいます。聖なる神が、罪びとの間に住まわれるには、このような仕切りの幕が必要だったのです。ですから、アダムが罪を犯す前、エデンの園には、そのような垂れ幕はありませんでした。神と人とはともに暮らし、人は神のお姿を見、神は直接人に語りかけました。アダムが神を裏切り、罪を犯してからです。

神と人との間に仕切りが必要になったのは。しかしキリストが十字架の上で死なれたとき、この、聖なる神と罪びととの間を仕切る垂れ幕は、上から下まで真っ二つに裂けました。マタイ27:50-51、新約p. 6127:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。…人間が引き裂いたのなら、下から上に裂けるはずですが、ここには「上から下まで」とあります。これは超自然的に、神ご自身が幕を裂かれたことを示しています。キリストの死によって、私たちの罪が処分されたからです。キリストが、信じる者の罪に対する刑罰を身代わりに受けてくださったので、信じる者は罪が赦されたのです。罪が消えたのです。その結果、キリストを信じる者は誰でも、聖なる神に近付くことができるようになったのです。ヘブル10:19-20、新約p. 43610:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの⾎によって、⼤胆にまことの聖所(神の御前)に⼊ることができるのです。10:20 イエスはご⾃分の⾁体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい⽣ける道を設けてくださったのです。

「大胆に」は「確信をもって」「確信に満ちあふれて」という意味です。大胆さと確信は表裏一体。確信に基づく大胆さです。その確信は何に基づいているかと言えば、キリストが、十字架上で、ご自分の肉体という垂れ幕が引き裂かれることによって、私たちのために「新しい⽣ける道」を設けてくださったことです。私たちが自分の努力で聖なる神の御前に出ることのできる道を切り開くのではありません。ただ生ける神の御子キリストが、ご自身のからだを、私たちのために十字架に釘づけにされ、引き裂かれた、その犠牲にのみ、基づいているのです。この上ない尊い、高価な、価値のある生ける神の御子の犠牲によって設けられた、新しい、いのちの道です。これ以上に確かなことはありません。私たちはその事実を確信して、⼤胆に、神の御前に出るべきなのです。「 イエスは尊き 血潮を流し 救いの道を 開き給えり 」新聖歌 112番キリストが、十字架で死なれたときに、至聖所と聖所を仕切る幕は、神ご自身によって引き裂かれました。1時間後や翌日でなく、御子が死なれたその瞬間に、です。もうこんな幕は不要だ!と言わんばかりに、神ご自身がその仕切りの幕を引き裂かれたのです。

神は、どれほどこの瞬間を待ち望んでおられたことか。そこに神のあついお心が偲ばれるのです。思えば、アダムが罪を犯して、神を、また裁きを恐れて身を隠したとき、神の方から「あなたはどこにいるのか」と声をかけられました(創世記3:9)。裁くためではなく、罪の赦しを、救いを、回復を、回復以上の救いを与えるために。アダムが神に背を向けて、アダムを愛していればこそ、神のお心はどれほど傷ついたかしれないのに、そんなアダムとの失われた関係を、悲しみ、嘆き、修復しようと動き出したのは、神の方だったのです。それも、神にとってこの上なく、限りなく尊い犠牲を払って。至聖所の幕が引き裂かれるにはー神との全き交わりの回復のためにはー全宇宙をまとめたよりもはるかに尊い、神の御子の犠牲が必要でした。神はそのことをさえ、してくださいました。上から下まで裂かれた至聖所の幕が物語っているのは、失われた人々を慕い求めてやまない、神のあついお心でした。この、私たちに対する神のお心を思うときに、それに対して自分の心の何と冷たいことか、と我ながら悲しくなります。祈りのときを聖別して、これほど私たちを求めてくださっている神との交わりのときを過ごすことができますように。

神のご愛、救いを感謝し、ほめたたえる時を持つことができますように、と願わされます。旧約の時代の幕屋の、少々恐ろしげでもあった「⾄聖所」は、今や信じる者にとっては「恵みの御座」に変わりました(ヘブル4:15、新約p. 428)。かつては、大祭司が一年に一度、贖いのための血を携えて入ることしかできなかった至聖所、神の臨在の前に、今の時代は、キリストを信じる者は、誰でも、いつでも、出ることができるようにされました。神は、至聖所の幕を引き裂いて、そのことを見える形で表してくださいました。これからは、誰でもいつでも、キリストを通して、私のところに来なさい、と、神は私たちを招いておられるようです。私たちがキリストに信頼して祈りのときを持ち、御前に大胆に、確信をもって来るのを、天の父は待っておられます。願い事があるときだけでない、ただ神に感謝し、ほめたたえるための、祈りのときをもつことができますように。それは、私たちの生活のすべての土台となる、神との関係を豊かにしてくれるでしょう。