礼拝説教要旨 2023年2月26日
平和をもたらす義
(出エジプト記 23:1~13)
今日の要点

神の正義をよく理解し、その実現を慕い求める。

はじめに:

古代イスラエルに主なる神から与えられた定めが続きます。今日の個所には、21-22章で見たような罰則規定はありません。しかし言うまでもなく、罰則がないなら守らなくていいというのは、罪人根性丸出しの恥ずべきことです。イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、彼らを世にあって輝くご自身の宝とするべく、与えられた定め。彼らが正義に基づく平和な社会を作り、みなが幸せに生きる神の国となるようにと与えた定めです。神をあがめ、神に信頼し、神を愛する民にとって、神が与えた定めというだけで、心から尊び、行うべきでしょう。要は、第一戒、神を神とするということが問われるのでしょう。今日の個所は、前半は市民生活にとって極めて重要な裁判に関する定め、後半は弱い立場にある人たちの保護に関する定めです。

① 裁判に関する神の定め:細心の注意を払って正義を守る(1-8節)

1-3節が裁判における証人、4-5節が当事者、6~8節は裁判官に対しての定め。まず「偽りのうわさを言いふらしてはならない。」裁判において、自分に有利に事を運ぶために、まわりに偽りのうわさを言いふらす。そんな狡猾な策略を禁じます。そもそも裁判は、正義を求めて行われるものです。それが相手を陥れることが目的になっているので、どんな手を使ってでも…となるのでしょう。根拠のないうわさを右から左へと流すことは、知らないうちに悪事に加担することになります。恐ろしいことです。「悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。」悪意ある証人とは、真実を証言するつもりがなく、ただ誰かを陥れるために証言台に立つことでしょうか。2節「悪を行う権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない」裁判は神に属する神聖なものです。権力者についての証言も、あくまでも真実を、真実のみを語らなければならない。忖度はダメ。また欄外中にあるように「権力者」は直訳「多数の者」。同調圧力にあわせて、真実ではない証言をしてはならない。裁判は、あくまでも真実に立って、正義が行われなければならない。

3節は、逆の行き過ぎにも注意というところでしょうか。「その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。」「貧しい人」原語は「弱い者」(2017版。6節の「貧しい」は別な語)。金持ちだから、貧乏だから、強い者だから、弱い者だから、という先入観によって、正義と真実を曲げてはならない。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」という小説だったと思いますが、赤ひげ先生が弟子に「金持ちと貧乏人が同時に運ばれてきたら、どっちを先に診るか」と質問しました。赤ひげ先生は、金持ちからは高額の報酬を取り、貧しい人には無料で診ている医師です。弟子は「貧しい人から診ます。」と答えました。すると先生は「違う。緊急を要する方からだ。」と答えたのです。先入観によって、判断を間違えるな。医師として常に正しい判断をせよ、ということでした。裁きにおいては、多数や権力者におもねらず、かといって貧しい人、弱い立場の人に同情するあまり、正義と真実を曲げることもあってはならない。裁きは正義を、ただ正義を行わなければいけないのでした。4-5節「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。

あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」あなたの敵を愛し、祝福しなさいというイエス様の教えで、しばしば引用される箇所。ここでは、裁判において敵対する相手の家畜であっても…ということでしょうか。迷っている家畜は、本来、所有権を有している人のもとに、戻すのが正しいこと、神がその人に所有物として与えているのだから。荷物の下敷きになっている家畜も、見殺しにするのは正しいことではない。家畜であっても、いのちは無意味に失われないよう、助けるのが正しいこと。訴訟相手のものであろうと、助けたくないという感情によって行動するのでなく、正しいことを行う。深読みすれば、裁判とは、相手が憎くて相手を困らせることが目的ではなく、正義が実現することを求めるものです。こういう定めがあることによって、相手への個人的な恨み、憎しみを晴らすことが目的になりがちなのを、正義を求めるという裁判本来の目的へと、心の向かう方向が軌道修正されるのかもしれません。6節以下はさばき人に対する定め。「貧しい人が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。」

貧しいからと言って、判官びいきしてもいけませんが、でも多いのは、やはり貧しい人を軽くみることでしょうか。特に訴えた側が富む者、有力者だった場合、そろばんをはじいて、そちらになびきがちなのかもしれません。「罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。」現代でも、金持ちは大金を払って有力な弁護士を雇い、自分が悪くても正しいと宣告させようとするでしょうか。これは神の御心からかけ離れた状況、神が憎まれる状況だと思います。最後8節はわいろの禁止。これも富んだ者が正義を曲げて、裁判に勝つためにたくらむことでしょう。こう読んでみると、主は裁判において正義と真実が行われために、細心の注意を命じていると感じます。逆に言うと、それだけ正しい、真実な裁きが行われないようにする闇の力、人間の罪の性質が強く働きかけられる場になりかねないということでしょう。言うまでもなく、不正が行われるところに、平和はありません(イザヤ 32:17、旧約p. 1175)。正義が平和の礎であり、正義の礎は神です。申命記16:20、旧約p. 334を心に刻みましょう。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。

そうすれば、あなたは生き、あなたの神、【主】が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。

② 弱い立場にある人たちを保護する定め:彼らに対する正しい行い(9-13節)

9節は、これまで繰り返し言われてきたことです。「あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。」自分も同じ境遇だったから、他人事とは思えないはず。だから、彼らに良くしてあげるように。パウロも、自分が苦しみにあったのは、苦しみの中にいる人を慰めるためだと言っていました(第二コリント1:4-6、新約p. 345)。10‐12節は、7年目ごとに定められている「安息年」について。以前7年目の奴隷解放(21:2‐11)を見ましたが、ここでは7年目の土地の休みを命じられます。これも古代イスラエルに与えられた定めであって、今日にはあてはまりません。ただそこに込められている主の御心を思うことは有益でしょう。7年目は、土地自体を休ませるとともに、そこで働く労働者の休みになります。またその間、休耕地にできる産物は、貧しい人々に存分に食べさせ、残りは野の獣に食べさせよ、と主は命じます。一年も土地を休ませるなんて、もったいない!と思うところかもしれません。

しかし貧しい人たちのことを思うこともなく、自分のことしか考えない、欲の皮の突っ張った者は、やがて神の裁きを受けることになるでしょう(参考 ルカ16:19-31、新約p. 149)。聖書のほかの個所には、収穫の畑の四隅は、あえて刈り取らないようにしなさい、落ち穂はそのままにしておきなさい、ともあります。畑で労する人々や家畜がその分け前にあずかることができるようにするためです。主は、ケチであってはいけないと教えているのです。気前を良くして、貧しい人たちが満たされることを喜ぶ心こそ、神の民にふさわしい心なのでしょう。12節は安息日の定め。第四戒で見ました。ここでは家畜や、奴隷、在留異国人に休ませるという目的を記しています。安息は、いのちの回復のために必要なこと。これも主人の強欲で、しもべや家畜を休みなく働かせることのないよう、主は彼らのために釘を刺します。そして13節「わたしがあなたがたに言ったすべてのことに心を留めなければならない。」と注意を促します。続けて、「ほかの神々の名を口にしてはいけない、云々」と唐突に出て来たように見えます。

彼らがこれから入るカナンの地には、豊作や多産をもたらすとされる土着の偶像が満ちていますが、それらは、安息日は休め、休ませろ、などとうるさいことを言いません。正義を求める神よりも、好きなようにさせてくれる神々の方が…と他の神々に走らないよう、釘を刺しているのでしょうか。口うるさく言ってくれるのも、彼らが平和な幸いな生活を送れるようにとの親心からなのですが…。「御言葉なる 光のうち 主と共に歩まば 行く道筋 照らし給わん」新聖歌 316ここ数回にわたって律法を学んできた中で、私が改めて感じたのは、主は立場の弱い人たちが、強い者たちに不当な扱いを受けないように、虐げられないように、彼らを守ることを特に心にかけておられるということです。その正義がイスラエルの社会の中で行われなければならないと。本来、人は神のかたちに似せて、正義を行うように造られたのですから、それは無理な注文ではなく、極めて当然の要求でした。魚に水の中を泳げ、鳥に空を飛べ、猿に木登りせよ、と要求するのと同じくらい自然なことです。ところが現実には、力の強い者が弱い者を虐げ、正義を踏みにじるという事が起こる世の中になってしまった。

旧約の時代、主から遣わされた預言者は、その悪を糾弾しました。エレミヤ 22:3、旧約p. 1282【主】はこう仰せられる。公義と正義を行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。そしてやがて救い主が世に来られるとき、そのような不正に対して裁きを行なう方として、預言されています。詩 103:6、旧約p. 1008【主】はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。イザヤ 11:4、旧約p. 1143正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。このような御言葉が旧約聖書には多く見られますが、それは今まで見て来たような律法を背景として読むときに、よくわかるように思います。現代でも、世を支配している巨大な存在に対して、自らの無力を覚えさせられるとき、虐げられている者を救い、虐げている者をお裁きになる主が来られるのを、切に待ち望み、祈らされます(ルカ18:1以下、新約p. 152)。

と同時に、私たち自身も、神の義をよく理解し、可能な範囲で行うように求められています。主はかつてアブハムに仰せられました。創世記18:19、旧約p. 26わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族(信仰者たちのこと)とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、…それゆえ、主イエス様は命じられました。マタイ6:33、新約p. 11だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。何が、主の喜ばれる正義なのか、現実は複雑で、迷うことが多くあります。主の導きを祈り求めつつ、御言葉によって足元を照らされ、教えられ、そして聖霊によって励まされつつ、少しでも正義を行う歩みをと志を立てたいものです。ピリピ1:9-11、新約p. 3821:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、

1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。