主に愛され、主の血によってあがなわれた私たちは、主を愛し、従う契約の中にある。
この数章にわたって、主なる神がイスラエルの民に与えた契約を見てきました。十戒という大原則と、それを具体的に市民生活に適用した定めと述べてきて、いよいよ、この24章は契約の締結式、批准式となります。この24章は、三つの場面に分かれます。3-8節は、山のふもとで(4節)イスラエルの民が主と契約を結ぶ場面。9-11節は、中腹で(1節)、アロンとその息子ナダブ、アビフ(のちに大祭司となる家系)と、長老達70人が神の御前で食事をする場面。そして12-18節は、さらに上って頂上で(16-18節)、モーセ一人が神の臨在される雲の中に入っていく場面です。当時は、こういう職制による区別が明確に引かれていましたから、誰でも彼でもが勝手に上っていく事はできませんでした。王の前には、誰でも彼でも勝手に出ることはできず、ただ王が召した者だけが許されるように、神が召してくださった者だけが、神の臨在の山に上ることができました。今日はありがたいことに万人祭司の時代です。祭司というより、キリストを信じた者は誰でも、神の子とされたので、神を親しく知るようにと、信仰の高嶺へ上ってくるようにと召されています。そこにはいっさい差別がありません。
さて、今日は三つのうちの最初の場面を見て、今日、私たちが主と結んでいる契約について学びたいと思います。
主から十戒と定めを受けたモーセは、主の指示に従って山を降り、民にそれらのことばを告げました。正式な契約締結式の前に、あらかじめ民の同意を確認するのです。民は声を一つにして「主の仰せられたことは、みな行ないます」と答えました。いい感じです。モーセは、ここで主の言葉をことごとく書き記しました。これで律法は、誰でも読むことができる成文法となりました。そして彼は翌朝早く、祭壇を築き、またイスラエルの12部族に従って12の石の柱を立てました。古代、契約の永続性を証しするものとして、石を記念として立てました(創世記31:45など)。ひと吹きの風で消えてなくなる砂のようなものではなく、何年もの雨風に耐えて立ち続ける石のように、契約はいつまでも変わることがないと。そしてモーセは、若者たちに命じて、全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げさせました。この二つのいけにえについては以前、学びました(20:24)。どちらのいけにえも、最初に、捧げる人がいけにえに手を置いて(捧げる人といけにえが一体となることを表す)、そののちにほふります。罪人が神に近づくなら、死ななければならないのが、代わりにいけにえが犠牲として命を取られるのです。
その後、全焼のいけにえは、文字通り、全身、内臓も全部、焼いて煙にします。これは神への全き献身を表します。他方、和解のいけにえは、その肉の一部を、いけにえを捧げた人と祭司が、宮で食べることになっていました。これは神との交わりが回復したことを表しました。6節以下、契約締結式が厳かに行われます。ほふったいけにえの血の半分は、祭壇に注がれ、残りの半分は、民が契約の書に従うことを誓ったあとで、民に注がれました。祭壇は主の臨在されるところです。こうして、血が主と民の双方に注がれてのち、モーセが「これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」と宣言しました。これで無事、契約は締結されました。「契約の血」とは、古代、一般的に契約の当事者が違反したときは、血を伴うことになっていたからでしょう。しかしこの主との契約においては、それだけではなく、この血は祭壇と民をきよめるものでもありました(ヘブル9:19-22、新約p. 435)。このいけにえの血なしには、この契約はありえませんでした。「 十字架にイエス君 われを贖い給う 」新聖歌 108番
この時締結された契約は、「モーセ契約」「シナイ契約」「律法の契約」などと呼ばれます。天地を造られた神と契約を結ぶなんて、恐れ多いような、でも、うらやましいような…。でも、他人事ではありませんでした。毎月、行っている聖餐式の中に、次のような一文があるのを覚えておられるでしょうか。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。…」(マタイ26:27-29)。また「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(第一コリント11:25)。実は、私たちも天地を造られた神と契約を結んでいます。それは新しい契約です。モーセ契約もすばらしい神の恵みですが、それは古い契約であり、新しい契約はそれよりもはるかにすぐれたものです。基本的な構造はどちらも同じです。人の側が何かしたから、神が救ってくださった、ではなく、神の側からの一方的な恵みによって、まず救われた。まず神との恵みの関係に入れられた。恵み先行。そして、その恵みの関係にすでに入れられている者として、主を愛し、主に信頼して、主の言葉を行います、と応答する。
これは古い契約・新しい契約に共通の原理です。十戒も「わたしはあなたがたを、エジプトの地、奴隷の家から連れ出した、あなたがたの神、主である。」という序文から始まって、その次に戒めが来ました。「律法の契約」とも言われるモーセ契約においても、そこは変わらないのです。アダムの堕落以降、人が救われるには、この道以外にないのです。すべての人が罪あるものとなってしまったのですから。恵み先行の原則は同じですが、古い契約と新しい契約では、決定的な違いがあります。古い契約では全焼のいけにえや和解のいけにえなどの動物の犠牲が捧げられ、その血が注がれましたが、新しい契約では、尊い上にも尊い生ける神の御子キリストが十字架上に捧げられ、きよい上にもきよい血潮が注がれたということです。古い契約では、動物の血が民に振りかけられましたが、新しい契約では、私たちが、キリストの十字架が自分のためだったと信じたときに、キリストの血潮が、―目には見えませんが、霊的にー信じる者の心に振りかけられました。それは私たちの良心をきよめるものでした。ヘブル10:22、新約p. 436。
そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、…たのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。キリストの血潮によって、神と私たちとの間に、新しい契約が結ばれました。古い契約の種々のいけにえは、キリストをあらかじめ指し示すものでしかありませんでした。その古い契約が指し示していた、本体・実体であるキリストが十字架にかかられ、血を流されたのが、新しい契約です。動物の血には、罪を赦す力はありません。ただ罪なき聖い神の御子の血潮だけが、罪の完全な赦し、神との完全な和解を実現したのです。生ける神の御子の血が流されたという事実を前にして、私たちは罪の深刻さを突き付けられるのではないでしょうか。私たちの罪は、それほどのものだったのだと。それほどのものを、生ける神の御子が代わりに引き受けてくださったのかと。私たちを愛するゆえに、自ら進んで。この事実をまず、よく思い巡らしましょう。聖霊が、この福音を私たちの心に鮮明に示してくださいますように。この福音にあらわされた神のご愛、ご真実を知って、だからこそ、私たちも心から主を愛し、主に信頼して、主の御言葉に従います、と応答する。
これが本来あるべき理想の姿です。しかし、現実にはなかなか理想通りにはいきません。自分の中に、それほどの愛があるようには思えないのです。それでもいいのです。できるどころから、始めればいいのです。何でも、気づくことから始まります。では、具体的にどうすればいいのでしょう。清水武夫師監修の「契約があらわすキリスト」という本には次のように述べられています。「新しい契約のもとでは、聖霊が重要な働きを行って、キリスト者を神のみこころに従うようにします。しかし、信仰者は与えられた恵みの手段(御言葉、礼典[洗礼式、聖餐式のこと]、祈り)を積極的に使う責任を負っています。もし神の律法に従わないのなら、神の祝福の充ち満ちた状態のうちに生きていることにはならないのです。」神の御心(律法)に従うために、恵みの手段(御言葉、礼典、祈り)を積極的に使う責任は、私たちの側にあるといいます。「契約」ですから、私たちの側でなすべきことを果たすことによって、与えられる祝福があるのです。「神の祝福の充ち満ちた状態のうちに生きる」ということがそれを表しています。それは、第一義的には霊的祝福です。すべてにまさって有益な霊的祝福です。
もちろん、それに加えて必要なものも与えられます。神は、私たちにその霊的祝福に与らせたいと願っておられます。それゆえ、その本には「義を行うことなく生きるキリスト者は、神によって懲らしめを受けます(ヘブル書12:6)。」ともあります。ギクッとしますが、真実だと思います。神は私たちを愛しておられるのですから。また次のようにも書いています。「キリスト者は、おのれのなした行いに応じて裁かれます。みことばはこの点について、一貫して述べています。救いはキリストがなしたわざへの信仰のみによって与えられますが、裁きは、良くも悪くも人の働きに応じて行われます。神のみこころはモーセ契約の「十のことば」にまとめて与えられていますから、信仰者の生活における十戒の変わらぬ意味ははっきりしています。」(以上、前掲書p.275以下より)ちょっと塩気の効いた言葉ですが、私たちが知っておかなければいけないことだと思います。十戒に表されている神の御心は、新しい契約に生きる私たちにとっても、従うべき神聖な基準だということです。もう一つ、古い契約と新しい契約の大きな違いは、今は聖霊が与えられていることです。モーセ契約では、律法は人の外側に、石に書き留められました。
それに対して新しい契約のもとでは、律法が人の心に書き記されると言われます(エレミヤ書31:33、旧約p. 1303)。人の外側でなく、心に。新しい契約のもとでの律法の特徴は、この内的な性格にあります。それでも、聖霊が与えられているからと言って、何も問題なく、スイスイとうまくいくわけではありません。転び、傷つき、挫折することもあるでしょう。しかし、何度失敗しても、神のご愛は、いささかも揺るぐことがありません。綱渡りの練習のたとえを思い出してください。罪の性質を残す身ながら、一生懸命、御心を行おうと、何度も綱から落ちながらも、努力している我が子を、天の父が冷たく突き放すわけがありません。むしろ、手に汗握って、応援しているに違いありません。この、失敗しても神の愛を確信して、何度でも立ち上がるということ自体が、聖霊によるみわざなのだと思います。ここが確信できると、信仰生活の光景がガラリと変わります。神の愛の確信は、聖霊のみわざです。順風満帆で何の挫折もない信仰よりも、この信仰の方が深い信仰であり、主に喜ばれるのではないでしょうか。
繰り返しますが、神との恵みの関係は、いっさい私たちの行いによらず、キリストが成し遂げてくださったことだけにかかっているので、私たちの出来・不出来によって、揺るぐことがありません。その上で、主は私たちに、ご自身の御言葉を守り、行うようにと召しておられます。別な表現をすれば、罪の赦しを受けながら、御言葉に従うということです。絶えず、四六時中、頭のてっぺんから足の先まで赦しを受けながら、すっぽりと赦しの中に包まれながら、御言葉に従うのです。全身丸ごと、というより、私たちをすっぽり覆ってあまりあるほどの赦しが与えられているという安心感の中で、できるところから始めればいいのです。ゼロからのスタートでいいのです。自分は神をも人をも愛せない、と認めて。その方が逆に気が楽です。そこから一ミリでも、主に従う心に変えられていけば、その成長を主が喜ばれるのです。主は赦し続け、恵みの中に保ち続け、励まし続け、支え続けてくださり、御国まで導き続けてくださいます。大切なのは、十字架にあらわされた主の愛、主の真実を思うこと。思い続けること。そこに留まることです。そのゆえに、主の御言葉を守り、行います、という意思を失わないことです。
ペテロの手紙第一1:2、新約p. 452父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。