日々、主のみことばによって生きて、主とともに歩む。
ようやくコロナによるさまざまな制限から解放され、社会は通常モードに戻りつつあります。しかし社会を見渡すと、厳しい状況であったり、世界に目を向けると悲惨な戦禍が続き、また不穏な動きがあったり…。つくづくこの世は罪の世であることを思わされます。コロナ後の世界は、どうなっていくのか。誰にもわからないでしょう。そんな地上の旅路を送る私たちにとって、拠り所は神です。世は移り変わっても、変わることのない、永遠不動の神です。この方が私たちとともにいてくださるとは、なんと心強いことでしょうか。では、神を拠り所とするとは、具体的にどういうことでしょうか。仏壇や神棚に手を合わせるように、ただ神様を信頼しています、ご加護を、と唱えるだけでしょうか。もちろん、祈ることは大切ですが、私たちの神は具体的にご自身のみことばを与えてくださっています。そして神を拠り所とするということは、神のみことばを拠り所とすることです。そして、神のみことばを拠り所とするということは、神のみことばによって生きるということです。まずは、そのことを心に留めましょう。
イエス様の4節の言葉は、クリスチャンでなくても、どこかで耳にしたことがあるような有名なみことばです。これは申命記8:3の引用で、その箇所には、出エジプトの時、主はイスラエルの民に、荒野でマナを食べさせたが、それは人はパンだけで生きるのでなく、主の口から出るすべてのもので生きるということを、わからせるためだったとあります。どういうことかというと、動物は本能に従って胃袋を満たすだけ、本能に従うだけの生き方、あり方でいい。そういうものとして造られたから。しかし人間は、そうではない。胃袋や肉体的な必要を満たすだけの動物とは違う。神のかたちに造られた人間は、神のみことばによって生きてこそー神のみことばを信頼し、守り行い、従ってこそー人間。それが人間の生き方、あり方だということです。さらに掘り下げてみましょう。この申命記8:3は、以前、見ました出エジプト記16章を下敷きにしています。毎朝、神は民のために天からのパン、マナを降らせましたが、そのマナの取り扱いについて、神が定めた決まりがありました。まず、毎朝一人あたり一オメル(約2.2~2.3リットル)、一日分だけ集めること。神は全体として、全員の必要を満たすちょうど良い量のマナを与えた。
誰かが欲張って多く集めると、行き届かない人が出てきます。弱い人を蹴飛ばして、二人分も三人分も集めようとする不届き者に釘を刺さなければいけません。イスラエルの民も、これは守ったようです。それから、集めたパンは翌朝まで取っておいてはならない、とも命じられました。一部の民は言うことを聞かず、翌日まで取っておきましたが、それには虫がわき、悪臭を放ちました。明日もマナは降るだろうか、そんな保証はどこにもないぞ、と心配しだすと、ついため込んでおきたくなりますが、そこは日々、一日一日、神に信頼することを訓練されるのです。明日のことは思い煩うな、天の父に信頼せよ、と。それからもう一つ、七日目の安息日に、民がマナを集めるという労働をしなくていいように、神は六日目にいつもの二倍、集めるよう命じました。そしてその時は、アーラ不思議、翌朝まで取っておいても、マナは腐りませんでした。神のみことばに従うと、こういうちょっとした不思議を体験することがあります。そしてモーセは民に、「今日の安息日は、それを食べなさい。今日は外に出て行っても、マナはないから。」と言いました。今日は取りに行くな、でなく、今日は行っても無駄、ないと言いました。が、いやいや、モーセはああ言っているが、もしかしたらあるかもしれない、と集めに行った者たちがいました。
もちろんありませんでした。翌朝まで残すなと言われても、翌朝まで取っておく。七日目は野に行ってもない、と言われても、出て行く。どこまでも神の言葉に従わない民。しかしよく考えると、彼らを簡単に裁くこともできない気もします。なにしろ、ここは何もない荒野。神が天からマナを与えてくださっている間に、少しでも蓄えておきたいと思ったのかもしれません。天からのパンも不作の日が来ないとも限らない、いつ止まるかもわからない。心配し出すと、つい集められるだけ集めておきたい誘惑にかられる。神のみことばはどこかへ行ってしまって。つまりは、神のご慈愛と全能の御力を信頼しきれないのです。何か月分、何年分も、保存できる状態で一度に与えられたら、安心するかもしれませんが、一日に一日分ずつ、その日の分だけ、となると、途端に心配になる。不安になる。愚かな金持ちのたとえとも重なります(ルカ12:16以下、新約p. 139)。そんな、神に信頼しきれない彼らの姿は、私たち自身の姿を映す鏡でもあるのかもしれません。
しかしそんな彼らも、最初は渋々だったかもしれませんが、集めたマナを翌日まで残さず、七日目の安息日は取りに出かけず、と神のことばに従って、40年もの間、マナで養われたのです。神は彼らを確かに養われました。その神のご真実を心に刻みましょう。この際、イエス様のみことばも見ておきましょう。マタイ6:31-346:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
神は恵みの手段として、祈りとみことばを与えておられます。神は、この恵みの手段を通して、聖霊によって私たちに働いてくださいます。これらの恵みの手段は、いわば、聖霊の通り道、聖霊が私たちの内に働いてくださるための手段です。もちろん、聖霊は自由に、御心のままに働かれて、これだけに限定されるわけではありませんが、通常の、聖霊が働かれる手段として神が定めておられるのは、祈りとみことばということです。ということは、これが、もっとも神を体験する方法、神を身近に、生きておられる方として知る手段ということです。聖書で「知る」という語は、単に頭の中の知識だけではなくて、体験を通して知るということでした。泳ぎ方を本で見て知識として知っても、実際に水の中で泳げることにはなりません。実際に泳ぐことができて、泳ぎを知っているということです。そのように、神を、キリストを、体験してー御言葉に実際に従ってー人格的に知ることが、聖書のいう「知る」です。このお方のことばは、確かに本当だ、と。信仰生活の長い方は、そういう経験をしておられるかもしれません。神を知るために、キリストを知るために、聖書のみことばに親しむ。そこに聖霊が働かれる。
そして神とキリストと聖霊との交わりが恵まれ、深められる。そしてますます確信が強められる。長い年月、あまたの苦難の中、主に従ってきたパウロが晩年、「私は、私の信じて来た方を良く知っており」と言ったのは、そういうことなのでしょうか(第二テモテ1:12、新約p. 413)。
ウェストミンスター小教理問答3によると、聖書には、私たちが神について信じるべきことと、神が人間に求めている義務について教えているとあります。また詩篇119:105、旧約p. 1032あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。どの道を行ったらいいのか、行くべきなのか、道を誤らないように、足元を照らしてくれるともしび。十戒をはじめとする律法、箴言、主の祈り、その他のイエス様のことば、使徒たちによる書簡に、私たちがどう生きるべきか、教えていることばがたくさん、記されています。またペテロの手紙第一2:2、新約p. 453生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。私たちのからだは、食べたもので作られるように、私たちの霊も、霊の糧であるみことばを摂取することによって形作られます。健全な成長のために、健康的な霊の食事を、偏らず、まんべんなく。また詩 119:50これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。悩みに沈むとき、慰め、生かしてくれるものでもあります。
また、使徒パウロは、エペソの教会を後にするとき、ただ単に「あなたがたを神に委ねる」でなく、「神とその恵みのみことばとに委ねます」と言い、さらに「みことばは、あなたがたを育成し、御国を継がせることができる」と言いました(使徒20:32、新約p.271)。誰が彼がでなく、みことばは…と。「 御言葉なる 光のうち 主と共に歩まば 」新聖歌 316番ある牧師は、生涯で100回通読したいと目標を掲げていました。またほかのある牧師は、新約聖書の中で牧会書簡と言われるテモテへの手紙第一、第二、テトスへの手紙の三つーこれらはパウロが弟子のテモテとテトスに書いた書簡―を何百回読んだことか…と仰っていました。神の羊たちを牧するにあたって、どうしたらいいのか、神のみことば以外に拠り所とするものはなかったと。繰り返し読むことで、見えてくること、気づくこと、あります。また聖書というのは不思議な書物で、何回読んでも飽きることがないし、20代で読んだときと、40代で読んだときと、60代、80代で読んだときでは、また違ったところが心に響くでしょう。また、その時その時の状況によってピッタリな、まさに必要なみことばが与えられたりするものです。
聖書のみことばを読むというときに、なるべく一部に偏らずに、聖書全体を俯瞰するように読むことが理想的です。もしまだ聖書通読をしたことがない方は、一度、トライしてみることをお勧めします。最後まで読み切れる自信がないという方もおられるかもしれません。でも安心してください。途中で挫折したとしても、救いから漏れることはありません。私たちはみな、すでに恵みによって、キリストによって、救われているのです。救われるために御言葉を読むのでなく、すでに救われている者として、愛する天の父のみことばを読み、受け取り、それによって生きるのです。クリスチャンにとって、聖書のみことばは、すでに受けている救いを背景として読むべきものです。そうでないと、聖書のみことばの本質を見誤ってしまいます。ですから通読できるか、できないかということではなくて、神を、キリストを求めて、トライしてみる価値があると思います。聖書通読すること自体が目的になってしまうと、つらくなるものです。聖書を読む目的は神を、キリストを「知る」こと。そして神の愛、キリストの愛をさらに知り、ますます神を、キリストを愛することです。そして隣人を愛することです。
キリストの似姿に造り変えられていくことです。そのために、神のみことばを読み、それによって生きる。そこに聖霊が働いてくださると信じて。古代の、しかも日本とは文化、風習、民族性、価値観が全く違うイスラエルが舞台ですから、日本語に訳されているとはいえ、わかりにくいところもあります。そういうところは気にせずに、先に進みましょう。特に説明がなくても、読んだだけでわかるところも多いですし、心に留まるところ、感動するところも、必ずあるはずです。主を慕い求める心をもって、コツコツと聖書を読み、みことばを信じて従うならば、そこに聖霊が働かれます。神がともにおられて、みわざをなさいます。神が私たちの心をそのようにしてくださり、志を立てさせてくださいますように。