礼拝説教要旨 2023年3月26日
天国の光景
(出エジプト記 24:9~18)
今日の要点

天の父が私たちのために用意している天国の希望を心にしっかりと刻む。

はじめに:

前回見たように、24章は主なる神とイスラエルの民との契約の締結式、批准式です。ここは三つの場面に分かれていて、前回見た3-8節が、山のふもとで、イスラエルの民全体が主と契約を結ぶ場面。そして今日見る9-11節は、山の中腹で、後に大祭司となるアロンとその息子たち、それに長老70人が神の御前で食事をする場面。そして12-18節は山の頂上で、モーセ一人が神の臨在される雲の中に入っていく場面という構成です。

① 契約締結後の会食:天の光景(9-11節)

契約締結の後に食事を共にするのは、当時の慣習だったようです(創世記31:44-54)。しかしここではそれだけでなく、前回見たように、契約締結の時に和解のいけにえが捧げられていたので(5節)、その和解のいけにえが表す意味―神との交わりのまったき回復―を表すものだったのでしょう。食事を共にすることは、交わりを表します。その幻想的な場面をもう一度、読みましょう。24:10 そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。24:11 神はイスラエル人の指導者たちに手をくだされなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。サファイヤという宝石は、まさにここにあるように、透き通った青空のようなブルーなのでしょうか。御足の下に、そのサファイヤが敷石のように敷かれていたと言います。人間からは、はるか上方に見上げるばかりの大空も、神にとっては足の下でしかない、ということも暗示されているでしょうか。ここには、神の御顔とか、全身の様子とか、ほかのことが記されていないので、彼らは足もとだけ見たのでしょうか。神の足だけ、ヌッと現れたというのも変な気がしますが。

もちろん、元々、神は霊であられ、本来、身体を持たないのですから、このときは彼らにわかるように、何らかのお姿を取られたのでしょう。いづれにせよ、それはあたかも神の住まいであるかのような、きよらかなものだったのでしょう。しかも、彼らはその光景を見ただけでなく、そこで飲み食いをしたというのです。先にほふった和解のいけにえは牛でしたから、牛のバーベキューを食べながらワインなど飲んだのでしょうか。聖なる神の御前で!御国では私たちも同じような宴にあずかることができるようです。イエス様もその時を楽しみにしておられるようです。マタイ 26:29「…わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」ところで、ここでちょっと目を引くのは「神はイスラエル人の指導者たちに手をくだされなかったので」とあるところです。確かに、本来はイスラエルの指導者たち(大祭司の家系や長老たち)と言えども、聖なる神を見ることはできないのです。彼らも、私たちと同じ罪人ですから。罪ある人間が、神を見るなど、ましてや、その御前で飲み食いするなどということは、天地がひっくり返っても、ありえないことでした。

それが可能になったのは、一つには、十戒をはじめとするモーセ契約の締結と言う歴史的な特別な時だったからでしょう。彼らが、主の教えを守り、行うなら、このようなすばらしい主との交わりが恵まれると、彼らを励ますこともあったでしょう。しかしそれだけでなく、ここには「和解のいけにえ」のもたらす恵みがどんなものかを、教えているのではないかと思います。和解のいけにえは、罪の赦しと、神との交わりの全き回復をもたらすものでした。罪の赦しがあって、はじめて、神との交わりの回復がある。アダムの堕落以降、すべての人は神の臨在の前から―エデンの園からー罪のゆえに追放された状態。まず罪の赦しがなければ、神の臨在のもとに帰ることはできません。大祭司となるアロンでさえ、いやモーセでさえ、そうです。そして、和解のいけにえが表していたのは、真の救い主イエス・キリストです。全世界、全宇宙をお造りになった方、万物の所有者である方が、そのすべてを合わせたよりもはるかに尊い御子を私たち罪びとのために、人として世に遣わし、御子は十字架上で苦しみを受け、血を流して、死んでくださった。私たちの代わりに、自ら進んで。天地がひっくり返るよりも、ありえないことが、起こったのです。

その御子キリストの流された血潮のゆえに、信じるすべての人は、罪赦され、完全に赦され、その結果、聖なる神との交わりにあずかることができるようにされた。それはすべて、ただただ御子キリストのしてくださったことの故です。キリストを信じる者は誰でも、このきよらかな天に迎えられ、イエス様と食事を共にするという、考えられない恵みに招かれています。いや、懇願しておられるかのようだと、パウロは言いました。神のその熱い心をー御子をさえ、くださったほどの熱い心をーわかってほしいと。第二コリント5:20、新約p. 351こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

② 主に呼ばれて雲の中へ入るモーセ:主に対する信頼・従順(12-18節)

第三の場面。契約後の食事の後、今度は主はモーセに、再び山に上るように指示しました。その目的は、主、自らが書き記した「おしえと命令の石の板」を授けることでした。これは十戒のことと思われます(34:28)。途中までは従者ヨシュアを連れて行きます。やがてモーセの後継者になる人です。そしてモーセ不在の間は、アロンとフルという、これまでもモーセとともに主に仕えてきた人たちに、あとを任せました。そしてモーセが上ると、例によって主の栄光・臨在を表す雲が山頂付近を覆い、6日間、モーセはそこで足止めされて、7日目にようやく主の雲の中へと入ることができました。モーセといえども、主の雲の中に入るには、6日間、世俗の匂いを消してから、きよめられてから、ようやく入ることができたと言うことでしょうか。17節にあるように、主の栄光の雲は、とうてい人間を寄せつけないと思われる様子でした。「主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。」のです。赤々と燃え上がる火の雲だったのです。火は罪や汚れを焼き尽くす、きよめの働き、あるいは裁きを表すのでしょうか。普通、燃え上がる火のようなところへなど、恐くて入れるものではありません。

ところが、アッと驚いたことに、その燃え上がる火のような雲の中へ、モーセは入っていったのです。18節「モーセは、その雲の中に入っていき」。モーセの驚くべき主への信頼・従順でした。こういう主への信頼があるからこそ、モーセがここに召されたのでしょう。主が召してくださったのだから、決して悪いようにはなさらない。そんなモーセの驚嘆すべき信仰の従順です。主はモーセに「わたしのところに上りなさい」と言われました(12節)。言い換えれば、わたしに近づきなさい、と言うことです。新約の時代である今は、モーセだけでなく、私たち一人びとりが、そのように招かれています。ヤコブ書4:8、新約p. 449神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。神は、無理強いをするのが、お嫌な方なのでしょうか。私たちの方で神に近付くならー神を求めるなら、慕うならー神は私たちに近付いてくださる。私たちの方で敬遠したいな、そんなに近づきたくないな、と思っているなら、無理強いはなさらない。主を愛する者のところに、主は来てくださるのです。主はご自身の子どもたちを召して、ご自身のもとに近付いてほしいと願っておられるに違いないのですが…。

「 われらついに輝く御国にて きよき民と 共に御前に会わん 」新聖歌 517番多くの人にとって、青空を眺めるのは気分の良いものなのではないでしょうか。神が空をあのような色にお造りになったのは、私たちの精神衛生上、よいということもあるのかもしれませんが、同時に、私たちに天をあこがれさせるためでもあるのかな、などと想像してしまいます。今日の個所で、神は天国を青空のイメージで表されました。またそれは、サファイヤを敷き詰めたような、透き通った青空のようとも。サファイヤの宝石言葉は「慈愛」「真実」などだそうです。誰が決めたのか、わかりませんが、多くの人々が青空のような青から受けるイメージなのでしょうか。期せずして、と言いましょうか、それは天国にふさわしいことでした。「慈愛」と「真実」この二つは、神の本質的なご性質を表すもののように思われます。聖書では「恵みとまこと」という言葉がよく使われます。詩 108:4あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。罪を犯すことなしに、生きることのできない私たち人間のために、罪の赦しによって救われる道をご用意くださった、神の恵み深さ。無条件の恵み。一方的な恵み。

と同時に、神は、罪をいい加減に扱って、ナアナアで済ませるような不真実なことは、できません。もし天国がそのような所なら、私は行きたくありません。行っても、ストレスが永遠に続くでしょう。神は、私たち人間を、神に似せて、神のかたちに造られたので、私たちは義が行われないことにー欺きや偽り、不義、不正、その他あらゆる悪がまかり通ることにーストレスを感じるのです。耐えられなくなるのです。しかし天国は、そのようなことが一切なくなります。あるいは世の中の不条理、悪だけではなく、自分が経験したなぜ、どうして、ということ。それら、地上にある魂の心を覆っていた雲が、天国においては、すべて吹き払われて、晴れ渡ります。すべてのことが、神の恵みとまことによって、起こっていたことを知って、私たちは納得して、私たちの心に、本当に本当の快晴が訪れます。青空のように、スカッと晴れ渡るのです!天国は恵みとまことが見事に調和して、きよらかに輝き渡るところです。天国とは、そういうところなのだと思います。青空を見上げるたびに、そのような天国の光景を思うことができたら、と思います。最後にもう一か所、天国の様子を描写していると思われるところを見ておきましょう。

黙示録22:1-5、新約p. 50122:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。そこには、呪われるものはなにもない、とあります。そして今度は、「神の御顔を仰ぎ見る」のです。神の御顔を仰ぎ見て、イエス様と食卓に着いて、天国のごちそうを頂いて、敬愛する兄弟姉妹方と、きよめられた状態で、互いに愛しあい、仕えあい、ともに永遠に神を心からほめたたえる。自分自身の内にも、外にも、一ミリも悪が存在しない。呪われるものは何もない。

神のかたちが完全に回復した者たちにとって、恵みとまことが支配していることは心地よく、ただ尽きない喜びが、心の奥底から湧きあふれて、その泉は枯れることがない。このすばらしいゴールを、天の父は、愛するご自身の子たちのために、備えてくださっています。それが夢物語ではなく、私たちは事実、実際に、受け継がせて頂くのです。この特権を逃したら、永遠に後悔すること、間違いありません。この希望をしっかりと視界にとらえて、この望みに励まされながら、地上のしばらくの旅路を主の御言葉に聞き従って、主の御心に精一杯お仕えして、主と共に、歩み続けさせて頂きたいと思います。