礼拝説教要旨 2023年5月7日
4枚の幕
(出エジプト記 26:1~14)
今日の要点

聖い生ける真の神の御子が、人となって人々の間に住み、十字架にかかってくださった

はじめに

幕屋についての4回目の学びになります。「幕屋」という場合、普通は外側の庭の部分も含めた、白い幕で囲まれた領域一帯を指すようです。が、ここではその中の建物の部分、いわば「本幕屋」の部分を見ています。この本幕屋に聖所、至聖所があり、これまでその中に置かれる「あかしの箱」「パンを供える机」「純金の燭台」を見てきました。それぞれにキリストのなしてくださったみわざ、今も私たちのためにしてくださっている事柄が教えられていて、個人的には感動の連続でした。今日はそれらが置かれた本幕屋を覆う幕について見ます。本幕屋の建物自体は、アカシヤ材の板を立てて壁を作るだけで、天井には板を組んだりはしません。そのままだと空が見える状態です。それで、その上を覆う幕をかけます。4種類、4枚の幕をかけます。建物そのものの大きさは、入口から見て、幅10キュビト(4.4m)×高さ10キュビト(4.4m)×奥行30キュビト(13.2m)の直方体で、これの天井と、入口以外の3つの面(両サイドと後部の壁)を幕で覆うのですから、けっこう大きな幕になります。たかが幕と侮るなかれ。ここも神の霊感によって書かれた神のことばです。ここにも、キリストが表されているはず。

今日は、キリストのどういう面が見られるのでしょうか。

① 第一の幕:神の臨在をあらわす(1-6節)

第一の幕の材料は、撚り糸で織った亜麻布と、青、紫、緋(赤)の撚り糸で作ります。青は天を、紫は王を、緋は血を表すと言われます。これらの撚り糸で、巧みな細工でケルビムを織り出します。ケルビムは神の近くで仕えている御使いです。注解書によると、上下二段に人間くらいの大きさのケルビムの模様が施されたそうです。寸法については、いちいち説明すると数字がたくさん出てきて煩雑になるのでしませんが、要は10枚の幕を5枚ずつつなぎ合わせた2つの幕を作り、それをさらに金の留め具50個でつなぎ合わせて、1つの大きな幕を作ります。できあがったものは、40キュビト×28キュビト(=17.6m×12.32m)になります。これを上からかぶせて、建物を覆います。建物の側面はアカシヤ材に金をかぶせた板で囲んでいるので、中から見える幕は天井部分だけです。伝承によると、二つの幕をつなぎとめた金の留め金の部分が、ちょうど聖所と至聖所の仕切りのところに来て、燭台の光に照らされると、星のように燦然と輝いて見えたと言います。第一の幕は聖所、至聖所に面している特別な幕です。ケルビムが織り出されて、神の臨在を表しています。地上にありながら、神の臨在される天的な空間。

いわば、地上に降りてきた天とも言えるでしょうか。実は、この幕の幅が28キュビトというのは、天井から両側の壁に垂らすと、地面にまで届きません。1キュビト足りない。丈が短いツンツルテンのズボンのようです。美しい幕が汚れないように、という実際的な理由もあったかもしれませんが、ある人はそこにも霊的な意味を見出します。地は、アダムの罪によって呪われたところであり(創世記3:17)、そのため天と対比されて、悪を象徴することがあります。たとえば、ヤコブ書3:15-17(新約p. 449)で、苦々しいねたみや敵対心について、それらは「上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」と言い、逆に「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」と言っています。私たちも、地上にありながら、神の御霊を宿す神の宮です。地に属する肉の思いを十字架につけ、みことばと御霊に従うという、悔い改めと信仰の歩みを、倦まずたゆまずさせて頂きたいものです。

② 第二の幕:罪の除去をあらわす(7-13節)

第二の幕は、やぎの毛で織ったものでした。やぎの毛は今日でもアラブ人が天幕の布地を織るのに用いていて、雨風に対して耐久性があるそうです。これは11枚の幕を5枚つなぎ合わせたものと、6枚つなぎ合わせたものと、2つ作り、さらにその2つの幕を今度は青銅の留め金50個でつなぎあわせて、1つの大きな幕を作ります。できあがった幕は、44キュビト(19.36m)×30キュビト(13.2m)。第一の幕より全体に一回り大きくなっています。今度は両サイドの壁に垂らした部分も、ちゃんと地面に届いて下まで覆います。やぎの毛の色は、白、黒、褐色などいろいろあるそうですが、新聖書辞典によると、「イスラエルで多く飼われているのはシリヤやぎと言われるもので、普通のやぎよりも大きく、毛が黒で長く、大きな耳が垂れ下がっている」とのこと。やぎは年に一度、イスラエル全体の罪の贖いをする「贖いの日」に、罪のためのいけにえとして2頭、用いられます。レビ記16章によると(旧約p. 199)、一頭はほふられて、血を至聖所の贖いのふたと、外の庭にある祭壇にふりかけます。

そのあと、もう一頭のやぎの頭の上に大祭司が両手を置いて、イスラエル人のすべての罪を告白し、それらの罪をやぎの上に置きます。そしてそのやぎを荒野に放ちます。やぎは羊と違って独立心が強く、一頭でも平気で離れていきます。やがて黒いやぎの姿が見えなくなります。これは、罪のためのいけにえとして、もう一頭のやぎの血が流された結果、民の罪が遠くに追いやられたこと、すなわち、罪が取り除かれたことを表します。このようにやぎを荒野に解き放つことによって、罪が除去されたという贖いの効果を、視覚的にわかるようにしたものです。このやぎの毛で織った幕は、まず罪を除去された者だけが、天に、神のご臨在に近付くことができることを表しました。それも、罪を告白してやぎの上に置いたように、神に近付く者も、罪の告白と悔い改めが必要です。それをしてはじめて、キリストがその罪を背負って、十字架の上まで、手の届かないところまで、持って行ってくださいます。詩篇103:12, (旧約p. 1008)のみことばが共鳴します。東が西から遠く離れているように、(主は)私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

ちなみに、第一の幕が10枚で作ったのに対し、第二の幕は11枚で作りましたが、その多い1枚分の幕は、折り重ねて正面に垂らしたという解釈があります。そのココロは?聖所に入る前に、その黒い幕を見て、自分たちの罪を思わされて、へりくだらされ、神の恵みとあわれみにのみ、目を向けさせるためだったと言います。私たちも神の御前に出るときには、ただキリストによってあらわされた神の恵みとあわれみにのみ、より頼むべきです。

③ 第三の幕と第四の幕:受肉したキリストをあらわす(14節)

第三の幕と第四の幕(あるいは覆い)は14節の一節だけで簡単に触れられているのみ。寸法もわかりません。この二つは動物の皮です。毛で織ったものでなく。第三の幕は、赤くなめした雄羊の皮。後ろのドアのところに張ったイラストでは、鮮やかな赤です。その上に「じゅごんの皮」をかけます。人魚伝説にもなっている、あのじゅごんです。哺乳類、全長3m、体色は灰色。紅海にも生息するそうです。けっこうおいしいらしいです。見た目は決して美しいものではありませんが、このじゅごんの皮のカバーのおかげで、雨風や強い日差しから、中のものが守られます。一番外側にあるじゅごんの皮は、イスラエルの強い日差しを受けて、ボロボロになったりもしたでしょうか。石や何かがぶつかれば、傷がつき、破れたかもしれません。もし、破れれば、そこから赤い色が見えます。下は、赤くなめした雄羊の皮ですから。それはあたかも、人の肉体が傷を受けて、肉が裂けて、血が出たように見えたでしょう。裂けたじゅごんの皮の間から見える赤くなめした雄羊の皮。痛々しい感じがするのではないでしょうか。そうです。これは人として来られた御子キリストを指し示していたのです。

むち打たれ、肉が裂けて、血を流された私たちの救い主、贖い主をあらわしていたのです。「 この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ 」新聖歌 99番前の25章では、幕屋は天の聖所を表すという観点から見ましたが、この26章では、幕屋はキリストを表すという見方ができるようです。ヨハネ1:14ことば(キリストのこと)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ここの「住まわれた」と訳された語は、元は「幕屋を張って住む」という意味の語です。永遠の神の御子は、肉体という幕屋を張って、人々の間に住んでくださったということです。幕屋は、一番外側が、特に美しいわけでもない、じゅごんの皮をまとったように、イエス様は神の御子としての栄光を覆って、普通の人として肉体をまとわれました。幕屋が、外から見た限りでは、見とれるような美しさがなかったように、イエス様も、キンキラキンの王服や、裕福な商人の紫布に身を包むことなど一切なく、寒村ナザレの出の貧しい普通の人として歩まれました。そして十字架にかかられるときは、さげすまれました。

イザヤ書53章のみことばが浮かびます。53:2~3、旧約p. 121453:2 …彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。しかし幕屋の内部が、純金で覆われた板とケルビムの織りなされた美しい幕で囲まれた聖所と至聖所だったように、イエス様の内面は、神の御目にきよく輝き、一点のシミもくもりもなく、父なる神の臨在が常にありました。幕屋の聖所には、完全な従順をあらわす供えのパンがあり、暗やみを照らす純金の燭台があり、絶やすことなく神にささげられていた香の壇があったように、イエス様の内面には、父なる神への完全な従順と、闇夜を照らす真理、真実の光があり、絶えず御父への祈りが捧げられていました。そして、幕屋の至聖所のあかしの箱の中には神のことば、十戒があったように、イエス様の心の至聖所には、十戒に表された神のことばがありました。すなわち、父なる神の御心に完全に合致した心の思いがありました。

この心の中の中まで、一点の罪も汚れもない、完全に父なる神の御心と合致している、生ける神の御子であるお方が、私たちのために十字架にかかり、肉を裂かれ、血を流してくださったのでした。私たちを愛して、救うために。この神の御子イエス様のお姿を、私たちは心の目に何度でも焼き付けておきたいものです。先ほどのイザヤ書の続き。53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。幕屋の構造は内側の純金の栄光と、外側の二つの獣の皮の覆いが対照的でした。それは肉体を取られたキリストを表すものでした。

イエス様のその内面のきよさ、栄光、神々しさを覚えつつ、そのお方が肉体をまとわれ、人となって十字架にかかられたということを思うときーそれも私たちを愛して、私たちを救うために、自ら進んでそうされたことを思うとき、―私たちの心は神の愛に感動し、私たちの良心は新しくされるのではないでしょうか。ヘブル 9:14, 新約p. 434まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。キリストが私たちのためにしてくださったことが、何年、何十年と経っても、色あせることなく、聖霊によってむしろ感動を深められていきますように。