礼拝説教要旨 2023年2月12日
イエスに従う幸いな人
(マタイの福音書 16:21~28)

新しい年がはじまって、もう2月だ・・と実感があります。牧師は時間に追われている・・という思いをするなかで、二か月に一度の説教奉仕の機会を、与えられたのですがどのように導かれるのか思い巡らしながらいろんなことを思いました。2/11 日本は休日でした、休日というのか、祝日というのか、いまだに日本社会は中途半端です。祭日は戦争に負けて以来、なくなったはずです。この国のことを考えないままにみことばを聞くのかな・・どうなのかな・・と社会委員会は2月と8月はとくにそれを覚えて教えられながらきました。クリスチャンとしてどう考えるのか・・というのなかで、決してそっぽをむいているわけではない委員会からの案内は毎年はやめにきていたはずですが、昨日の朝メールがきました。今の現実かな・・という気がしないでもありません。戦前の日本の教会は信仰面で間違えた反省を忘れないように・・ということだったと思います。改めて説教するにあたって、そのことも頭の中をめぐってそのことも覚えなければと思っています。今日この場でどうしても学びたいと思った、導かれたのはイエスが語られた言葉、その教えに耳を傾けることです。教会に連なる私たちは、人生のいずれかのときに聖書に触れた

天と地を造られた神がおられることを知りましたその神の前に罪ある者であること、罪あるままでは、やがて滅びに至ることを知らされた経験をしたはずです。みんな何かしら、また何かのきっかけがあって、教会にいく。神は私たちを愛し、救い主を遣わしてくださった。救い主イエス・キリストを信じ、私たちは罪を赦され、滅びからいのちに移された経験をしています。神様が備えてくださった大いなる救いの恵みに与った。神の民の一人として歩む私たちは、主の日には、御前に出て礼拝をささげる喜びとしています。礼拝でみことばを聞く、旧約聖書・新約聖書いろんな教えがあるのですが、私が導かれたのはマタイの福音書でした。十字架に向かって歩まれたイエスが語られた言葉に、心の耳を傾けてみたいと思います。主イエスの言葉を心に刻むごとに、主に従う幸いをもう一度しっかりと覚えたいと思います。幸福論は世にたくさんありますが、聖書を通して神様とともに歩むことが本当の意味での幸いがあることを知っているはずですし、心に刻んで感謝にあふれることに導かれたいと願っています。新聞を見ていると幸いについて色んな本がでていますし、神社の関係で、神様に喜ばれる生き方について本をだしています。

日本の神様の考え方は、どこにでも神様がいる。それが漫画にもでています。神社での柏手の打ち方も書いてあって神道の考えで、日本社会では神がごちゃごちゃになっていると実感させられる。私たちが神様・・というとき、本当に聖書の神様に結びついているか何度も問い直さなければいけない。マタイの福音書は28章までありますが、16章16節が大切な分岐点といわれています。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」・・とあります。3年前の今日、みなさんは何をしていたか覚えているでしょうか。コロナのことを騒ぎ始めたのが2020/1でした。日曜日の礼拝に集うことができなくなったのが3年前です。イエス様の短い公生涯およそ3年において、前半では、弟子たちや人々に教えを語り、また奇跡を通してご自身が神であることをはっきりと見せておられたんですね。イエス様が神さまであることを教える奇蹟でした。後半に移り変わるころがこの16章です。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ね16節で「あなたは、生ける神の御子キリストです。」とペテロが代表して答えました。イエス様は進行告白できたことを、イエスご自身は喜ばれた。

こうしてイエス様に対する信仰告白が正しくなされたことをきっかけとして21節にあるように、16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。世に来られた一番の目的を明確に答えらえたのです。弟子たちは冷静に受け止めることができませんでした。弟子たちは仰天してしまったのです。考えもしなかったこと、イエス様ご自身が苦しみを受ける、死んでしまう、自分たちはどうなるのだろう・・という戸惑いの中に落ち込んでしまうんですね。「…そんなことが、あなたに起るはずはありません」どうしてそんなことをおっしゃるのですか?…と戸惑いを見せるのです16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ペテロの背後にサタンガいると見抜いておられて、私はちょっといろんな文章を読んだときに感情の入り方が弱いのですが、ペテロがいさめ始めた・・というのを想像してみてください。

慌てふためいてイエス様を引き留めようとしている場面なのかもしれません。私たちは聖書全体を読んでいて、十字架での身代わりの死こそがイエス様が世のこられた目的でした。それを一番いやだと思うのはサタンだということは、聖書を通して私たちも理解できます。罪のないままで身代わりの死を遂げようとするのを阻止するのがサタンの願いでした神の救いの計画が、そのまま実行されてはならないということですイエス様は三日目によみがえらなければならないこともおっしゃっていました。けれどもペテロたちは苦難の予告にうろたえていました。16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。イエスに従って行く、ついていく、この先イエス様についていくと命の心配が付きまとうことになる。

そのことで頭がいっぱいになってしまったのが弟子たちです。これまで、意気揚々とイエスと共に歩んで、ほこらしい気持ちがあったのかなと思わないではいられません5000人以上のひとたちに奇蹟を起こしたこと、できないと思っていたことができる、自分もその中にいたとしたら、イエス様と一緒にいるのがいいな・・と。家に帰ったら周りの人に話したくなる、ほこらしさももっていたのかもしれない。ところが、生きるか死ぬかの危機が迫るとすると、このままイエス様に従っていていいのかどうか、そういう決断を迫られていたのではないでしょうか。覚悟を迫らていた弟子たちにはげましもあたえながら、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」日本の政治家はこの人といると得をする、そういうことを毎日考えているのかな?というほど派閥があり、みんな誰についていたら自分のところに良いものがこぼれてくるのか・・を考えているのです。教会の中でもうっかりするとそういうことがあるのですが長老教会はそういうものが一切なかったな・というのが私の実感です。選挙にあたって多数派工作なんて言うものが一度もなかったなと、

長老教会の全部がいいのではなく、まずいこともたくさんあるのですがこの世の常識ならば誰についていったらいいのかついつい考えてしまうのですが、イエス様はそれはちがうよ・・と、「わたしについて来たいを思うなら…」・・とおっしゃっているのです。プリントに書いたのは、マタイの10章の教えがあります。ヨハネの福音書の12章にも同じ教えがあります12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。自分を捨てる、そのうえでイエス様についていく、繰り返し教えられているとても大事な教えです。「いのち」を、一体どのように理解しているのかただ単に、肉体の命なのか、それとも、神が与えてくださった命なのか。その視点を明確に理解することだと思います。新改訳聖書はいのちに関して、漢字を使わずに、ひらがなで、「いのち」と書いています。ギリシヤ語もふたつのことばがあって、ふたつのことばで命を表現するのですが、

今日の言葉は魂とも訳される言葉が使われています。動物と同じように肉体的ないのちなのか、神様が生かしてくださっている、いのちを生きているのか。神と関わりのある「いのち」を心に留めることがカギとなります。たましいも、霊魂と訳したり、しますが、私たち固有のいのちがあることはわかるのですが、肉体的なエナジーだけで考えるのか、神様が私をいかしてくださっているいのちと理解するのか、それを理解したうえで、どう生きるか、この世の地上の生活を大事にして、この世で成功することや得をすることを先にしているといざ命が尽きるときに、たいせつなことを忘れているのですよと。私たちの大きな関心事ではあるのですが、翻訳が16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。「まことのいのちを損じたら」と訳していますが意味を解釈して翻訳している可能性があります。新改訳2017 では、単純にあなたのいのちを失ったら・・と書いています。

肉体的な命のことばかり考えていたら、肝心ないのちを失いますよ・・と損得といわれているけれども自分がどう生きるかを考えるときに神さまとのかかわりの中で行かされていることを忘れたまま地上生涯を終えることがないように。いのちが尽きるときがきたとしても神さまとのかかわりは永遠に続く大切な生き方もあなたには備わっていますよ・ということです、神さまとの親しい交わりを覚えて生涯を生き抜くのか。神さまとの交わりが永遠に続くことを決して忘れないように・・私たち人間には肉体のいのちに振り回されない神とともに生きる本当の命があるのだとしっかり覚えたいと思います。本当のいのちをしっかり生きる人が本当の意味での幸いな人なのだと。たとえ、この世で苦悩することがあり、クリスチャンとして生きることで災いや苦悩ばかりだとしてもそれでもイエスについて行く人、イエスに従う人は本当の意味で幸いな人なのだと。必ず、イエスが受けられる栄光に与らせていただけるそれが27節16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立ってい

る人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」イエス様のよみがえりの事実を目の当たりにする人がいるということも含まれているという人もいますが、そのことはわたしにはまだちょっとわかりません。私たち一人一人、それぞれ信仰の始まりは様々だったと言えると思います。いろいろなきっかけで聖書に触れたでしょう。思い返すことができると思います。ハツと気づくように、しみわたるように入ってきたという人もいるでしょうし、ゆっくりゆっくり理解が深められた人もいる。いつまでたっても分からない・・と教会にいくのをやめたり、私自身ヨハネ3章16節に触れたのが5歳のときで、その意味することがわからないままに、徐々に肉付けされながら歩むことができた。神学校の学生でもいろんな人がいます。人それぞれですが、、自分はゆっくりゆっくりだったなと自分で追い求めたというよりも、神様がしっかりとらえていてくださったなと。劇的決心をしたわけでもなく、劇的に牧師になりたいとおもったわけでもない神学校卒業するときも牧師になるかどうかわからない、文書伝道するかも・・いろんなことを思いながら肝心なことは

私の罪の身代わりとして十字架で死なれたイエスさまがおられるその私を主イエスが支え、導いてくださった。その事実によって、今の私がいることをいつも覚えさせられています。私たちの救い主であるイエス・キリストを信じて、同じく主イエスを信じる皆さんと、天の御国に入る日まで、ご一緒に幸いな日々を歩ませていただきたいと、その思いが強くあります。同時にその幸いにあずかる人が起こされること、そのために教会がある人間的な願いでは次々にそういうひとが起こされていてほしいと思いがありますが私たち自身が従い続ける、天の御国をめざして歩み続ける、そのことが大事なのだとつくづく思います。(マタイ5:3-10)5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。