礼拝説教要旨 2023年3月5日
イスラエルの三大祭り
(出エジプト記 23:14~19)
今日の要点

私たちを愛する父なる神は、歴史のゴールに、喜びの祭りを用意しておられる。

はじめに

今日の個所は、イスラエルの三大祭りの話です。14節「年に三度、わたしのために祭りを守らなければならない。」3つの祭りとは、種を入れないパンの祭り(過越の祭りと一体)、初穂の刈り入れの祭り、収穫祭です。これらはどれも、出エジプトの出来事を思い、約束の地を与えてくださった主への感謝を覚えるものでした。主が自分たちにしてくださった恵みのわざ、救いのわざを折に触れて思い巡らすことは、大切なことです。と同時に、実はこれらの祭りには、預言的な意味が込められていました。今日はそのことを見ていきます。

① 種を入れないパンの祭り(過越の祭り):(15節)

最初は種を入れないパンの祭り。これはアビブの月、すなわちイスラエルの宗教暦で第一の月で、これは今日の3月か4月頃にあたります。以前、学びましたが、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルを、主が救い出されたことを記念して守るものです。その日、主が裁きを行なうために、エジプト中を行き巡る、そのときに、神はイスラエルの民に裁きを免れる方法を教えてくださった。それは、傷のない一歳の子羊をほふって、その血を各家々の門に塗っておくというものだった。すると、裁きを行なう主は、その門に塗られた子羊の血を見て、その家の中にいる人には手をくださず、その家の前を過ぎ越してくださる。主はその傷のない子羊の血を見て、その家を過ぎ越してくださる。家の中にいる人を見て、ではなく。そのあと、エジプト中に裁きが下っている間に、イスラエル人は、急いでエジプトを後にしなければならないということで、パン種(イースト菌)を入れて発酵を待つ暇もなく、おいしくはないけれども腹の足しにはなるという、パン種の入っていないパンと、それから先にほふっておいた羊の肉、それに苦菜とをお腹に詰め込んで、エジプトを後にした。出エジプトの様子はおおよそそういう感じでした。

それで以後、毎年、そのことを覚えるために、羊をほふって門の所にその血を塗り、羊の肉と、種を入れないパンと、苦菜とを食べる「過ぎ越しの祭り」を守るように、と定められたのでした。で、その羊をほふった日から七日間、彼らは種を入れないパンを食べなければならない。また家の中からパン種というパン種を全て取り除くように、とも命じられました。そのココロは?と言うと、パン種は罪を表わすものなので、罪を除く生活を心がけよ、ということでした。さて、これはそのように、出エジプトの出来事を覚えるための祭りでしたが、実はそれだけではなく、未来を預言するものでもありでした。門に塗られたその傷のない小羊の血は、その千数百年後にゴルゴダの丘の十字架上で流された、罪なき神の御子イエス・キリストの血を象徴していました。それで、エジプトならぬ、全地に神の裁きが行なわれるとき、裁きかを逃れるのは、神の子羊キリストが、私たちの罪のために十字架にかかってくださったことを信じることによる。これが、神ご自身が教えてくださった、裁きを免れる方法です。キリストが十字架で流された血潮を、自分のためのものと信じたときに、いわば、そのキリストの血潮が私たちの心の門に塗られる。

神はそのキリストの尊くきよい血をご覧になって、裁きを過ぎ越してくださる。キリストの血が心にあるか、ないか。そこが分かれ目でした。なお、この時期は大麦の刈り入れの始まる時でもあり、その年の最初に刈り入れた大麦をひと束、捧げることも後に定められました。それは過越の子羊がほふられて三日目、すなわち週の初めの日~今日の日曜日―です(レビ記23:10-11、旧約p. 213)。これは、キリストが十字架にかかられてから三日目、週の初めの日に、死者の中から初穂としてよみがえったことを表わしました。第一コリント15:20、新約p. 341しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。イエス様がお生まれになる千数百年も前の、祭りの定めに、イエス様の十字架と復活まで示されていたとは、驚きです。

② 初穂の刈り入れの祭り:(16節)

次に16節前半「初穂の刈り入れの祭り」。これは、大麦の初穂を捧げた日から七週間が満ちた、その翌日に行なわれました。ということは、七×七=四十九の翌日ですから、ちょうど五十日目となります。それでこれは別名「七週の祭り」、または五十を表わすギリシャ語のペンテコステ、日本語で五旬節と訳されました。この祭りには、小麦の初穂で作ったパンを主に捧げました。興味深いことに、通常、主に捧げるパンはみな、パン種の入っていないパンと決まっているのですが、この祭りだけはパン種の入ったパンと定められました。これは当時の人々にとっては、主が自分たちを約束の地に導いてくださって、そこで得られた小麦の収穫を感謝するものだったのでしょう。と同時に、これにも預言的な意味がありました。過ぎ越しの子羊キリストが十字架につけられ、三日目に復活されてからちょうど五十日目、ペンテコステの日に、弟子たちが集まっていたところに天から聖霊が下り、新約時代の教会が誕生したのです。旧約には、誰かが供えた供物に天から火が下って、その供物を焼き尽くす、という場面があります。それは、その供物を神がご自分のものとして受け取られたことを表わします。

そのように、初穂の刈り入れの祭りの日に、弟子達の群れに天から火のように聖霊が下りました。それは、その弟子たちの群れを、初穂として、神が受け入れたことを表わしているのでしょう。キリストが大麦、弟子たちは小麦というわけです。この祭りだけパン種の入ったパンを使うのは、残念なことに地上の教会は、まだ罪のパン種が混じっているということを表すようです。聖霊充満の初代教会にも、アナニヤとサッピラの残念な記録がありました(使徒5:-11、新約p. 235)。地上の教会は、常に罪を取り除くことを志しながらも、世にある間は完全にきよめられることはない。常にへりくだらされ、キリストにより頼まされ、聖霊により頼まされるべき者ということでしょうか。さて、ペンテコステは、初穂の刈り入れの祭りですから、その時から小麦の刈り入れが始まります。すっかり黄金色に色づいて、収穫を待つばかりの小麦が、世界という畑で待っていました。それで初代教会の弟子たちは、福音を携えてエルサレムから地中海世界へと、魂の収穫に勤しみました。今もまだ、その収穫の季節は終わっていません。もしかしたら、収穫期の終わりが近いのかもしれませんが。

私たちも、まだ世界の畑に残っている収穫を待つ魂を、一人でも、キリストの元へとお連れすることができますようにと祈らされます。

③ 収穫祭、他補足事項:(16-19節)

最初に、19節の最後「子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。」という不思議な禁令から。これは五穀豊穣を祈願するために、当時カナンで行なわれていた、魔術的な儀式だったと言われます。子やぎをその母親の乳で煮て、その汁を刈り入れの終わった畑に注ぐことによって、来年の豊作を願うという。また母の乳で子を煮るという残酷なことをしてはいけない、という意味もあるでしょうか。さて、最後三番目の祭りです。先の二つは春の祭りでしたが、これは秋に行われます。その年のオリーブや、なつめやし、それにぶどうなど、すべての収穫が完了して、その収穫を喜び、祝い、感謝する祭りです。16節中ほど「年の終わりには、あなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行わなければならない。」これは美しい木の実や、なつめやしの葉っぱ、その他のよく茂った木の大枝、それに柳の木をとって仮小屋を作り、祭りの期間中はそこに住む事になっていました(レビ記23:40)。それでこれは別名「仮庵の祭り」とも呼ばれます。子どもが喜びそうな祭りです。これはイスラエルがエジプトを出て、荒野を旅していた時のことを思う祭りでもありました(レビ記23:43)。

荒野にあっても神の守り、養いがあってー40年も天からマナを降らせ続けてー約束の地に導き入れられたと。この収穫祭は、その年のすべての収穫を終えて、すべての良きものを与えてくださった神への感謝を表わすものでした。ゆえに、これは三つの祭りの中で最も盛大で、最も喜びに満ちた祭りでした。喜びが頂点に達するのがこの収穫祭だったのです。もちろん、われらが主なる神は、この喜びの祭りのときに、貧しい人々も一緒に喜べるようにと、お命じになることを忘れません。申命記16:14(旧約p. 333)この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、在留異国人、みなしご、やもめも共に喜びなさい。豊かな収穫を与えたもう神への感謝を、これらの人たちをこの喜ばしい祝宴に招き入れることによって表す。これこそ、神に喜ばれる礼拝―霊的礼拝―なのでしょう。さて、この祭りは、どんなことを預言しているのでしょう。過ぎ越しが、キリストの十字架、初穂の刈り入れの祭りが教会の誕生と魂の収穫=福音宣教のはじまり、と来て、最後、すべての収穫が完了したこの収穫祭は、すべての魂の刈り入れの完了を表わすのではないでしょうか。

だから、喜びの祭り、すべての良いものを味わい、喜び、貧しい人たちもいっしょになって喜ぶ祭り。神の国の到来。喜びのクライマックスです。しかも、この収穫祭の前には、イスラエル中、すみずみまでラッパが吹き鳴らされることになっていました(レビ23:24)。この祭りは、エルサレムでなく、それぞれのところで祝われるからです。ラッパの音とともに始まる神の国…。Ⅰコリント 15:50-54、新約p. 342-34315:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだ(今の私たちのからだ)は神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。荒唐無稽に思われるでしょうか。しかし、過越の祭り、初穂の刈り入れの祭り、と神のご計画は実現しています。神は歴史の支配者であられ、ご自分の救いの計画を進められます。「 荒野に水湧き 砂漠に花咲き 」新聖歌 465番

収穫祭は、喜びの時です。待ちに待った喜びの時です。しかし、何の労苦もなく、鼻歌でも歌いながら、この時を迎えられるわけではないでしょう。アダムが罪を犯してから、地はいばらとあざみが生い茂るところとなりました。傷ついたり、忍耐を強いられたり、試練がありながら、そこを耐えて、その先にある収穫の時、喜びの時があるのでしょう。この時があるから、頑張れる。この時を楽しみにして、きつい労働にも精を出すこともできたのかもしれません。だからこそ、喜びもひとしおというものでしょう。詩篇126:5-6、旧約p. 1038126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。パウロは、私たちが神の国に入るにも、多くの苦しみを経なければならない、と言いました(使徒14:22)。今、もし何かで苦しんでいるなら、それはどこか間違っているからではなくて、むしろ、神が導いておられるところにいるということなのかもしれません。へりくだって、神の助けと導きを祈りましょう。最後に、私たちの望みは、神の国を受け継ぐことであることを確認しましょう。

イザヤ書35:8~10(旧約p. 1179)には、御国の情景が描写されています。35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者(キリストの血を心に塗った者)たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。35:10【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。