キリストを信じる私たちの間に、神は住まわれる。私たちの中にキリストのことばを豊かに住まわせ、キリストの御霊の住まれるところとして成長できるように。
幕屋についての学び、5回目です。今日は聖所、至聖所をグルリと囲む板と、その付属物についてです。と言っても、私たちは、建物そのものについて学んでいるのではなくて、そこに示されているキリストを学んでいます。そのことは常に意識しておきたいところです。今日の個所は、正直、読んだだけだとチンプンカンプンですが、調べていくと透かし模様のようにキリストが浮かび上がってきます。それも旧約ならではの実物教育で、キリストについて教えてくれるのです。幕屋は、地上における神の御住まいでした。聖なる神が、罪人の間に住まわれるために、特別に作られた場所でした。教会も、地上における神の御住まい、神の宮と言われます(後述)。ここで教会と言うときに、それは会堂のことではなくて、キリストを信じる者の集まりのことを言います。神は会堂に住まわれるのでなくて、キリストを信じる者の集まりの中に、住まわれるということです。武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(かたき)は敵なり」と詠んだと言いまが、キリストを信じる者たちの、いわば人垣の中に主は住まわれると言いましょうか。
そんなイメージを浮かべながら、今日は、ここに記されている幕屋の一枚一枚の板を、キリストを信じる者たち一人びとりのことを表すと、取って読み進めていきたいと思います。さて、イスラエルは荒野を旅していましたから、幕屋は運べるものでなければいけませんでした。そのために、簡単に解体したり、組み立てたりできるものでなければいけません。それで、幕屋の建物本体は、板と、板を立てるための台座と、そして立てた板を補強するための横木を組み合わせて作るようになっていました。以下、順番に見ていきます。
まず、ここの「板」を「枠」とする解釈もありますが、今日は新改訳のまま「板」としておきます。材料はアカシヤ材。ちなみに、日本でアカシヤと言われるのは、正しくはニセアカシヤという品種で、同じマメ科ですがアカシヤとは別物だそうです。あちらに生えているアカシヤは、通常は直径40-50cm、高さ5-10mに達し、荒野でも手に入りやすく、堅牢にして虫がつきにくく、腐りにくい。これで高さ4.4m、幅66cmの板を作り(厚さは不明)、立てて並べて、入口の側以外の三方を囲みます。出来上がりは、入口から見て幅4.4m、高さ4.4m、奥行き13.2mの直方体になりました。特徴的なのは、板に金をかぶせてあること。従って、この板を並べて作った建物の内側も外側も金です。建物の中、聖所に入ると、そこは金の板に囲まれています。聖書では、金は神の臨在を象徴すると言われます。日本の金閣寺も、内も外も金箔を施してあって、その外観は多くの観光客をひきつけているようです。しかしこの幕屋は、普段は、先週見たように、4枚の幕・覆いを重ねて、建物全体を覆っているので、外からは金の輝きは見えません。一番外側の覆いは、灰色のじゅごんの皮です。
人目を引くような魅力的なものではありません。しかしその4枚の幕を取り払うと、内に隠れていた黄金の輝きが現れ出るのです。カトリックや聖公会、○○正教のような伝統のある欧米の教会は、観光名所にもなるような立派な礼拝堂がありますが、日本のプロテスタントの教会のほとんどは、あまり目立たない、普通っぽい建物に十字架がついているくらいでしょう。またそこに集っている人々も、この世であがめられるような人たちよりも、普通の人たちがほとんどでしょう(参考 第一コリント1:26-29、新約p. 318)。しかしその、一見普通の人々の集まりである教会の内には、金の輝きならぬ、神の臨在があるのです。キリストを信じる人々のところに、神の御霊が来てくださり、住んでくださるので、キリストを信じる人々の集まるところ、そこは神の御霊が住まれる神の宮なのです。これは改めて考えてみると、恐れ多いことではないでしょうか。教会は、単なる人の集まりではないのです。神がそこに住まわれる聖所なのです。もしかしたら、教会に対する認識を改めないといけないかもしれません。しかしどういうふうに、神の御霊が私たちの間に住んでおられるのか。
神は目に見えないお方なので、イメージしにくいのも事実です。そこで、このことをもう少し具体的に考えてみましょう。コロサイ3:16、新約p. 393キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。キリストのことばを私たちの内に豊かに住まわせることによって、神の御霊が私たちの間に住んでおられることが、形をとって現れるのではないでしょうか。キリストのことばとは、聖書のみことばと言っても間違いではありませんが、福音を土台とした聖書のみことばと言った方がよいかもしれません。律法主義的に聖書のみことばを理解するのでなく、あくまでも福音に立って、聖書のすべてを理解することです。それは恵みのことばであり、真実のことばであり、罪からきよめることばであり、まことのいのちを与えることばです。それは力を与えることばであり、喜びを与え、希望を与えることばです。すべては神の限りない、真実なご愛から出ていることばです。どんな叱責のことばも。聖書はすべて、私たちのために、最愛の御子をさえ、与えてくださった方のことばとして、受け取るべきです。
そうでないと、神のことばを誤解してしまうでしょう。私たちがキリストのことばを心にたくわえ、キリストのことばに従おうとして、心ならずも失敗しても、キリストは限りない赦しを用意しておられて、決して見捨てることなく、励まし続けてくださいます。それがあるからこそ、私たちはキリストにお従いする歩みを続けることができます。キリストが完成させてくださることを信じて、キリストに望みを置いて。そしてその歩みを続けるうちに、少しずつ成長していく。キリストの似姿へと変えられていく。それも個人としてでなく、教会全体がキリストに従うときに、そこにキリストが形をとって現れるのでしょう。それこそまさしく、キリストのからだなる教会です。それはキリストの御霊がそこに住んでおられることにほかなりません。
板を銀の台座に立てるために、板の下の方に2つの「ほぞ」を作ります。「ほぞ」とは、二つのものをつなぎ合わせるために作る突起のことです。組み合わせる相手側に、この突起にぴったり合う穴を作って、そこに差し込んで組み合わせます。台座の材料となるのは、金ではなく「銀」です。なぜか。聖書では銀は、人の命を贖うための代価を表します(参考21:32、30:11以下)。板は、この贖いの代価を表す銀の台座に、二本の足を突っ込むような形で立っていました。前回言いましたが、地はアダムが罪を犯したときに、呪われたので、罪や悪を象徴します。私たちは、そこからキリストによって贖われた者です。地に属する者ではなく、キリストに属する者とされました。私たちは、キリストの贖いの上にしっかりと立ってこそ、神の御住まいを構成する板の一枚となることができます。自分の力、功績、立派さ、あるいは世の何か、富や地位や力などに立って、神の御住まいの一部となるのではありません。何ができる、かにができるからと、どれほど才能があったとしても、キリストに贖って頂かなければ、死すべき、滅ぶべき罪人であって、聖なる神の御住まいを作る一枚の板になることなど、できないのです。
むしろ、地獄の薪となるのがオチだったのです。その事実があるからこそ、そこから私たちを救い出してくださったキリストの救いが心底、ありがたく思われるのです。キリストが、私たちが受けるべき刑罰を受けてくださったおかげで、私たちは救われ、神とともに住むことができるようにして頂けました。その、キリストを与えてくださった神のお心に触れたときに、神の愛がわかり、自分を神の御住まいを構成する一枚の板としてお捧げしたいという原動力になるのではないでしょうか。少なくとも、神を歓迎する心、心からお迎えする心がそこに生まれるのではないでしょうか。そして神を信頼して、神の主権を心から受け入れるーこれこそアダムが失敗したところでしたーそのような心に変えられていくのではないでしょうか。キリストの贖いという台座にしっかりと立つ。いやむしろ、銀の台座の方が、板が倒れないように支えているようにー台座がなければ、板だけでは立つことができませんからーキリストが私たちを支えておられると言うべきでしょうか。今や、私たちの存在を支えているのは、キリストであることを思いましょう。それは私たちに平安をもたらすはずです。
最後に横木。並んで立っている板を補強するための木です。東側は入り口になっていて板を立てないので、残りの三面、北側、南側、西側に各5本ずつ、板に金の環を作って、横木をそこに通します。この横木にも金をかぶせます。ここの記述からは、どの位置に、どう取り付けたか、詳細はわからないようです。ただ目的は、板を補強するためと言われます。この横木は、教えのことを表すと思われます。エペソ2:20-22、新約p. 3752:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。ここで「使徒と預言者」というのは、その職務にある「人」ではなく、その人たちが語った「教え」のことを指します。使徒の働きには、バプテスマを受けた人々が「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります(2:42、新約p. 231)。正しい教えにおいて一致する。これも神の御住まいにとって、とても大切なことです。
歴史的に、教会は教えを非常に大切にしてきました。根本的な所で間違った教えは、異端とされました。間違った教えは、救いを妨げ、滅びに至らせるからです。横木にも金がかぶせられたように、真理は神に属する神聖なものです。さらにキリストは「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」とさえ、言われました(ヨハネ14:6)。日本的に、情で人と人とがつながっているという面も、否定されるべきではありませんが、基本的には教会は、救いを得させるキリストの教えによって結び合わされ、組み合わされるべきところです。「 千代経し巌の 礎堅く 救いの石垣 高く囲めば 」新聖歌 145番先のエペソ書のみことばには、「成長」という言葉が入っていました。建物が成長するとは、おかしな感じですが、教会も、神の宮として完成されているのでなく、成長するべきものということでしょう。それはサイズが大きくなるというよりもむしろ、クリスチャンとして成熟して大人になるという意味のように思われます。それも、一人で成長するのでなく、組み合わされた全体が成長するのです。教会の兄弟姉妹方との交わりの中で、互いのために祈りあい、仕えあい、また愛をもって真理を語り、互いに励まし合う。
ときには、人間の集まりですから、いろんなことがありながらも、互いに忍びあい、赦しあう。赦しを必要とするような事態が起こることは、心を痛めることですが、同時にその赦しを実践することにおいてこそ、最もキリストの似姿が表れるものでもあります。それは神の御目に最も尊い姿なのかもしれません。そのようにして、山あり谷ありを経験しながら、教会全体として霊的に成熟していくのでしょう。そのようにキリストに従う教会に、御霊は親しく臨んでくださり、励まし、支え、導いてくださるのでしょう。私たちの教会が、キリストによって贖われた者として、キリストを愛し、キリストのことばを豊かに住まわせ、キリストのことばに従う群れでありますように。