
神に贖われた聖なる民としての自覚を持ち、キリストの聖さにならって歩む。
エジプトで数百年の間、奴隷として扱われてきたイスラエル人を、主なる神は大いなる御力をもって救い出しました。そして今、約束の地カナンに向かう途中シナイ山で、イスラエルを国家として整えるべく、まず基本法たる十戒を授け、そのあと21章以下、具体的に人と人との間を裁く、いわば刑法、民法を与えました。国家には法が必要です。その法によって、その国がどういう理念で治められるのか、決まります。これまで見て来た神が与えた法には、他の古代の法とは似て非なる思想、価値観が見て取れました。そこには、法を与えた方ご自身の性質が反映されていました。今日の個所もその続きですが、今回は刑法、民法の類というよりは、信仰面、倫理面で、神の民はこうあるべきという定めのようです。注解書によると、こういう定めは周辺諸国の法典には見られない、聖書独特のものということです。
古代近東において呪術、魔術の類いは一般に行われていたようです。「呪術を行う女」とありますが、もちろん女性に限定しているわけでなく、男でも誰であっても、同様の刑に処せられます(申命記18:9~12)。ただ、女性が巫女や霊媒になることが、昔も今も多いのかもしれません。19節のような行為は、呪術・魔術の儀式の一部として行われたとされます。イスラエル人が入っていく約束の地カナンは、実は先住民たちの、そのような怪しげな、狂気の沙汰の、いや悪魔的な呪術の類いで満ちていました(レビ18:23~24)。呪術の類いは、自分の欲望を成し遂げるために、悪霊の力にすがる行為です。当時行われていたようなことは、今日、普通はないでしょうが、占い、交霊術・降霊術、チャネリングやスピリチュアルなことなどは、悪霊とかかわりがある場合があると言います。興味本位でも、近づかない方がいいでしょう。悪霊と関わって、得体のしれない頭痛、不安、または汚れた行いに駆り立てられる、などといった事例もあると言います。私たちの内には、聖霊が住んでおられます。聖霊と悪霊が、ともに一人の人の中に住むことは、決してありません。
もし、クリスチャンが悪霊に心を開くなら、それは聖霊を追い出す行為です。それは恐ろしいことです。私たちは、聖霊に満たされることをこそ、求めましょう。ルカ11:13、新約p. 136してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。
エジプトを出たイスラエル人の群れには、少なからぬ在留異国人が混じっていました。そんな彼らのために、主は彼らを苦しめてはならない、とイスラエル人に命じました。イスラエル人自身、エジプトで在留異国人だったから、彼らがどういう状況か、その苦しみを身をもって知っているのだから、と。神が望んでいるのは、この論理です。自分がさんざん苦しめられてきたから、今度は自分が苦しめる番だ、そうしないとやられ損…ではない。自分が苦しんだから、自分はそのようにはしない、です。嫁・姑問題、体育会系の先輩・後輩の悪しき伝統等、この線で悪しき連鎖を断ち切れたら、救われる人も多いのかもしれません。22-24節。すべてのやもめ、みなしごを悩ませてはいけない。それらの人たちが弱い立場なのをいいことに、力に任せて不法に地境を動かしたり、働かせるだけ働かせて約束通りに賃金を払わなかったりする者がいたのでしょうか。そんな人でなしに虐げられていた彼らの拠り所は、主なる神だけです。主に叫ぶよりほかにない。そして主は、そんな彼らの叫びに、必ず応えると仰いました。「…彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。」(23節)
そして主の怒りが燃え上がって、その人でなしを殺すとさえ、仰いました。一見、物騒な言葉に聞こえますが、裏を返せば、それはやもめ、みなしごを不法な虐げから断固守るという、決意の表れです。当の虐げられていたやもめ、みなしごたちからしたら、主は自分たちを守ってくださっていると、感じるのではないでしょうか。25~27節はイスラエル人の貧しい人たちのための定め。彼らに対しては、利息を取って金を貸してはならない。着るものを質に取るときには、日没までに返す。イスラエルの夜は冷えます。着るものを質に取るということは、もはや毛布のようなものもない、何もない状態ということでしょう。その人は、着るものに身を包んで寝るしかないのだから、それは返すようにと。ほかの個所には、ひき臼やその上石のような、人の生存に直接関係のある物を担保にとることを禁じています(申命記24:6)。ここでも、もし、この定めを無視する人でなしがいて、そのために彼らが主に叫ぶなら、主はその叫びを聞き入れると仰いました。わたしは情け深いから、と。金を貸したのは事実。質を取るのも当然のこと。しかし、だからと言って、彼らの生存を脅かすようなことをしては、決してならない。主は情け深いから。
ならば、そのお方が支配する神の国は、そのお方のご性質を反映させるものであるはず。神が望んでおられる共同体―神の国―は、そのようなあわれみの心があり、互いに助け合う心が行き渡った共同体です。ちなみに、これは同胞の貧しい人にお金を貸す場合の定めであって、商業的に利息を取ってお金を貸すことは認められていました(古代では20-30%の利息だったとも)。今日に当てはめるならば、もし仮に、教会の人で困っている人にお金を貸すことがあったら、利息を取らないということ。私たちの教会では福祉基金がその趣旨に沿ったものです。主は貧しい人を助けるようにと、聖書の至る所で語っています。初代教会も貧しい人たちへの醵金を熱心に行っていました(ローマ15:26、第二コリント8-9章、ガラテヤ2:10等)。
神礼拝における聖さ(28-31節)28節。神を呪ってはいけない、民の上に立つ者を呪ってはいけない、と両者を並べています。ただし、神に対する方は、「ののしる」と訳す方が多いようです(2017訳、口語訳、新共同訳)。この語は、元々「早く動く」「軽く扱う」「軽んじる」という意味のようです。神の知恵と真実、ご愛、正義は計り知れず、広く深いものなのに、人間の浅知恵で、軽々しく、神を非難することを戒めているのでしょうか。それは、実は、私たち自身を自暴自棄から守り、思慮深くあるようにと促すものでもあるでしょう。民の上に立つ者を呪ってはいけないは、パウロが大祭司の前で引用した有名な言葉です(使徒23:5、新約p. 276)。29節前半、「あふれる酒」と訳された語は、直訳「しぼり汁」。ぶどう酒、オリーブ油などでしょうか。神が与えてくださった豊かな産物を、惜しまずに、すみやかに、感謝とともに、お捧げすることです。捧げるは捧げるけども、しぶしぶ、最後に余ったものを…ではなく。額の大きい、小さいではなく、神は心をご覧になります。与えられているものの中から、決めた分を感謝とともにすみやかに捧げる。その心が神への霊の捧げものです。
29節後半~30節は、以前にも出て来た息子の初子、家畜の初子を主に捧げるということ(13:1, 12-13)。もちろん人の初子は、贖い金を代わりに捧げるという形をとります。初子は特別に喜ばれ、特別な価値あるものとされていましたから、そのもっとも価値あるもの、思い入れのあるものをもって主をあがめます。最後31節。「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは、犬に投げ与えなければならない。」家畜が、悪い獣にやられたのは、食べることができましたが、野生の獣が裂き殺されて、その辺に転がっているものは、食べるなと。もちろん、衛生上の問題もあったでしょう。ここでは、そんなものは神の聖なる民であるあなたには、ふさわしくない。犬にくれてやれ、と言われます。愛犬家の方々には申し訳ないですが、聖書では犬は否定的な意味で使われることを覚えておくと良いでしょう(ピリピ3:2、新約p.385)。「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。」神が世から取り分け、ご自身のものとされた、聖なる民なのだから、それにふさわしい自覚を持つように、と促されるのでした。
「 われらを新たに 造りきよめて 栄えに栄えを いや増し加え 」新聖歌 211番あなたがたは、わたしの聖なる民、と世界の造り主なるお方から、こう言われて、少し誇らしい気がしないでしょうか。もっとも、日本人はセルフイメージが低いと言われますから、気恥しく感じるかもしれません。しかしそういう方こそ、良い意味で神の民の誇りを持つことが必要かもしれません。謙遜はいいですが、いつの間にか卑屈になってしまわないように。使徒ヤコブは、当時の貧しい人たちに次のように言いました。ヤコブ1:9、新約p.445貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。貧しいと、世にあっては何かとみじめな思いをすることがあるもの。そんな境遇の人に、ヤコブはこう言って励ましました。自分のセルフイメージまで下げるな、卑屈になるな、と。もちろん、良い意味での誇りです。悪い意味での誇りではありません。福音書には、パリサイ人と呼ばれる、鼻持ちならない宗教的エリートたちが登場します。「パリサイ」とは、分離された者という意味。わが輩は、その辺の者どもとは違う、神の律法に熱心で聖いのじゃ、と自認する人々。
彼らは自分の聖さ―と言っても儀式的な、表面的な聖さーには、やたらと神経質。彼らは、罪人に対して、あわれみの心なく、むしろ汚れが自分にうつったら大変と、あっちへ行け、近寄るな、と遠ざけます。本当は彼ら自身も汚れているのですが。それと対照的なのは、イエス様の聖さです。神の御子として、文字通り完全な聖さをもっておられ、まったく世の汚れに染まることなく、それでいて、神のあわれみを求めて来る罪人たちを深くあわれみ、迎え、病人を癒し、食事を共にし、彼らに神の国の福音を説き、彼らが悔い改めるのを喜ばれました。そして、ついには彼らが救われるために、ご自分が十字架にかかって、彼らを贖ってくださいました。「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない」と主が言われたとき、その聖さとは、このイエス様のような聖さのことでした。パリサイ人のようなのでなく。その聖さについて、使徒ヤコブがうまくまとめてくれています。ヤコブ書1:27、新約p.445父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
孤児ややもめたちが困っているときに世話をする。隣人愛のわざに熱心であること。
この世のさまざまな汚れ(霊的、精神的、肉体的)から自分をきよく守ること。自分にできる範囲で、これらことを心がけていければ、それは主に喜ばれる歩みとなるでしょう。とはいえ、現実の歩みは、それとは程遠く、ガックリくることも多いです。が、それでも、主は私たちを愛しておられるので、私たちをあきらめずに、応援し、励まし、助けを与えて、主が成し遂げてくださる。そのことを信じて、あきらめないものでいたいのです。前に言った「聖化の滝登り」です。落とされても、落とされても、流れに逆らって、上に召してくださる方の方へと上っていく。罪の重力に逆らうためには、聖霊の超自然な力が必要。聖霊に満たされることを何度でも祈り、求め、御言葉によって生きることを何度でもトライする。福音という土台、神との決して揺るぐことのない恵みの関係に入れられているという土台に立って。天の父は、そのような姿勢を喜ばれるのではないでしょうか。聖化においても、神に信頼して、喜ばしい心をもって歩みましょう。第一テサロニケ5:23-24、新約p. 4015:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。