礼拝説教要旨 2023年4月16日
空っぽの墓 =週の初めの日の朝の出来事=
(ヨハネの福音書 20:1~10)

ちょっと横道にそれますが先ほども司会者の祈りでようやく普段の教会の歩みにもどることができたということでしたが先週から1つの礼拝をささげられています。私の礼拝の奉仕が二か月に一度偶数月の第二週今日礼拝にたたせていただいています。昔から付き合いのある方は私のことを分かっていると思いますがあがり症でドキドキするそれでも神様が用いてくださっている久しぶりにみなさんとこうしてお話させていただきドキドキして緊張しています。神様がいっしょにいてくださらなければ自分の務めをはたすことができないことを実感しています。イエス様が十字架の死から蘇られたことを心から覚えて礼拝をささげるときを迎えています。私自身の信仰においてクリスマスよりもイースターに重きをおいて大事にして歩ませていただこうと思っています。そう思っていても年度替わりの忙しさの中でついつい通り過ぎてしまいます。イースターはその年によって変わるということ3月終わりだったり4月だったりイースターを毎年覚えるのは案外難しいなと実感しています。私が洗礼を受けたのが1963年 4月14日イースター礼拝で洗礼を受けています。私にとってはこころにとめさせられる礼拝で今日は9日ですね。

ですから日にちがずれているので整理しないとわからなくなるのですがイースターに洗礼を受けることに導かれたことが私が自覚的に信仰生活をはじめたことを思い起こされるのです。福音書はすべて週の初めの日の朝早く女たちが墓に向かった。ところがイエス様の体が墓になかった。週の初めの日の朝というのが私たちの信仰にとってはとても大事なのだと自分で言い聞かせているわけです。その中で週の初めの日の朝に復活があったのですが復活を信じて信仰生活を続けているのがとても不思議なことだと思うのです。みなさんどう思われるでしょうか。そこに私たちの大切な第一歩があると分かるのですが復活を信じるなら、信じられるなら聖書のほかの箇所も信じることができるだろうとよく言われますしなるほどそうだなと思います。それくらいに復活信仰は大事なのだと自分に言い聞かせながら歩んでいるのです。自分はなぜそれを信じるようになったのかとても不思議な気がするのです。今朝そういう意味でとても信じられないようなできごとを信じるようになった信じる信仰によってクリスチャンとして歩ませていただいていると再確認させていただきたいのです。弟子たちでさえ復活はとても信じられないこととして通り

過ぎようとしている姿を見受けられるのです。私自身もしっかり心に留めたいと思っているのです。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたと知っていますが子どものころからの疑問はどうして三日目なんだろう。最後の晩餐を弟子たちと過ごされたのが木曜日の夜。ゲッセマネの園で祈られ、金曜日はあさから裁判にかけられ十字架にかけられ午後三時ころに真っ暗になってイエス様が息をひきとられた安息日がはじまるからさっさと片付けなければいけない・・と人々は考えた。日没から次の日が始まるという考えたから急いだということなのですがイエス様が十字架につけられ葬られて土曜日の安息日が終わって安息日があけたので女の人たちがかけつけて亡骸をもう一度丁寧に布でくるむ・・そういうことをしようとかけつけたのです。四つの福音書にはすべて女の人たちが墓に駆け付けた。心配していたことはお墓の前の大きな石を誰が動かすのかお墓についたところ墓石がころがしてあってイエス様の体が見つからなかった。ヨハネ20章1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、

もうひとりの弟子とのところに来て、言った。体を包んであった布が残されていた。ペテロたちのところに大慌てで駆けつけて「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。といいます。イエス様の体が盗まれた・・としか思えなかったと聖書は記すのです。聞いたペテロたちは大慌てです。大きな石が入口にたてかけられて封印もされた。番兵もたてられた。3節をみると3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。みなさんのなかでかけっこに自信がある方は何人くらいいますか?私は自信がないので私はペテロのように走ったらあとからついていくほうだなと思うのですがこの光景もとても不思議な光景だと思います。5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。先についたもう一人の弟子、福音書を書いたヨハネといわれていますが後からついたペテロがわれ先に入って中を見ているのです。6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、

離れた所に巻かれたままになっているのを見た。この記述もずいぶん細かい記述です。私が教えらえれたのは体に巻いた布と頭に巻いた布は別なものだった。すっぽりイエス様の体が抜けてなくなっているという光景なのだと思います。女たちの告げた報告は「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。盗まれたとした思えなかったといいます。8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。最後の信じた・・というのは何を信じたのかなというのが本文を解釈するときにいろんな意見があるようですがイエス様の復活を信じたということよりはイエス様の体がないことをハッキリと信じた。墓がからっぽだと見届けた。9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。先ほど交読した詩篇11篇はメシヤが蘇ることを預言した箇所ですがイエス様は生前いろんなことを預言していました。それをおっしゃったときにはひとりの人をよみがえらせたことを弟子たちは経験しているんです。11章でラザロをよみがえらせて弟子たちに見せてくださっていました。けれども

弟子たちはイエス様がよjみがえられたとは気づかなかった。ルカの福音書に同じ記述があります。イエス様の体がない・・けれどもマグダラのマリヤはイエス様がよみがえられたと弟子たちに報告したのですがそれはたわごとにすぎない・・と弟子たちは思っています。戯言ということばは酔っぱらっている人が意識をなくなってわめいているとみんなは思ったのですがとても信じることができない事柄だと思った。その中でペテロはどのようにその出来事を受け止めていたのかなと気になります。イエス様のことはよくわかっているつもりでいたと思います。みんながイエス様を知らないと言っても自分はそんなことをしないと胸をはっていたのですがイエス様を知らないと言ってしまったペテロです。イエス様の十字架を目の前にしたペテロはすっかり勇気を失ってしまっていた。イエス様を知らないと言ってから外に出て激しく泣いたとあります。ペテロは失望して落胆して立ち上がるすべを見失っていたと思います。弟子たちを前にしてあなたがたは私を知らない・・といいますとイエス様がいったときにペテロは私はそんなことはしないといっているんですね。私は緊張タイプでなにがあっても緊張するのですが

教会のハイキングで日和田山より険しいところにいって大きな石が落ちてきてびっくりしたことがあったのですがそんなことがあるとすぐに引き返そうとなってしまう私でそのまま帰ってしまったことがあります。なんて心配性なんだろうとしか思えないのですが心配性でありながらもペテロの立場に立ったら自分は大丈夫ですといってしまいそうなところがあります。それは見事にひっくりかえってしまってイエス様を知らないと言ってしまった。十字架の死ののちのペテロは打ちのめされていたのだと思います。イエス様を見届けることもできないでひっそり隠れていたのかもしれない。弟子たちの誰一人として葬りに立ち会っていません。週の初めの日の朝に知らせが届いたときにイエス様がよみがえったとは思えなかったと思います。他の弟子たちも十字架の前から逃げて行ってしまっていました。ヨハネとペテロ以外は確かめに行ったとも書いていません。彼らがイエス様のよみがえりを信じられるようになるには何が必要だったのでしょうか。イエス様ご自身がよみがえったご自身を弟子たちにはっきりと見せてくださったそこにあるのだと思います。マグダラのマリヤにあらわれてそのマリヤが主にお会いしたと語っています。

弟子たちがあつまっていた夕方イエス様があらわれて私が生きていると見せてくださった。20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエス様の側から弟子たちに姿をあらわしてくださったことが弟子たちが復活を信じる一番大きな理由だったのです。このときとルカの福音書にある復活の日の夜のことが同時なのか別な機会なのか意見がわかれるところですがいずれにしても信じられないでいる弟子たちの所にイエス様があらわれてくださっている。ルカの福音書ではエマオに向かう弟子たちの前にイエス様があらわれてくださっている。ペテロに直接お姿をあらわしてくださったらしい・・とルカの福音書には書かれています。いろいろ読み比べてみて実際何がどうなっていたかというとイエス様がお姿をあらわして弟子たちに見せてくださった。そのようにして弟子たちは蘇られ今も生きておられるとわかったようです。

以前と違うのはわかった途端にイエス様がいなくなってしまうという不思議なことが起こっているのですがよみがえりの体をもって弟子たちの前にあらわれてくださっている。ペテロには特別にお姿をあらわしてくださったのだと福音書から読み取ることができます。大きな失敗をしたペテロには直接姿をあらわしてくださっています。イエス様はペテロに向かってあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈ったと語っています。だから立ち直ったら仲間たちを力づけてやりなさいともおっしゃっているんです。イエス様ははじめからペテロの弱さをご存じででも彼が立ち直れるように手を差し伸べておられたと分かります。その記事からペテロのために祈ったとは他の弟子たちのためにも祈っておられたと分かりますし私たちはイエス様に祈られて今があるとわかりますし復活という信じられない出来事も信じられるように導いておられたのだと分かります。神学生のときにルカの福音書のペテロのために祈った話をしてくださった先生の話を思い出すのですがふるわれたものの謙虚な力づけが大事だと思いました。打ちのめされたものが自分の弱さを知ったうえで謙虚にされ謙虚さの中でお互いに仕えあう

それがとても大事なのだと今も心に響いています。信じられない事柄を聖霊に導かれてイエス様ご自身にお会いする機会を与えられ今がある。信じられない人に対して何で信じないのだろうと思ってしまうことがあるのですが私たち自身が信じられないことを神様が働いて信じる者にしてくださっているのだとふるわれたものの謙虚な力づけ。お互いの弱さのために祈りあったり支えあったりということに導かれるのだと思います。復活の出来事をそのように受け止めながら私たちはそのように信じる者にかえられたことを決して忘れないようにしたいと思います。ヨハネの福音書をよんでいると週の初めの日にイエス様が弟子たちにあらわれたときにそこにいなかったトマスのことが書かれています。日曜日の礼拝に来られない人が何人かいらっしゃることを思うと今日の説教はとても教えられた・あの人に聞かせたかった・・と休んでいる人のことを思い出すことがあります。20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。

しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。これも私たちの姿があらわされていると思います。こういうときには威張っている人が強いんですね。他の弟子たちはたじたじになって諦めていると思うのですが20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。一週間後にトマスもいるところにイエス様はわざわざ現れてくださったという記事です。20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」決してトマスを責めるわけではない。20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ここに見ずに信じる者は幸いです・・とおっしゃっている

それが私たちへの約束のことば・励ましの言葉なんだと迫ってきます。見ないでも信じる幸いがあるのだと約束してくださっています。私たちが信仰に導かれるのは私たちひとりひとりにイエス様が語り掛けてくださって手を差し伸べてくださっているからなのだ。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」空っぽの墓は厳然たる事実でイエス様の亡骸はありませんでした。ヨハネの11章でわたしはよみがえりですと語っておられたイエス様がその言葉の通りよみがえられた。ご自分が死を打ち破るものだと明言しておられた。今日に至るまで信じないものにならないで信じる者になりなさいと語り続けてくださっているので聖霊に導かれてわたしたちも信じる者になったのです。このイエス様の「信じないものにならないで信じる者になりなさい」ということば「見ずに信じるものは幸いです」という言葉を拠り所にしながら信仰が深められることを祈り続けたいと思います。イエス様は聖霊なる神様として臨在してくださっているのだということ聖霊が働くときに信仰が一層確かなものにされるのだと覚えたいと思います。週の初めの日に礼拝をささげていることには大きな意味があるのだと

世界中のクリスチャンが週の初めの日に礼拝をささげています・・と週報に書かれていますがセブンスデーの人たちは土曜日に礼拝をささげています。世界中のすべての教会は霊的な意味での安息日と日曜日を覚えて礼拝をささげています。週の初めの日ごとに礼拝をささげているのはとても大事なことであってそのことを通して信仰が深められていきます。