
神に対して私たちが償うべきことを、キリストが代わりに、すべて償いきってくださった。
今日の個所は、ほとんどすべての節に「償う」という言葉が出てきます。「償う」とは、辞書によると「埋め合わせる」と説明されています。英語の聖書(KJV, NIV)はmake restitution 回復すると訳しています。元のヘブル語では、シャローム(平和)と同じ語根の言葉のようです。犯罪によって損なわれた状態を、償いによって、平和な状態にするということでしょうか。一度、損なわれた状態を平和な状態にするには、場合によっては、単にモノを元通りにするだけではなく、それ以上のものが必要なようです。
まず基本原則。牛や羊が盗まれ、犯人が見つかったら、当然、償いをしなければなりませんが、すでにほふるなり売るなりして、盗んだ家畜そのものがもう持ち主に戻って来ない場合、牛は5倍、羊は4倍にして償わなければならない(1節)。これがもし、盗まれた家畜が手元にあって、持ち主に返せるのであれば、2倍でよいとされます(4節)。またこれが、家畜でなく物品の場合も、2倍でよいとされます(7節)。牛でも羊でも、家畜は、ただの物品とは違います。育てるのに手間暇がかかり、それだけ愛着もありました。特に古代、イスラエルでは羊をかわいがって、一頭一頭名前まで付けていたと言いますから、ペットのようなところもあったのでしょう。それを失った精神的な痛みに対する慰謝料の意味合いがあって、5倍、4倍なのでしょう。基本的に、いのちのあるものは、失われたら代わりがきかない。もし代わりをもって償うのなら、何倍にもしないと償えない。もちろん、盗んだ家畜そのものが手元にあって、持ち主に返せたとしても、それだけでは済みません。2倍にして返さなければならない。
見つかるまでの間の損失や、犯人を探し回る手間もかかり、被害者は当然、腹は立つし、また心労で夜も眠れないかもしれません。第一、見つかったら返せばいいでは、見つからなかったらもうけものということで、犯人はなにも損をしないわけで、ドンドンやったほうが得ということになりかねない。それで、定めに従って何倍かにして、必ず償わなければならないと念を押されます。でも、償うべきものを何も持っていなかったら、どうするのか。それじゃあ、仕方ないな、で済むかというと、そうではない。その泥棒自身が奴隷として売られなければならない。そうしてでも、被害者側に償いをしなければならないとされました(3節)。もっとも、その場合でも、以前、見たように6年間、奴隷として働けば、7年目には自由の身になれましたから(21:2)、心を洗って、やり直す機会も残されていました。神は憐れみ深いお方なのです。2,3節は押し込み強盗でしょうか。「抜け穴を掘って」と言うと地面にトンネルを掘るみたいで、ずいぶん壮大なスケールだなあ、と思うのですが、口語訳「穴を開けて」新共同訳「壁に穴をあけて」のように訳すこともできるようです。
これが夜間の場合は、当時は光もないですし、相手が何を持っているかもわからないですから、たとえその泥棒を打って、死なせてしまったとしても、正当防衛が認められました。しかし昼間の場合、普通は大きな声を出して助けを求めれば、すぐに人が集まってくるでしょうから、打って死なせてしまったら、過剰防衛になるということでしょうか。もちろん、相手が刃物を持っていたりとか、昼間であっても状況によって正当防衛が認められるのでしょう。要は、状況に応じて、正当防衛は認められるが、過剰防衛は認められないという趣旨だと思います。殺人犯と泥棒では同じ犯罪と言っても罪の重さがまったく違うわけで、相手が泥棒なら何をしてもいいとはならない。あくまでもそれに見合った償いをさせるべきで、いのちまで奪うのは正義と公正に反する。神はこうして泥棒のいのちにまで、不当に失われることのないようにと、心を配っておられるのでした。いのちとは、それだけ神聖で、尊いのです。
ちなみに、前回、突き癖のある牛が人を死なせてしまった事例で、「ハンムラビ法」は、1/2ミナの支払いによって解決しているのに対し、聖書の律法は、原則としてその牛の管理者のいのちを求めていて、人のいのちを守ることに関しては、聖書の方がハ法よりも厳格でした。ところが、財産に関する罪に対しては、逆にハ法の方が厳しく、人がもし、人の家に破って入ったときは、その破れの前で彼を死刑に処し、その中に埋めなければならない、とされていたそうです。聖書が、盗人のいのちであっても、処罰感情が行き過ぎないように、不当に奪われないように保護するのとは、かなり違います。
こちらは盗みではなく、過失の場合の損害賠償です。家畜を自分の家の畑に放って食べさせていたら、目を離したスキに、隣の畑のものまで食べてしまった場合、最良のものをもって償う。家畜が食べてしまったものの品定めはできませんから、同じ程度のもので…とはいきません。家畜も、本能的においしそうな、良いものから食べそうな気もします。当時の放牧の状況など詳しくわかりませんが、当時の状況に即した定めだったのでしょう。二倍、三倍ではありませんが、最良のものをもって償うという、この程度はやむを得ない。これは家畜の持ち主の過失を罰するよりも、畑の所有者の財産保護の意味でしょう。6節はおおごとです。失火により、積み上げた穀物の束、あるいは立ち穂や畑を焼き尽くした場合、火災を起こした者は必ず償わなければならないとされました。二倍とかではなく、損害を与えた分ということでしょうが、被害額は莫大になることもあったでしょう。当時は火災保険もありません。払えない場合、奴隷として売られてでも、償わなければならなかったでしょう。ゴメンじゃ済まないのです。なお、自然発火の場合(落雷など)は、ハ法でも、個人の責任は問うていませんから、モーセの律法もそうだと思われます。
預託、および貸し借りに関するトラブルの賠償、他(7-17節)当時、何かの用事で旅に出る場合、銀行や貸金庫などありませんから、金銭や貴重品は、誰か信頼のおける人に頼んだのでしょう。それで、金銭や物が盗まれた場合です。泥棒が見つかったら、その者が2倍にして償わなければならない。困るのは、泥棒が見つからなかった場合です。疑っちゃ悪いが、預かった人が盗んだりはしてないだろうか…、という思いがどうしてもチラついてしまうかもしれません。それで、預かった人が、自分は絶対に取っていないと、神の前に出て誓わなければならない、とされました。預けた方も、それ以上、疑わない。神がすべてをご存じなのだから、神にお委ねします、とそこで気持ちの踏ん切りをつけるということでしょう。この定めでは、犯人が見つからないからと言って、預かった人が弁償する義務は負いませんでした。ハ法では、預かっていて失ったものはすべて償わなければならないとされました。財産のことに関してはハ法の方が厳しいのです。何を大事にしているか、根底にある価値観があらわれているようです。9節「横領事件」と訳しているところ、口語訳、新共同訳は「言い争い」。
新改訳2017は「所有をめぐる違反行為」たとえば誰かの家や畑で、ほかの人が、これはうちのものだ、盗品だ、と言った場合などでしょう。その場合、双方の言い分を神の前に持ち出します。この「神」は「裁判官、さばき人」とも訳せます。その場合は、さばき人の判決に従うということになります。もし神を指す場合は、後に祭司が主の御心を伺うウリムとトンミムというものを与えられるので、それによって判決を下すことになるのでしょうか。10-13節。家畜のお世話を頼んでいて、それが死ぬとか、傷つくとか、奪い去られるなどして、目撃者がいない場合、預かった人が主の御前で潔白を誓わなければなりません。持ち主がそれを受け入れるなら、償う必要はない。しかし、受け入れなかった場合はどうなるか。それが人に盗まれた場合は過失責任あり、悪い獣にやられた場合は過失責任は問えない、とされました。当時は、家畜を盗むと言って、ジープに乗っけてサーッと逃げられるわけでなく、引っ張っていくか、担いでいくしかないわけで、それを逃してしまうのはあまりにもボンヤリしすぎている。しかし、悪い獣はすばしっこくて、気を付けていても、ある程度やむをえないということでしょうか。
いづれにせよ、当時の状況に則して、過失責任が問われるか、それとも不可抗力かが判断され、賠償責任が決まるという原則でした。14,15節。家畜の貸し借り。牛など、畑を耕すのに貸し借りしたのでしょう。ここは見ての通りです。最後16,17節は、娘の花嫁料のこと。結婚する前にそうなってしまった場合は、キチンと花嫁料を払って、正式に結婚する。主が願われるのは、そのようにして、彼らが主にあって幸せな家庭を築くことです。主はその家庭を祝福することを喜ばれます。ただし娘の父親は、そんな男にはやらん!と拒むこともできました。その場合でも、花嫁料は払わなければなりません。当時はこのような場合、一生、お嫁に行くことは望めなかったのでしょうか。以上、さまざまなケースの償いに関する定めでした。人との関係において、もし、償うべきことがあったら、償うようにしましょう。「 全て 安し 御神 共にませば 」新聖歌 252番さだまさしというフォークシンガーに「償い」という歌があります。ある郵便屋さんが配達帰りの夜道、横断歩道に人がいると気付いたときには、間に合わなかった。彼はその日、疲れていた。
被害者の奥さんから、人殺し、あんたを赦さない、と叫ばれ、地面に頭をこすりつけて、泣くしかなかった。その後、彼は働いて働いて、毎月、給料袋を受け取ると、すぐに郵便局に駆け込むようになった。事情を知らない同僚たちからは、金の亡者とからかわれながら、それを続けた。償えるはずもないが、せめてそうしないではいられなかった。そして7年が経ったときに、はじめてその奥さんから手紙が来た。あなたの気持ちはわかったから、もう送らないでほしい。送って来られると、主人のことを思い出すから。もう、あなた自身の人生を元に戻してほしい、と。償いきれるものではない、相手の方からそのような手紙をもらえて、ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて…。そんな歌詞です。私たちは、神に対して償いきれない罪の負債を負っていると、聖書は伝えています。アダムの堕落以来、すべての人は、神に返すべきものを返すことができない状態。神へのふさわしい尊敬、信頼、愛、自発的な従順といった霊の捧げものを捧げていない。いわば、神に当然、返すべきものを盗んだ状態。
あるいは、畑から火を出して収穫が全滅になったケースのように、神が私たちから得るはずの霊の収穫が、全部台無しになってしまっている状態。本当はそれを私たちが、必ず、償わなければならないものでした。しかし、その負債額は、天にも達するかという、莫大なものなのです。いくら頑張っても、とうてい償いきれるものではありません。もっと頑張らないと、もっと神に喜ばれることをしないと、もっと奉仕をしないと…と、そんな償いきれない苦しさを、無意識のうちに、心のどこかで感じている方も、いるかもしれません。あの郵便局の人のように。しかし、その、私たちが償いきれない負債を、イエス様が代わりに、十分に償ってくださいました。償いきってくださいました。御子イエス様は、ご自分のきよい命を十字架上に差し出して、私たちには払いきれなかった、神の御前での山のような負債を全部払いきって、償いをしてくださいました。イエス様はご自身の血潮をもって、神と私たちの間に、完全な平和の状態―シャロームの状態―を造ってくださった。だから、安心していつでも神の御前に出させて頂けます。
御子イエス様が、私たちの償うべき分を、完全に償いきってくださっているので、私たちはいつ、神の御前に出るときがきても、大丈夫です。自分では、償いきれない重荷を、私たちに代わって十字架上で、きれいさっぱり償ってくださったイエス様のありがたいお救いを、今日また改めて心に思って、聖餐式に臨みたいと思います。