礼拝説教要旨 2023年1月8日
あなたに臨み、あなたを祝福しよう
(出エジプト記 20:18~26)
今日の要点

私たちが罪から離れるのが神の御心だが、神はただ御子の十字架のみわざのゆえにのみ、常に私たちとともにいてくださる。

はじめに

出エジプト記20章に入って17節まで、十戒を駆け足気味ですが、見てきました。今日はその十戒が与えられた後のこと。内容的に18-21節と22節以下に分かれます。前半は、十戒を神ご自身が語られたのを聞いた民の反応と、それに対するモーセの言葉。後半は22節から23:33まで続く「契約の書」(24:7)と呼ばれるものの、序言にあたる部分です。

① 18-21節:罪を犯さないようになるため

前の19章は、十戒を与えるにあたって、主なる神ご自身が、シナイ山に降りて来た場面が記されていました。ピカッと一瞬、あたりが真昼のように明るくなったと思うと、続けて空を割るような音と、轟音の塊を投げつけたかのような、心臓まで響くような重低音の雷鳴。主の来臨を告げる角笛が鳴り響き、燃える火で全山が煙る。激しく震える。そしてそんな中で、天から十戒を宣告する神の御声…。こんな場面に居合わせたら、だれしも平気ではいられないでしょう。この時のイスラエルも、この光景を目の当たりにし、肌で感じて、恐れ、たじろぎ、モーセに泣きつきました。「…どうか、(あなたが)私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が(直接)私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」(19節)新改訳3版が「私たちに話してください」と訳したところ、原文は、「あなたが私たちに話してください」と「あなたが」が強調されています。新改訳2017、口語訳、新共同訳はみな、そう訳しています。神から直接、語られるのを恐れて、モーセよ、どうかあなたが間に立って、取り次いでくれるように、と頼んだのです。モーセは答えました。「恐れてはいけません。

神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」(20節)最初に「恐れてはいけません」と言いながら、あとで「神への恐れが生じて、云々」と、一見矛盾しているように見えますが。まずは、ブルブル震えて、恐れすぎて、話がろくに耳に入らない民のために、恐れてはいけません、と声をかける。落ち着かせる。そして、民は、これらの現象を目の当たりにして、ただわけもわからず、恐れおののいていたでしょうけれども、神はわけもなく、こわがらせることはなさらない。理由がある。それは彼らの間に神への恐れが生じて、彼らが罪を犯さないようになるためだ、と神の御心をさとしたのでした。甘い顔だけしているのでなく、悪いことをしたら怒った顔を見せるのも、子の幸せを願う親心。やがて大きくなって、世に出て本人が苦労するから、ちゃんとしつける。善悪を教える。そういうのに似ているでしょうか。神は、ご自身の愛する民、愛する子たちが、罪を犯さないようになることを願っておられます。愛されている子どもでも、親に怒られることは恐れるでしょう。

しかし愛されている子であれば、それで親自身を恐れることにはならないでしょう。普段、たっぷりと愛情を注がれているのですから。私たちが、何か神から懲らしめを受けているように感じるとき、私たちをこの上なく愛しておられる神に対して、この時の民のように、死ぬ、滅ぼされる、と恐れるのでなく、ただ罪を犯さないようになるため、聖化され、御子の似姿を私たちの内に形作るため、そうして神の宝の民とするため(19:5)、という神のご意図を悟って、正しい恐れを持つことは、むしろ健全な霊的成長に有益でしょう。また新約の時代に生きる私たちは、雷や火によって恐れを生じさせるのでなく、もっと厳かで、神聖な畏れをもつべきとも、思わされます。第一ヨハネ2:1-2、新約p. 4652:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。2:2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

私たちの罪の赦しのためには、永遠の生ける神の御子が、人となって、十字架上で私たちの罪に対する刑罰を身代わりに受けてくださったという事実。この事実が、私たちを畏れさせるのではないでしょうか。私たちが頂いている赦しは、決して軽いものではない。安っぽい恵みではない。尊い上にも尊い御子の聖い血潮が流され、肉が裂かれて、成し遂げてくださったもの。そのことを思うと、またそこにあらわされている神のご愛を思うと、できる限り、御言葉を守り、行うようにしようと、思わされるのではないでしょうか。

② 22-26節:祭壇において、主は臨まれる

22節からは、「契約の書」という新しい区分に入ります。次の21章から実際の生活の場で起こりうるケースについて、十戒に基づいて具体的にどう対処するかが挙げられます。十戒という基本法を、具体的に市民生活に適用するための細則という位置づけです。この22-26節は、その序言にあたります。最初は、神礼拝から始まります。ここが常に根本です。それはさらに偶像の禁止(22-23節)と祭壇の建設(24‐25節)という内容になっています。偶像禁止については、すでに第一戒、第二戒でも語られましたが、ここでくれぐれもと念を押します。それほど大切なことです。恐るべき光景の中、天から声をとどろかせた、生ける神を彼らは体験しました。その神と並べて、金や銀の細工物を拝むなどということは、いかにありえないことか。愚かしいことか、肝に命じよと。そして神を礼拝するときに、欠かすことができないのは、像ではなく祭壇です。「土の祭壇」という語は聖書中、ここにだけ出てきます。土を盛っただけの素朴なものでしょう。神を礼拝するための祭壇は、素朴でいいのです。

「石の祭壇」もありますが、その場合、石にノミを当てることは禁じられ、自然にある石を加工せず、そのまま積んで祭壇としなければなりません。石に模様や彫刻などの飾りを施して、こっちの祭壇の方が効き目があるとか、この飾りがいいようだ、とか、言い出さないように。これは、いっさい人間の工夫や力を排除するという趣旨でもあるでしょう。神は、いかなる点においても、人間のわざによって、そこに臨まれることはないと。祭壇とは、その上でいけにえの動物や穀物などを捧げる場です。大切なのは、いけにえの意味です。24節「わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。」全焼のいけにえと和解のいけにえと、ここでは二つのいけにえが挙げられています。この二つは、どちらも、捧げる人がその羊なり牛なりの頭に手を置いて、その後、ほふって、血を注ぎ出します。手を置くのは、そのいけにえを捧げる人と、そのいけにえが一体となることをあらわします。

そしてそのいけにえは、捧げる人の罪を背負って、その人の罪のために、ほふられ、血を流します。それによって罪の赦しが与えられます。ここまで両方に共通している所作です。その後、違いが出ます。「全焼のいけにえ」は、その動物を解体して、足と内臓は水で洗ってきれいにして、ほかの肉や脂肪といっしょに、すべて焼いて煙にします。煙は天に立ち上りますから、これは神への全き献身をあらわします。内臓も焼いて煙にするのは、見えるところだけでなく見えないところまでも、心の中までも、神への聖い捧げものとなっていることをあらわすのでしょう。心の中まで100%きよい神に捧げられている、神のものとなっている。この条件を満たすのは、単なる人間にはできません。生ける神の御子キリストだけが、その条件に100%合致する方です。御子キリストは、私たちのために、完璧な人間となってくださって、心の中まで完璧な捧げものとして、ご自身を神に捧げられました。神は、キリストが捧げた完璧な捧げものー完全な義―を、キリストを信じる私たち一人びとりのものであると見なして、キリストとともに私たちをも受け入れてくださるのです。キリストを信じる者は、キリストと一体となっているからです。

「和解のいけにえ」は、前半は同様に血を注ぎ出して罪の赦しをもたらしたあと、今度は脂肪は焼いて煙にし、胸と右のももの肉は祭司に与えられ、残りの部分は捧げた人とその家族、奴隷、女奴隷などが、ともに神の御前で食べることになっていました(申命記12:17,18、旧約p. 327)。この宴が、和解のいけにえの特徴と言われます。これは、罪の赦しのあと、神との和解が実現して、食事の交わりにあずかること。すなわち神との親しい交わりの実現を待ち望むことをあらわします。この宴の主催者は神です。捧げる人が持ってきた動物は、神に捧げられるので、捧げた後は神のものです。それで、神がこの部分はこの人たちに、この部分はあの人たちに、分け与えなさいと、神の家の主人として指示します。食べる場所も、自分の家ではなく、神の家でなければならないことも、この宴が神の主催であることを示します。神がホスト役となって、振舞ってくださる宴です。神との全き交わりの回復、まったき和解があらわされています。少し先取りになりますが、このあと、主の指示によって人々は山のふもとに祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げます。

そして主との間で正式に契約を批准した後、モーセたちと70人の長老は山に登り、そこで彼らはなんと神を仰ぎ見、そこで、神の御前で飲み食いしました!24:10-1124:10 そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。24:11 神はイスラエル人の指導者たちに手をくだされなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。やがて来る御国を写す光景でしょうか。私たちも、やがてそこに入るのです!神を仰ぎ見、しかも神にお呼ばれして、神の御前で飲み食いするのです!「 『十字架の血に きよめぬれば 来よ』との御声を われは聞けり 」新聖歌 45番今日の個所は、恐ろしげな光景だったり、「~してはならない」と禁止命令が続いたりと、一見、いかめしい印象ですが、よく見ると、一か所だけ、「あなたを祝福しよう」という、恵みの言葉がありました。ここを見逃さないようにしたいものです。民が罪を犯さなくなるため、震えあがるような光景を見せましたが、それは決して民を滅ぼしたり、意味もなく怖らせるためではない。それどころか、主は彼らに臨み、彼らを祝福しよう、と仰っているのです。

そのカギは祭壇です。全焼のいけにえと和解のいけにえが捧げられるところ。そこに主は、罪人を裁くためではなく、赦し、交わりを持ち、祝福するために、臨んでくださる。ここに福音があらわされています。罪を犯さないようになるため、とは言うものの、罪を犯さなくなったら、あなたに臨み、あなたを祝福しよう、ではない。いけにえが捧げられたところで、あなたに臨み、あなたを祝福しよう、と仰る。罪の赦しによる、インマヌエルの祝福。神がともに歩んでくださる祝福。神が味方になってくださる祝福。神が、私たちの拠り所となってくださる祝福。人生の旅路において、荒野にあっても、谷にあっても、祭壇を築くところ、そこに主が臨み、祝福してくださる。永遠の祭壇、御子イエス・キリストの十字架において、主は私たちに全き罪の赦しを与え、私たちを祝福する方として、私たちに臨んでくださいます。イザヤ書43:2,3、旧約p. 119443:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

43:3 わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。私たちの行いによらず、ただキリストにあって、私たちに臨んでくださる神との交わりを、祈りと御言葉によって、深める一年となるように!と聖霊の導きと祝福を祈ります。