
世から軽んじられがちな小さな者を、不当な扱いから保護することが、主の御心。
「目には目、歯には歯」(24節)ハンムラビ法典の一節としても有名な言葉です。同態復讐法、あるいは同害復讐法と呼ばれ、古代の野蛮な法と誤解されることが多いようです。が、最近は、これは復讐心をあおるものではなく、むしろ抑制するためのものということも、少しずつ、知られるようになってきたでしょうか。中には、一やられたら、二にも三にもして返さないと気が済まない、という人もいるようですから、倍返しはダメ、同じだけで留めておけ、と。また際限なく続く復讐劇を避けるためでもあったでしょうか。ハ法典は紀元前18世紀、バビロン第一王朝のハンムラビ王によって制定されました。その後書きで彼は「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために…」と述べています。実際、この法典にはそのような法がみられるそうです。モーセに律法が与えられたのは、ハ法より約300年あとです。それで一般には、ハ法典を元にしてモーセ律法が作られたと言われます。しかし聖書によると、これは主がモーセに語られた定めです。確かに、モーセはエジプトで当時のあらゆる学問を修めましたから、当然ハ法典のような法の考え方を学んでいたはずです。
それはモーセがやがて、主から膨大な律法を受け取るための、備えとなっていたのでしょう。主は、モーセが理解しやすいように、ハ法典の考え方を利用しつつ、しかし全く同じではなく、それとは一線を画したご自身の法をお与えになったということでしょう。ハ法典とモーセの律法と、遠くから見ると似ているところがあります。しかし、よく見ていくと、両者には小さからぬ違いがあります。両者を比較することによって、その違いがより鮮明になり、主の律法の理解が深まると思います。それは、律法を与えた方、主のご性質をよりよく理解することにほかなりません。
ここは死刑に処すべき事例が挙げられます。ここでは意図的な殺人、両親不敬罪、誘拐罪の三つ。今日の死刑制度については、賛否両論ありますが、古代イスラエルという社会に主が与えた法として、その意図するところを読み取れたらと思います。まず、故意に人を殺めた場合は、死刑に処す。いのちにはいのちを、の原則。ただし、故意ではない、かつ予測不可能な事故の場合はこの限りではない。それは神が御手によって事を行われたとされます(13節)。人には責任はない。それでも遺族からすれば、復讐心に駆られることもあるでしょうから、神はその人のために逃れる場所を定めて、その人を保護するよう命じました(民数記35:9以下、旧約p. 298参照)。そこでその当事者を保護し、また必要に応じて、正しい裁判を受けることができるようにしました。しかし故意に人を打って死なせた者は、一般人であれ、祭司であれ、祭壇からでも引きずり出して、裁きを執行しなければならない、と神は厳命されました。たとえその者が「自分は今、神を礼拝しているのだ。邪魔したら、神がお前を呪われるぞ!」などと強弁しても、その主ご自身が、その者をわたしの祭壇からつまみ出せ、と仰るのです。
神を刑罰逃れのために利用することを許さないのです。マタイ5:23-24(新約p. 7)の御言葉も思い浮かびます。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」祭壇から引きずり出されなければならないのは、実際の殺人犯だけではありませんでした。神はいかに、私たちの間の一致と平和を望んでおられることでしょうか。兄弟姉妹との平和なしの神礼拝は喜ばれないのです。15節。親に対する暴力。「この親不孝者!」とげんこつ一発で済むのでなく、なんと死刑!ハ法典では、このような場合、両手を切り落とすとされていました。聖書は、両親不敬に対して、ハ法典より重いのです。17節に至っては、父母を呪っただけで死刑! ただし、実際にこれが行使されたかどうかは不明です。実際に、我が子がこうしたからと言って、さばき人のところに行って、死刑にしようと考える親はいるのか、というと考えにくい。
ただこのような両親不敬の罪は、主の御前にそれほど重大なものということは、読み取るべきでしょう。ちなみに、申命記21:18(旧約p. 341)以下に、具体的にどういうケースが考えられるのか、参考になると思われる箇所があります。なお、親から虐待を受けた子の場合などは、別途考える必要があると思います。これはあくまでも一般的な原則です。16節。誘拐罪。当時は身代金目的でなく、奴隷として売るために行われたようです。これも、誘拐された人がまだ手元にいたとしても、厳罰が定められました。たまたま売るチャンスがなかっただけで、実際にはすでに行動を起こしているからでしょうか。ともかく、過失ということはありえないわけで、このような悪質な犯罪には、ハ法典でも極刑でした。
人が争って、一方が他方にケガをさせた場合。加害者は、被害者が回復するまでの生活と医療に責任をもつ。休業補償と医療補償。元々、どちらが悪かったかということには、触れていません。仮に被害者の方が元々は悪かったとしても、ケガをさせた方が責任を問われます。こう定めることによって、喧嘩はしても、暴力を振るうことにはブレーキがかかる。万が一、手を出してしまった場合には、補償を払うたびに、自分の衝動的な行動を反省する機会にもなる。自制の必要。暴力ではなく、ほかの解決法を探るべきということです。20-21節。主人が自分の奴隷を懲らしめるために杖で打った場合の決まりです。当時は、親が子を鞭で懲らしめるように、主人が奴隷を杖で懲らしめること自体は、当然のこととされていました。が、主人が奴隷を杖で打って、その場で死なせた場合は、その主人に殺意があったと見なされるということでしょうか。その場合は、相手が自分の奴隷であっても、主人は復讐を受ける。12節の原則が適用されるということでしょう。ただし、1日か2日生き延びたらこの限りではないとあります。その場合、主人に殺意はなく、主人も予想していなかった事故と見なされるということでしょうか。
そのような事故の場合、被害者が自由人であっても責任は問われませんでした(13節)。元々、主人にとって奴隷は大金を払って買った財産ですから、故意に殺すことは考えにくいということもあったでしょうか。また、奴隷の目や歯を失わせた場合は、その奴隷を解放しなければならないとの定めもあります(26,27節)。奴隷に重大なケガを負わせた場合、主人の責任を認めているのです。それを考え合わせると、この規定は、故意ではない、事故と見なされるということと思います。ちなみに、ハ法典では、主人が自分の奴隷の命を奪った場合や、傷害を負わせた場合の定めはないそうです。あくまでも自分の財産を損なったという理解なのでしょう。他の人の奴隷を損なった場合は、片眼を失ったら、その奴隷の買値の半額を主人に払う、などとあるそうです。主人の財産なので、奴隷自身ではなく、主人に賠償金が支払われる。それと比べると、主は、身分に関係なくすべての人の命が等しく尊いとしているのは、やはり違うところです。奴隷と主人というのは、この世における関係・社会的な秩序の事柄であって、命の尊さは奴隷も主人もなく、神はすべての人の命を等しく尊んでおられると。
さて、目には目、歯には歯、のところです。これがちょっと意外なことにと言いますか、妊婦に対する傷害事件という文脈で語られます。22節の訳ですが「突き当たる」(新改訳3版、2017版)だと、たまたま近くにいた妊婦にぶつかった印象ですが、原語は通常「打つ」と訳される語で(主がエジプトを「打った」など)、口語訳、新共同訳はそう訳しています。また13節で事故の場合は責任は問われませんでしたから、ここは故意に打った場合でしょう。「流産」も直訳は「子が出る」で、新改訳2017版は「早産」と訳しています。ですから、誰かが妊婦を打って、早産してしまったが、母子ともにケガなく、無事に生まれた場合は罰金刑で済む。しかしその子が不幸にも死んでしまった場合は、「いのちにはいのちを」の定めが適用される。そういうことだと思います。ともすると、軽く見られがちな、最も小さな者である赤ちゃんにも、神はその命の尊厳を—大人と全く同じ尊厳を—認めているということ。また、最も無力な赤ちゃんの命を保護するために、神はこのような定めを与えたのではないか、と思われます。
24,25節の復讐法の原則がここに置かれたのは、赤ちゃんに限らず、最も弱い者に対して、人が不当に暴力をふるうなら、神はその人に同じ報いを要求すると言明して、彼らを不当な暴力から保護するためではないか、と思われるのです。法がない時代には、あからさまに強い者が好き放題にやっていたでしょう。しかし人には神のかたちが残されていますから、正義を求める声が徐々に強くなって、共通の取り決め―法―が定められるようになった。これも神の賜物です。ハ法典より古い「ウル・ナンム法」(B.C.2100年頃)は「人が、刀で、人の歯(または鼻)を切ったならば、2/3ミナの銀を支払う。」と定めています。「目には銀、歯にも銀」。傷害罪をお金で済ませるという、野蛮でない?スマートな?より現代的な?方法がとられました。それが何世紀も後になって作られたハ法典では、お金ではなく、目には目、歯には歯となった。お金で済ませるという法では、治まらなくなったのかもしれません。金持ちにとって、金で済むのであれば、さほど困らない。金を払って、これで文句はないだろう、と。しかし「目には目、歯には歯」となると、そうはいかない。
金持ちでも誰でも、他人の目を損なったら、自分も目を損なわれなければならない。他人の命を奪ったら、自分の命も失わなければならない。お金で済まない。これでこそ、ブレーキになるのではないでしょうか。特に金持ちたちに対して。ただし、ハ法典には限界もありました。そこには上層自由人、一般自由人、奴隷と三つの階層が定められ、「目には目」が適用されるのは、実は上層自由人が上層自由人に対して行ったときのみでした。一般自由人、奴隷の場合は、賠償金でした。しかし主は、奴隷に対しても、赤ちゃんに対しても、命の尊厳に差別をつけません。主人が故意に奴隷の命を奪ったら、主人は命はもって償わなければならない。これは主人に対してブレーキになったのではないでしょうか。そう考えると、「いのちにはいのち」という定めは、そういう目に会ってきた奴隷たち、虐げられた人たちの叫びのようにも聞こえてきます。これは野蛮ではなく、弱い立場の者を不当な暴力から守るもの。正義とはそういうものではないでしょうか。26節以下は例外規定。主人がその奴隷の片目、あるいは歯一本を失わせた場合は、主人の目や歯をどうこうするのでなく、奴隷は自由の身になると定められました。
これは、この方が奴隷にとって、はるかにありがたいでしょう。代償として主人の目や歯を損なうよりも、そんな暴力をふるう主人のもとから解放されるのですから。「 わが君イエスよと 喜び歌う 尊き御名こそ 比いもなけれ 」新聖歌 142番ここに貫かれていたのは、社会的な立場や力の強さ、弱さに関係ない、人の命の尊さということでした。この律法を与えた主は、千数百年後、同じように、最も小さい者たちのために、彼らを保護するマントを投げかけておられました。マタイ18:10、新約p. 36あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。また、マタイ25:40、新約p. 54すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』このように仰る主の尊い御心を仰いで、御名をあがめたいと思います。