礼拝説教要旨 2023年1月29日
突くくせのある牛
(出エジプト記 21:28~36)
今日の要点

人は地を治める使命が与えられている。委ねられたものを適切に管理することが主の御心。

はじめに:

創世記1:26「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」覚えておられるでしょうか?以前、創世記1章で見た「文化命令」の御言葉です。神が人をお造りになったとき、人に使命を与えました。この世界を、神の御心に従って治めること、管理することです。そのために、神が造られた世界をよく観察し、さまざまなものの性質を把握して、それにふさわしい取り扱いをする。主がアダムのもとにあらゆる動物を連れてきて、それにふさわしい名前をつけさせたのも、その使命に沿ったものでした(創世記2:19)。のちに、人類は動物だけでなく、植物、鉱物、その他あらゆる物質の性質を把握して、自分たちのために役立てたり、さらには自然法則を発見して利用したりしてきました。ただ、それを「神の御心に従って」ではなく、自分たちの欲望の赴くままにー神から離れた人間の罪のゆえにー進んできてしまったように思われます。

キリストの救いにあずかった私たちは、単に永遠のいのちを与えられた、という自分一個の喜びだけで留まるのでなく、それぞれが置かれている所で、委ねられているものを、御心に従って正しく治めるという、本来与えられていた使命を回復するという視点も、大切なのだと思います。今日の個所はそんなことにも通じるところがある定めです。これまで、人間同士の殺傷事故、事件に関する定めでしたが、今日のところは家畜に関する事故、トラブルに関する定めが三つ挙げられています。28-32節が、牛が人を突いた場合の裁き、33-34節が井戸に家畜が落っこちた場合の損害賠償、そして35-36節が、牛が牛を突いた場合の損害賠償となっています。この三つに共通しているテーマは、管理責任ということです。

① 牛による殺傷事故に関する定め(28-32節)

例によって最初に基本原則を述べて、あとで特殊なケースを挙げ、補足説明を加えるという構成です。まず原則として、牛が人を突いて死なせた場合、その牛が石で打ち殺されます。これは第一に、遺族の感情を考えてのことでしょうか。牛に道義的責任は問えないとは、わかっていても、怒りは収まらないでしょう。それから、イスラエルの民への教育的効果もあったでしょうか。目の前で、人びとに囲まれて、大きな石を投げつけられる牛の姿を見て、「人を殺す者は、忌まわしい者、神に忌み嫌われる者。そのような者は、このようにされる」と戒められたでしょう。或いはまた、一度人を殺した牛は、味をしめると言いますか、繰り返すかもしれないので、事故の再発防止という意味もあったかも知れません。ともかく人を突いたその当の牛は、どんな場合でも石打ちにされます。もちろん、その牛は忌まわしいものとして石打ちにされた訳ですから、もったいないなどとその肉を食べたりしてはならない、と釘を刺されました。食べることができないということは、売ることもできないでしょうから、牛の持ち主はまるまる損することになります。通常の事故の場合は、牛の持ち主の管理責任はそれ以上問われない。

牛は失いますが、それ以上の刑罰はありません。現代日本だとこういう場合、過失でも責任を問われるかと思いますが。しかし当時の彼らの生活を考えてみると、牛などの家畜は彼らの生活の一部になっていて、家畜と人間が一緒にいるのが当たり前。水飲み場で一緒になるのも日常の光景で、それで例えば、普段はおとなしい牛が、たまたま蜂にチクリとやられて、びっくりして暴れ出し、近くにいた誰かを突いてしまったという場合などは、特に持ち主に落ち度があったとは言えず、事故として処理され、持ち主の特段の責任は問われないのでしょう。しかし以前から突くくせのある牛の場合は、話が違ってきます。これは、事前に十分、危険が予想されますから、手を打っておく責任があります。しかも人から注意されても、いっこうに聞く耳を持たない悪質な持ち主の場合は、「いのちにはいのち」の原則に従って極刑がくだされます。積極的に殺意を抱いていたわけではないにしても、重大な危険が当然に予想されたにもかかわらず、手を打たないということは、誰かほかの人がそうなっても、構わないということ。もし、自分や自分の家族が、誰かほかの人の牛によって、そのような被害に遭ったらどうなのでしょうか。

自分を愛するように、隣人を愛するという大原則、ゴールデンルールに立って考えれば、どうするべきかは明らかです。ちなみに、突くくせのある牛が人を死なせてしまった事例で、「ハンムラビ法」は、銀1/2ミナの支払いを命じています。単なる事故ではなく、当然に予想された事故であるにもかかわらず。人のいのちにかかわる事柄については、モーセの律法の方が厳格です。それだけ、人のいのちを守ることを、本気で考えるようにということでしょう。他の人はどうなってもいい、ではなくて。人の心の闇を知っているからこそ、このような厳格な定めを置いて、最大限、人のいのちを守ろうとの、主の御心のあらわれではないでしょうか。以上が原則。30節には例外規定です。被害者の遺族が、あがない金でよしと認めてくれた場合です。突くくせのある牛による事故でも、悪質さの度合いにもよるでしょうし、実際には判断の難しいでしょうから、両者の話し合いで、被害者側がある程度、不可抗力の面があったと認めるならば、そうなる場合もあったのでしょう。その場合は、命拾いできました。

しかしその場合でも、金額があらかじめ定められているわけではなく、課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして、支払わなければならない、とされました。ちなみに、これはモーセ律法の中で、死刑の代わりにあがない金が定められている唯一のケースです。31節。牛が突いたのが、男の子でも女の子でも、この規定の通りにしなければならない。大人・子ども、男・女で、いのちの重さに違いはない。ちなみに、ハンムラビ法では、ある大工が建てた家の倒壊によって、その家の子がなくなった場合、その大工本人ではなく彼の子を失うとされました。「目には目」が、「子には子」と拡大されて。対して聖書は、子が親の罪のゆえに殺されることは、あってはならないとしています(申命記24:16、旧約p. 346)。この箇所でも、牛が子を突いた場合、その牛の持ち主の子ではなく、その牛の持ち主自身が、これまで記された所に従って、裁かれなければならないと、子を不当な暴力から守る意図が見て取れます。当時のそのような背景があって、この条項が入れられたのでしょう。32節。牛が奴隷を突いた場合。

これは、これまで見た規定に加えて、被害者が奴隷の場合はさらに、牛の持ち主が、奴隷の主人に銀貨30シェケルを支払うということでしょう。この金額は奴隷一人の相場とされます。奴隷の主人の経済的補償の定めです。以上、飼っている牛の性質を把握して、適切な対策をとる責任があるということでした。

② 井戸に家畜が落ちた場合、牛どうしの事故の場合の定め(33-36節)

井戸(新改訳2017版では「水溜め」)にふたをしなかったために、牛やろばなどの家畜が落ちた場合。向こうの「井戸」は、きちんとした囲いがあるわけではなく、地面に穴を掘っただけのもので、気を付けないと落ちてしまうそうです。それでフタをしていなかったために、牛などが落ちた場合、井戸の持ち主は、牛の持ち主に償いをする。ただし今度は、人を突いたわけではないので、その死んだ牛は井戸の持ち主のものとなって、あとは文字通り、煮て食おうと焼いて食おうと、好きにできることになります。35節。今度は牛どうしのケンカ。この場合、まず両成敗が原則です。どっちが悪いとか良いとかなく、まったく同じに、生きている牛を売ってそのお金を両者で半分ずつに分け、死んだ牛も仲良く半分に分ける。これも、人を突いた牛ではないので、煮込みスープにしようとバーベキューにしようと、お好みのままに料理してよし、ということでした。ただし、この場合も、以前から突くくせのある牛であったにも関わらず、監視しなかったために起こった場合は、くせの悪い牛の持ち主の管理者責任が問われます。死んだ牛に代えて、別の生きている牛を相手方に弁償しなければなりません。

ただしこの場合も、死んだ牛を引き取ることはできると言うことで、ローストビーフにしようと、カルビ焼きにしようと、お好みのままに食べることができました。「 光と聖きと 平和に満ちたる 恵みの高き嶺 われに踏ましめよ 」新聖歌 339番以上、今日は管理者責任という事を見てきました。くせの悪い牛を持ったら、注意しないと、とんだ被害を負わせてしまうことになって、大変だなあ…と他人事のように思っていたら、ハッと気づかされました。あなたはどうですか、と。「あなたの心の中には、人を突く、くせの悪い牛を飼っていませんか。忙しくなると、近くにいる人を突く習性のある牛は、ちゃんと監視していますか。」自分の心の管理責任です。人間、ある程度生きて来ると、少しは自分の短所がわかってくるのではないでしょうか。ああ、こういうときは良く失敗するからな、気をつけないとなとか、ここに触れられると、キレるから、気をつけようとか。何度か痛い目にあって、どういう状況の時に、どういう失敗をするか、わかってくる。それでなるべくそういう状況を作らないように、などと手を打つでしょう。しかし時に、それでも失敗してしまうこともあるかもしれません。

聖書では、自分の心を治めることが称えられています。箴言16:32、旧約p. 1079怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。こう言われるということは、怒りをおそくすること、自分の心を治めることが、それだけ難しいということでしょう。しばらく前にアンガーマネジメント(怒りの管理)ということが、流行りました。怒りそうになったら6秒待つとか、今回の怒りは五段階で何点か、点数をつける、こないだは4点だったけど今回は3点かな、とか、いくつか方法があるそうです。聖書では自制も、御霊の実の一つです。これは聖霊が当たられて、機械的に私たちの心がそうなるということではないと思います。聖霊は私たちにキリストを悟らせ、神の愛を教えてくれる方です。福音にはいろいろな面がありますが、その中心は神が私たちを愛しておられるということです。私たちが想像もできないほどに。その神の計り知れない愛を知ることが、自制という実を結ばせるのでしょう。心というのは、簡単に変わるものではありません。

神の愛を知ることなしに、自分のガンバリだけで、「これから二度と、怒らない!」と一大決心しても、その気持ちは尊いですが、なかなか難しいのではないでしょうか。キリストの十字架にあらわされた神の計り知れない愛が、自分に注がれていると知ることが、私たちの心そのものを少しずつ、新しく造り変えてくれるのだと思います。それでももちろん、失敗します。しかし大丈夫。私たちはすでに、神との恵みの関係に入れられています。いくら失敗しても、この恵みの関係はビクともしません。なぜなら、この関係は、キリストがすでに十字架上で成し遂げてくださったみわざにのみ、基づいているからです。私たちは、自分が立派になったから、神の愛する子とされたのでなく、ただキリストが私たちの代わりに十字架にかかってくださったことによって、すべての罪が赦され、神の子として受け入れられました。ですから、天の父は、私たちが失敗したからと言って、裁くのでなく、むしろ、失敗してもけなげに頑張っているご自分の子たちを励まそうと、ますます応援してくださるでしょう。鯉の滝上りの光景は、見るたびに感動します。

何回やっても、途中で落とされて、どう見てもダメだろう、と思うのに、何度も何度も何度も繰り返しているうちに、ついに上りきる。あれは不思議です。この光景は、「求め(続け)なさい。そうすれば与えられます」というイエス様の言葉を思い起こさせます。私たちは、いつも降り注がれている神の愛を受けながら、聖化の「滝上り」を生涯にわたって続けていきます。そこには失敗しても平安があり、喜びさえあります。私たちの出来・不出来によって変わらない、大きな神の愛を実感できるからです。この無条件の神の愛を知ることから、御霊の実と呼ばれる、よいものが生まれてくるのだと思います。ガラテヤ5:22-23、新約p. 371…御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。