私たちの羊飼いなるイエス様に心を留め、御声に聞き従う。
20章の十戒に始まった律法の結びの段となります。神はここまでイスラエルの民に、こういう場合はこうしなさい、と具体的に律法を教えてきました。エジプトの奴隷だったために、彼ら自身の生きる基準、法律というものがなかったイスラエルの民でしたが、これから神の国を建てあげるにあたって、それまでのエジプトの基準ではなく、神の民にふさわしい基準、すなわち律法が必要でした。それは、正義と公正と聖さと、そして隣人愛に満ちたものでした。それによって、彼らが平和に、幸せに暮らすようにと言う神の願いでした。その律法の中身が前回の19節までで終わって、今日の20節からは結びとなります。はてさて、神は律法の結びをどうされるのか。「さあ、わかったらこの通りにしなければひどい目に会うぞ!」と威嚇してやらせるスパルタ式なのか。それとも、彼らを励ましながら、やる気を出させる方式なのか。この時のイスラエルは、期待もありましたが、不安もあったでしょう。これから入ろうとしているカナン地方は、誰もいない空き地ではない。そこにはすでに屈強な、また好戦的な先住民が待ち構えています。彼らは神を恐れず、倫理的に堕落し、暴虐に満ちていました。
一方、イスラエルはと言えば、戦いの訓練など受けていない。武器らしい武器もない。長旅で疲れてもいる。本当に大丈夫なんだろうか…。考えると、怖じ気づきます。主は、そんな不安そうな彼らの顔を見て、励ましてくださるのです。我が子が不安そうな顔をしているときに、知らんぷりしている親はいないでしょう。なんとか励ましてあげようと思うでしょう。ましてや天の神は、愛するご自分の民が不安や恐れを感じているのをご覧になって、励まさないはずはありませんでした。
20節「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」神の使いが彼らと一緒にいてくれるということは、この上なく心強いことです。しかもこの「使い」は「わたしの名がその者のうちにある」(21節)と言われています。これは、その使いが主なる神と同一であることを意味します。主の人格と臨在が、その使いのうちにあるということです。ならば、文字通り無敵です。天地万物を造られた方が、味方であるなら、誰が敵対できるでしょう。しかもそのあと21節の神の語り口はどうでしょう。「あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者に背いてはならない。…」まるで、小さな子供を大きなお兄さんと一緒にどこかへ行かせる時に、お母さんがその小さな子に「お兄ちゃんの言うことをよーく聞くのですよ。お兄ちゃんから絶対離れてはいけませんよ。お兄ちゃんの言うことを聞かずに勝手な方に行って、迷子になったり、悪い人に連れていかれちゃうと行けないからね。」と言い聞かせているようです。
しかも、「その使いに背いたら、その背きの罪は赦さない」と一見、厳しい言葉を仰っているのも、人の話もろくに聞かず、勝手なほう、滅びの道へとフラフラと行きかねない彼らを案じての、威嚇の言葉なのでしょう。励まし、力付けつつ、締めるところは締める。みごとな手綱さばきです。この使いは、受肉前の御子キリストと思われます。神は私たちにも、私たちを守り、御国まで導く方として、私たちの羊飼いとして、御子を遣わしておられます。御子は身体は天の御座に着いておられますが、御霊によって信じる者のところに来てくださっています。
22節「しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。」主の御声に聞き従うということは、主と一体となるということです。主の心を行うのですから、主のからだとなるということです。具体的には、これまで律法で学んできたように、主を愛して、主のご性質である正義と公正、真実、そして隣人愛をわが心として、それを行うことを求めるということです。そのように、神のかたちに造られた人間が、神のご性質を反映させた社会を作ることが、神がこの地を造られた目的です。ですから、神は、地上に暴虐、不正、憎しみ、偽りなどがあるのを望みません。それらの行為には、その犠牲者が、嘆きが、叫びが、涙が、血があるゆえに、神はそれらを憎みます。それゆえ、裁きを必ず行われます。前にも言いましたが、カナンの地の先住民は、そのような状態だったのです。我が子を異教の神々に人身御供として捧げることさえ、していたのです。そこまで良心が麻痺しているのですから、他は推して知るべし。
それで神は、イスラエルの民によって、カナンの地に裁きを行い、悪を一掃し、代わってその地をイスラエルに継がせて、そこに神の国を建てさせようとしたのでした(もちろん、これは今日の中東問題とは別の話です)。23,24節で語られているのは、そのようなことを背景としています。23節の〇〇人は、カナンの地の先住民でしょう。神は、何の理由もなく、何の罪もないカナンの人々を追い払って、その地をイスラエルに与えるというのでは、決してありません。先住民の罪が、裁きを執行せざるを得ないほどに、罪の量りの目盛りを満たすまでになったため(参考 創世記15:13-16)、あたかもソドムに対して、天からの火によって、裁きを行ったように、ここではカナンに対して、イスラエルの民によって、裁きを行われるのでしょう。ですからまた、のちになって、今度はイスラエルの民がカナンの異教の風習に染まって、彼ら自身も人としての心を失って、おぞましい行いに染まってしまったときには、神はイスラエルに対して、アッシリヤ、バビロンという国々によって、裁きをくだされました。しかし、歴史の最後には、神はこの世界を造られた当初の目的を達成されます。
老使徒ペテロの心の目に浮かんでいたのは、その光景でした。第二ペテロ3:13、新約p. 463…私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。天国というと、どういうイメージを持たれるでしょう。とにかく楽しいところでしょうか。確かに神が備えてくださった御国は、喜びに満ちているところです。ただ、正義を望んでいない人にとっては、―もし仮にそこに入ったとしてもー居心地が悪いでしょう。反対に、義に飢え渇く人は、そこで満ち足りるのです。マタイ5:6、新約p. 6義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。キリストの十字架は、義に飢え渇く人のものです。自分のうちにある罪を悲しみつつも、そんな自分にキリストの義を与えてくださり、良心の平安を与えてくださった神、そして、ついには正義の住む新天新地を継がせてくださる神に望みを置いて、喜び、ほめたたえるのです。
約束の地を与えられる目的は、神の国が建てられることですから、当然、主に仕えるということが、第一にされなければなりません。「あなたがたの神、主に仕えなさい。」(25節)とここでも命じられます。十戒の中でも第一の戒め。神の国の一丁目一番地です。その結果、与えられるものとして、25節以下、パンと水の祝福、それに悪い病気が取り除かれること、子孫繁栄、長寿、敵がイスラエルをーというより、イスラエルとともにおられる主をー恐れて、背走すること、くまばちが敵を襲って彼らを追い払うことなどが、約束されます。ただし、主は一年のうちにすべての敵を追い払うのでなく、徐々にそうされると言われました。人がいないと土地が荒れ果て、野の獣が増えて、人を害するからです。31節には領土の範囲が示されます。「葦の海」はおそらくアカバ湾、「ペリシテ人の海」は地中海、この二つを結ぶ線がエジプト方面との境界線。「荒野」はどこを指すか不明ですが、おそらく地中海に面したどこかで、北と東の境界線はユーフラテス川。これはかつてアブラハムに与えられた約束とも重なるようです(創世記15:18)。結果どうなったかというと、ソロモンの時代にほぼ、これに近い版図となったようです。
この時から約500年後のことです。最後に32-33節で、くれぐれも、先住民やその神々と契約を結んではならない、それが罠となるから、と厳命します。先住民との契約とは、契りを結ぶというようなことでしょうか。異教の神々との契約とは、その神を自分たちの神とし、自分たちがその神の民となるということです。言うまでもなく、まことの主なる神に対する背信行為。主なる神との契約を捨てるということです。恐ろしいことでもあり、実は、神にとってとても悲しいことでもあったでしょう。愛する民に裏切られるのですから。神はご自身の民を愛しておられるのです。御子をくださるほどに愛しておられるのですから、私たちも神を第一に愛し、従う心を持ちたいと願わされます。マタイ6:33、新約p. 11だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。「 われらは主のもの 主に贖わる 」新聖歌 206番今日の箇所には「わたしは(が)」が繰り返されていました(新改訳聖書では、ひらがなの「わたし」は神を表します)。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせる。わたしが備えた所にあなたを導いて行かせる。
わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、そこの民をかき乱す。わたしは、くまばちをあなたの先に遣わし、彼らを追い払う。わたしは、あなたの領土を、ここからここまでとする…。目に見えるところでは、イスラエルがカナンの地を戦って占領したように見えます。が、実際は、決して彼ら自身の力によるのでなく、すべては主がなさったことでした。イスラエルの民に求められていたのは、戦いの訓練や武器を調達することではなく、ただ神が遣わされた使いに心を留め、その御声に聞き、従うこと。これなのです。これが神の約束の実を受け取る唯一の方法なのです。神の約束は、常に信仰という手によって、受け取るべきものです。私たちも、歴史のゴールの神の国もそうですが、今、ここで部分的に、神の国のいわば前味を味わうことができます。イエス様は、天の父は求める者に、喜んで御国をお与えになると教えてくださいました(ルカ12:32、新約p. 140)。それを受け取るために必要なのは、やはり信仰です。羊が、羊飼いの声を知って、そのあとについて行くように、私たちの羊飼いとして遣わされたイエス様のあとについて行くことです。そのために必要なことを3点。
まずは、イエス様に心を留めること。いるんだか、いないんだか、わからないような生活、イエス様と無関係であるかのような生活やふるまいでなく、まず生活の中でイエス様に心を留めることからです。
イエス様の御声に聞き従うこと。どうしたらイエス様の御声を聞き分けることができるのでしょう。神の言葉である聖書に親しむことによってです。聖書の一部だけでなく、聖書全体に流れている教えを学び、御言葉を心に蓄えることによってです。それによって主のご性質、御心に親しみ、私たち自身の心がそれになじんでいきます。
祈りの中で、聖霊の助け、導きを求める。聖霊は、私たちの心に、ある言葉や思いを与えてくださることがあります。それでエペソ書6:17(新約p. 381)には「御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい」と言われています。聖霊が、私たちの心に必要な御言葉を与えてくださるように、祈り求めましょう。ときに従いたくないと思う言葉が与えられるかもしれません。悔い改める、身を低くする、誰かに謝るとか…。肉を十字架につけて従う御言葉こそ、その先にある恵みも豊かな実りを与えるものと思います。主が私たちの羊飼いです。私たちの望み、拠り所は、この主です。主は、全宇宙の造り主でありながら、私たちにいのちを得させるために、ご自身人となって世に降り、十字架の苦しみまで受けてくださいました。これ以上に力強く、真実な方は他にいません。この真実な主に望みを置いて歩む。この主に信頼して従うという姿勢を、身に着けたいと願わされます。