私たちが信仰の光を輝かせることができるようにと、キリストは聖霊を注いでいてくださる。
地上における神の御住まい、幕屋についての3回目の学びです。至聖所にあるあかしの箱、聖所にあるパンを供える金の机についで、今回は聖所にある燭台です。聖所に入って、右手に金の机、そして左手にこの燭台です。ちなみに、正面には香を焚く壇が据えられ、さらにその向こう側、しきりの垂れ幕を隔てた向こう側の至聖所に、あかしの箱が置かれる、という配置になっています。なお、週報の裏に燭台のイラストを載せましたので、それを見て頂くと一目でおおよその形態はわかると思います。細部については諸説あり、本によっては違うものもありますが、だいたいこんな感じと思って頂ければと思います。
燭台は大きく分けて三つの部分からなります。台座、土台となるところ。それから、台座からまっすぐ上に伸びる支柱。木の幹になるところ。それから、その中央の支柱から両側に三本ずつ、左右対称に枝が出ています。両側に腕が三本ずつある六本腕のお化けが、万歳している格好と言ったらいいでしょうか。両側に左右対称に、上向きに3本ずつ腕があって、中央には頭があって全部で7つ、ともしびをともすところがあるということになります。それぞれの枝には、がくと節と花弁が施されました。がくというのは花の一番外側にあって花びらを支える台となっているところのことです。多くは緑色をしています。節は、ふくらんでいる、塊のようなところ。花弁は、花びらです。整理すると、一番下の台座から、まっすぐ上に向かって支柱が出、その中央の支柱から万歳する格好で左右対象に3本ずつ、計6本の枝が出る。そして、それぞれの枝にはがくと節と花弁があるという構造です。この燭台は、アーモンドの木を表していました。アーモンドは、バラ科で桃や梅の近縁種。
早春(イスラエルでは1月)、それまでまったく枯れていたかに見えた裸ん坊の木に、ある日、突然、白い花をいっせいに咲かせ、周囲は花の香に包まれるのだそうです。まるで春が来るのを見張って、春の到来をいち早く知らせてくれるかのようで、ヘブル語でアーモンド(シャケード)は「見張る」という意味の語から来ているそうです。この燭台は、一つの金の塊を槌で打ちたたいて成形すると言います(36節)。プラモデルみたいに、それぞれの部分を先に作って、あとから接合するというのでなく、また鋳型に流し込むのでもなく。台座から出ている幹、そこから出ている6本の枝。しかも花びらやら節やらがくやらまで、すべて一つの金の塊からカンカン槌で打って成形すると。これは相当高度な技術を要するのではないかと思います。それぞれの枝のてっぺんにはともしび皿を載せます。これに純粋なオリーブ油を入れて、芯の一方をその油の中に浸し、もう一方は皿の縁に出しておいて、その先っちょのほうに火をつけます。芯(心)切りばさみは、芯の先が焦げて燃え具合が悪くなったときに、先の方を切るためのもの、芯取り皿は、その切り取った芯を置くための皿です。
これら付属品も含めて燭台を、金1タラント、約34キログラムで作ります。あかしの箱と机はアカシヤ材の上に金をかぶせましたが、これはアカシヤ材を使わず、中まで全て純金です。聖所は北側と西側と南側は板が隙間なく並べられ、窓もありませんから、光はまったく差し込みません。東側は布が垂れ下がっているだけですから、朝日とともに光が差し込みますが、夜はまっくらでしょう。そのまっくらな闇を照らす唯一の光源がこの純金の燭台でした。それはどんなに美しかったことでしょう。
聖書の一番最後、黙示録に、七つの燭台の間の真ん中におられるイエス様のお姿が描かれています(1:13)。そこでイエス様はその七つの燭台の意味は、七つの教会であると教えています(1:20)。この聖所の燭台も、教会を表していると思われます。で、この燭台は先に見たように、わざわざ一つの金の塊から槌で打って作るようにと作り方が指定されていました。これはキリストと教会が、一体だと言うことを教えているのではないでしょうか。真ん中の木の幹がキリスト。そこから左右にのびる枝が教会。イエス様が「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」と言われたことも重なります(ヨハネ15:5)。それが最初から一つのものとして造られている。後から取り付けたような、もしかしたら何かの拍子に落ちてしまうようなくっつき方でない。もうはじめから一つ、一体。私たちがイエス様を信じたのが、途中から、大人になってからでも、実は神は永遠の昔から、私たちをキリストと一体のものとして定めておられました。エペソ1:4、新約p. 373…神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
途中からキリストにつながったのなら、くっつき方が甘くて、何かの拍子にまたポキンと折れるかも知れない。けれども初めからー世界の基のおかれる前からーいわば青写真の段階から、私たちはキリストと一体に定められていたのなら、これはどんなことがあっても大丈夫。神の永遠のご計画なのですから。自分のような者が、この燭台の枝と支柱のように、最初からキリストと一体のものとして造られているという、深遠な教えは、私たちを大いに励まし、確信を強めてくれるものです。よくよく思い巡らしておきたい教理です。もう一つ、この燭台はアーモンドをイメージしていました。春に先駆けて咲くところから、アーモンドは復活の希望を連想させるものです。日本でも、梅が他の木に先駆けて、まだ冬の寒さの中、枯れたような木からきれいな花を咲かせて、あたたかくて、花が咲き誇る春がもうすぐ来ることを告げてくれるのと似ているでしょうか。教会は、万物が新しくされる新しい季節、まことのいのちの咲き誇る神の国が、もうすぐ来ることを告げる霊的なアーモンドの木のような使命があるのです。
永遠の御国の望みを指さし、その望みを抱いて喜びの花を、まだ来ていないうちから他に先駆けて咲かせ、永遠の御国がもうすぐそこまで来ていること、近いことを証しする、喜ばしい役割です。
旧約聖書のレビ記という所をみると、祭司は聖所で夜通し、このともしびを絶やさないように、7つの皿の燃え具合に気を配りながら、油を注ぎ足したり、焦げた芯の先っぽを切ったりといろいろとお世話をしました(24:3、旧約p. 215)。同様に、天の大祭司キリストは、教会に純粋なオリーブ油=聖霊を注ぎ足し、ときにはみことばという純金のハサミをもって、火が燃えるのを妨げている所を切り取って、燃え具合を整えます。その時は、痛みが伴うかもしれませんが、しかしそれによってよりいっそう、赤々と火をともすことができるようになり、やがて感謝に至るのでしょう。イエス様は、私たちがもっと実を結ぶために、刈り込みをなさるとも言われました(ヨハネ15:2)。先に7つの燭台の間に立たれるキリストの姿を引用しましたが、黙示録ではその後、7つの燭台のあらわす7つの教会に、時には励まし、時には慰めるとともに、時にはしかり、時には懲らしめ、そして悔い改めを迫りました。実に7つの教会のうち5つの教会に「悔い改め」を迫っています。
私たちが油を満たされ、その油を赤々と燃えさせるために、本当に必要なのは、(励ましや慰めよりも?)もしかしたら悔い改めだったということが、案外、多いのかもしれません。「 心に御姿 映して生きる 主の民 われら光の子 」新聖歌 352番聖所に置かれる燭台は、アーモンドの木の装飾を施した、純金製の大変立派な燭台でした。装飾品としても十分価値がありそうです。しかし、燭台の本来の役割は何といっても、暗闇に光を提供することです。闇を濃くする世に、ともしびを絶やさない教会も、神の御目には、美しい輝きを放っていることでしょう。真理を失ってしまったキンキラキンの大聖堂よりも、真実な光をともし続ける小さな教会の方が、神の御目には美しく映っていることでしょう。バプテスマのヨハネは、燃えて輝くともしびと言われました(ヨハネ5:35)。その彼は、奇跡は一つも行わなかったが、彼がキリストについて言ったことはみな真実だったと言われました(ヨハネ10:41)。キリストを信じる信仰に生きること、その信仰をあらわすこと自体が、闇夜を照らすともしびです。私たちが天地の創造主なる神を信じ、神が遣わされた御子イエス・キリストを信じていること。
このこと自体が、闇夜を照らす光です。この信仰に堅く立ちましょう。アダムが堕落して以降、世界は闇が覆っています。現代も、いろんな面で、闇がだいぶ濃くなって来たようにも見えます。社会情勢、世界情勢、経済情勢も、人々を不安にするものでしょう。それだけでなく霊的暗黒ともいうべき闇が覆っているのではないでしょうか。神を否定し、その結果、永遠のいのちの望みも見失い、絶望の闇の中をさまよう。神を否定して、正義と公正と真実に立つための拠り所を失い、混乱、混沌、悲劇を招いているようにも見えます。さらには神も裁きもないのだと、裁きを自らに招くような滅びの道に突き進む勢力も勢いを増すようです。「明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしよう。」(第一コリント15:32、新約p. 341)と。そんな霊的暗黒の中にあって、私たち教会は、真実な信仰の火をともし続けるものであるようにと願わされます。
世の悪、不品行などに染まらないこと、悪や偽りを遠ざけ、正義、真理にとどまること、また永遠のいのち、天国の希望を信じること、そこに望みを置いて生きること、そして死を前にしても、その望みの故に喜ぶこと、また神の愛も真実も信じられない状況でも、キリストによって、神の愛と真実を信じ続けること、そして、望み得ない状況でなお、神に望みを置き続けること…。これらはすべて、神の御目に、麗しい真実な光であり、闇夜を照らす、また人々の心を覆う闇をも照らす光でしょう。それは、この世のものではない光、ただ天から聖霊の油を注がれることによって、ともすことのできるともしびです。同じ火でも、ろうそくの火とともしび皿の火とは違います。ろうそくの火はろうそく自身が燃えていきますから、やがてなくなって、火も消えます。しかしともしび皿の火は、油さえ注ぎ足せばいつまでも燃え続けます。私たちが火をともすのも、自分が燃えるのでなく、聖霊の油を受けて、聖霊の油が燃えるのです。私たちはその器です。ある本にこんな例話がありました。「もしも、ともしびの芯に向かって『もしもし、芯さん、あなたはまたたくまに、燃えつきてしまうでしょうね。
そんなに小さく、細くては。』と尋ねたとしましょう。するとその芯はこう答えるに違いありません。『いいえ、どういたしまして。燃えるのは私ではないのです。私を通って上る油なのです。私はただ油のはしごにすぎません。そして光り輝くのも私ではなく、その油なのです。』と。私たちは世の光と言っても、自分自身で光を放つのではありません。ただ聖霊の油を受けて、それが燃え輝くのです。」天の大祭司キリストは、私たちに聖霊を注いでくださっています。私たちはその油を入れる器、ともしび皿です。聖霊の火が燃えるのを妨げる肉の思いを十字架につけて、私たちの内に住まれる聖霊によっていのちのことば、福音を素直に信じ、受け入れ、従い、その御国の望みに向かって歩みましょう。ピリピ2:13-16、新約p. 384。2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。