礼拝説教要旨 2023年1月15日
いつまでも仕えることが
(出エジプト記 21:1~11)
今日の要点

神の御子は、私たちを愛し、いつまでもともにいるために、神のあり方を捨てて、あえて、仕える者の姿をとられた。

はじめに

出エジプト記21章に入ります。十戒を市民生活にどう具体的に適用するか、を挙げた法令集。あるいは民法、刑法のようなもの。裁判官が法律によって判決を下すように、以前、モーセが立てた十人の長、百人の長など(18:21-22)が、この「定め」(1節)によって、具体的な訴えを裁くことになります。そのようにして、神の教え、定めが人々の間に行き渡り、行われるようになって、神の国が建て上げられていく。それが神の国建設の青写真でした。大切なのは、神の教え、定めが人々に行き渡ること。そして人々が神の教え、定めによって生き、生活を営むようになること。その時、社会は秩序と平和を保ち、人々が安心して、幸せに暮らすことができるようになるのでしょう。神は、人々の幸せを願って、そのために法を与えました。「法律」と言うと、素人には冷たい感じがしないでもないのですが、これが見ていくと、いかにも聖書の神らしいと言いますか、ご人格をしのばせてくれるものでした。まず最初に取り上げたのは、奴隷の解放に関する定めでした。天地の造り主が真っ先に目を向けたのは、いろんな事情でやむなく奴隷に身を落とした、不遇なヘブル人奴隷の解放だったのです。

神の国の法の精神は、この順番からしてすでに神のお心を表しているのだな、と思わされます。

① 奴隷の解放についての定め(2節):再起の希望を与え、励ます主

当時、貧困のために自分を奴隷として売ることは、中近東一帯で広く行われていたようです。ただ、イスラエルの奴隷制が他国のそれと決定的に違うのは、それが決して永続的なものではないということでした。6年という年季を設けて、7年目には自由にしなければならない、と神によって定められていました(2節)ドラマに出て来るような悪徳商人が、人の弱みに付け込んで一生涯、奴隷とするようなことは、許さないのです。これは、やむを得ない事情で奴隷に身を落とす人に、希望を与えるものだったでしょう。いつまでも、この状態が続くのではない。6年。6年耐えれば、7年目には自由の身に戻れる。しかも、当時、奴隷が財産を蓄えることは認められていました(レビ記25:49、旧約p. 219)から、再起に必要な備えをコツコツためるのも、励みとなったでしょうか。また、ここに「無償で去ることができる」とありますが、それどころか、奴隷が去るときには、彼を手ぶらで去らせてはならない、必ず、羊と穀物とぶどう酒を与えなければならない、と神は命じていました(申命記15:13-14、旧約p. 332)。なんという心遣いでしょうか。

あたかも、その人の再スタートを祝福し、お祝いするかのようではありませんか。こうしてその人を励まさずにはおかない、主なる神なのです。また主人にも、このように彼が自由の身になったことを喜び、応援し、祝福する心を持つ者であれ、と教えているようでもあります。欲に凝り固まらずに、彼の門出を、再出発をお祝いせよ、と。そう考えると、その人が奴隷でいる間も、むしろ主人は、彼の再起を助ける気持ち、応援する気持ちをもっていることが、主の御心なのでは?とさえ思えてきます。奴隷制度自体は、罪の世の産物ですが、そのような中にあっても、神の御心にかなった関係というものがあるのでしょう。当時の社会にあって、主人と奴隷という関係そのものはあるとしても、根底には兄弟愛、隣人愛が流れているべき。それが主なる神の御心なのでしょう。さて、3-6節は奴隷が去るときの定めですが、これは後回しにして、7節以下に飛びます。

② 女奴隷についての定め(7-11節):立場の弱い者を保護するのが主の御心

7節に「女奴隷」とありますが、これはいわゆるメイドさんのようなものではなく、将来、売られた先の家の妻、そばめ、あるいは息子の嫁等になるという条件で売られたものと思われます。それが主人の気が変わった場合、お金で買ったのだから、自分に所有権があるのだから、どうしようと勝手だ、などということは許さない。その場合は、彼女が贖い出されるようにしなければならない。すなわち、彼女の親戚などが主人にお金を払って、買い戻すようにしなければならない、とされました。そして「彼は彼女を裏切ったのであるから、外国の民に売る権利はない。」(8節)とあるのが、目を引きます。お金で買った奴隷は、当時は財産とみなされるのが普通でした。しかし、結婚などを前提として来たからには、彼女の方も、そのつもりで来たはず。それを気が変わったから要らないというのは、彼女に対する裏切り行為と断罪しているのです。その場合は、外国の民に売り飛ばすなどという権利はない。当時としては、最大限に女奴隷の人格を尊重した定めでしょう。

9節も、もし息子のお嫁さんに迎える場合、奴隷だからと言って軽んじるのでなく、ちゃんと「娘に関する定め」に則って、大事に扱わなければならない、とここでも彼女の基本的人権を保護します。「奴隷」ではなく、「娘」として大切に扱うようにと。10—11節。本来、一夫一妻制が神の定めですが、そうは言っても、当時の一夫多妻の根強い悪習を放っておけば、苦しむのは立場の弱い方です。そこで彼女たちを保護するために、ここでも最低限の条件を付けています。こういう条件を課すことによって、主人に対してある程度ブレーキをかけることにもなるでしょうか。そして、この条件を果たさないなら、女奴隷は、無償で自由の身になると、神によって定められます。当時でも、奴隷を買うには大金が必要だったと思われますが、彼女はその大金を払うことなく、解放されるのです。主人の方からすれば、無償で去らせるのは、大損です。こうして神の定めを見てみると、神は、ともすると人々から虐げられる者、立場の弱い者を、人々の不当な扱いから保護することを、強く意図しておられるのが見て取れます。それが私たちの主の御心です。

ヨブはそのような行いに富んでいたため、義人と呼ばれました(ヨブ記29:12-17、旧約p. 885)。神は正義と公正が、主人と奴隷の間でも、女奴隷の間でも、行われることを望んでおられます。力のあるものが、力にものを言わせて、正義を踏みにじって、立場の弱い者を不当に圧迫し、虐げることは許されません。

③ 奴隷が去るときの規定(3-6節):愛のゆえに、あえて留まるという選択肢

3節に戻ります。奴隷が無事、年季を終えて7年目に主人のもとを去る際の取り決めです。彼が元々、独身で来た場合は独身で去り、夫婦で来た場合、夫婦で去る。これはOK。ところが4節がクエスチョン・マーク。独身で来た奴隷に、主人が妻を与えた場合、そして子供が与えられた場合、その妻と子供の所有権は、当時は主人のものであると考えられたため、彼は妻と子供を残して、一人で去らなければならなかった。そんな生木を引き裂くようなこと、現代では考えられませんが、そういえば、アブラハムの時代、女奴隷ハガルによって得た子は、女主人サラの子とされました(創世記16:2)。古代においては、労働力を増やすために、女奴隷によって子を増やすということが、一般的に行われていたのかもしれません。このへんは、現代の感覚とはかなり違うところです。しかしここに、特例措置が用意されていました。5-6節「しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、そして戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。

彼はいつまでも主人に仕えることができる。」ここの「神のもとに連れて行き」は、聖所なのか、それとも「神」と訳された語(エロヒーム)は、裁きつかさを表すこともあるので、公的な裁判所のようなところに行って、正式に承認を得るということかもしれません。その後、家に帰って、戸、または戸口の柱のところで、彼の耳をきりで刺し通すという儀式を行います。耳は聞き従うということで、従順を表すので、これは、この家にいつまでも仕えます、ということを表します。きりで耳を刺し通すとは、読んだだけで痛そうですが、それだけの覚悟をもってそうするということの表われでしょう。「主人」を愛するともありました。このように思える関係が、主人と奴隷との間にあるということも、少し驚きです。先に述べた兄弟愛、隣人愛が支配しているなら、主人と奴隷という社会的な関係はあっても、そのようなこともあるのでしょう。とはいえ、です。いくらいい主人だったとはいえ、です。自分はもう自由の身になれるのに、主人と妻と子供たちを愛しているので、あえて、このままここに奴隷として留まることを選び取る。それも、今度は6年と期限が決まっているのでなく、ずっと、一生の間です。みなさんなら、どうでしょうか。

奴隷の身だったのが、ようやく年季があけて、自由な身になって、解放される道が開かれているのに、あえて留まる方を選び取る。ただ、主人と家族を愛するゆえに。愛して、いつまでもともにいたいために。そのために、耳を切りで刺し通されるという傷と痛みを受けて、血を流して…。ちょっとやそっとの気持ちでは、できないのではないでしょうか。他方、家族の方は、どう感じるでしょうか。彼は、もう自由の身。どこへでも、好きなところに行って、好きなことができるのに、その自由を捨てて、あえてここに、奴隷として留まることを選び取ってくれた。自分たちを愛するゆえに…。家族にしたら、その真実な愛に触れて、感動するのではないでしょうか。そしてそのような真実な愛に対して、自分も真実な愛をもって応えようとするのではないでしょうか。人の幸せというのは、何なんだろう、と思います。奴隷という立場ではあっても、よい主人のもとで、そのような真実な愛をもって互いに愛しあう家族とともに生活することができるなら—愛に囲まれているなら—、そこにはほかの何物にも代えがたい喜びがあり、それこそ神の国ではないでしょうか。イエス様は言われました。ルカ17:20-21、新約p. 151。

神の国は、目に見えるところでなく、心の内側にあるのです。17:20「…神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。17:21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」「 御国をも 御座をも 後に捨てまして 」新聖歌 100番さて、ここまで来ると、もう皆さんの心にも、「あの方」のこと浮かんでいるのではないでしょうか。そうです。永遠の神の御子イエス・キリストこそ、すべてのものの上におられ、何にも制限されることのない、まったく自由な方なのに、私たちを愛して、私たちと永遠にともにいてくださるために、その完全な自由を捨てて、あえて仕える者の姿を取ってくださった方でした。御子は、神ですから、本来、肉体に制限されない方です。しかし、私たちを愛して、私たちの救い主となり、私たちといつまでも、ともにいてくださるために、永遠に肉体をもつことを、決断してくださった。御子は、天に帰ったらもう肉体を脱ぎ捨てた、のではなく、永遠に人となってくださったのです。そして耳をきりで刺し通すどころか、両手両足を十字架に釘で刺し通されてくださいました。

ピリピ2:6-8、新約p. 3842:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。御子は、私たちを愛するゆえに、このようにしてくださいました。ここにも、神の愛があらわされています。キリストは花婿、教会はその花嫁と聖書では言われています。私たち、一人びとりが、生ける神の御子に、このように愛されている者たちです。そのことをじっくりと思い巡らしましょう。そして、このお方を、私たちの心にお迎えして、この方とともに、いつまでも神に仕えることのできる幸いを、覚えさせて頂きたいと思います。