前回、10月の第二週、エペソ人への手紙2章の御言葉、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(8~9節)を私たちの信仰の本質、また真髄を的確に言い表すものの一つと覚え、私たちの信仰の理解を再確認した。その時、今後の奉仕の機会にも同じ課題に触れたいと言った。実際にどのようにしたら、その課題に沿えるのか少々迷いながら、大事なのは、イエス・キリストの福音を、どれだけ正確に、また明確に私たち自身の心に刻んでいるか、聖書が教える福音に従って生きているのか、に尽きると言える。そのことを心に留め、「恵みによる救いー神からの賜物ー」の理解を教えてくれる御言葉に、今朝も触れてみたい。それには、やはりローマ書は欠かせない第一の書物である。
使徒パウロが諸教会に書き送った手紙の中で、ガラテヤ書と並んでローマ書は、イエス・キリストを救い主と信じること、信じて神の前に義と認められることについて、より明確に記されている。イエスをキリストと信じた人々に向かって、その信仰から逸れることのないように、と言うだけでなく、ローマ書では、福音の核心を、より体系的に、より具体的に説いている。天地の創造主である神に造られた人間が、神に背いて罪に堕ちて以来、どれだけ神に背を向けているのか、そうした罪の悲惨さを説きながら、律法を与えられたユダヤ人と律法を持たない異邦人の違いを理解し、神の前に罪ある人間の現実は、どちらも全く同じ悲惨の中にあると指摘する。生ける真の神の前に、全ての人は罪ある存在であり、罪に対する神の怒り、また神の裁きを免れる人は一人もいない事実を突き付けるのが、3章の前半までの内容である。「では、どうなるのでしょう。私たちは他の人にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。…』」(9~18節)
そのような罪ある全ての人のために、神は確かな救いの道、罪の赦しを与える救いの道を備えてくださった。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(21~22節)罪ある人間自身ではどうすることもできないことを、神ご自身の側で成し遂げ、その成果を信じる一人一人に与えることを、神が良しとされたのである。誰一人として差別されることのない尊い救い、確かな救いである。十字架で死なれたイエスを、私の救い主、私の罪の身代わりとなって死んでくださった方と、心から信じる人が神の前に義と認められるのである。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。…こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」
(23~26節)この御言葉が語ることこそ、神の恵みによる救い、信仰によって義と認められるという、私たちの信じる福音の真髄、中核である。その意味することを正確に捉えるのに、私たち人間の罪の事実を理解することがカギである。というのは、神への背きの罪に堕ちた人間にとって、罪を認めることは至難のことだからである。神を神と思わず、罪を罪と認めない事実、それが罪に堕ちた人間の姿であって、誰も自分から進んで神の前に進み出ることはない。
神への背きを罪とは認めず、自分の知恵や知識、また力によって、人間が思いのままに生きて行こうとするのは、人間の歴史を通じて厳然たる事実である。堕落した人間が尚も善なる性質を保ち得ているとしても、それは神のかたちに似せて造られているからであって、神が善しととされる善、そして義を、自分から選び取ることはできなくなっている。自ら神に立ち返ることは、決してしない。聖霊なる神に導かれて、神が備えてくださった救いの道を感謝を持って受け入れ、イエスをキリスト、救い主と信じることによってのみ、私たちは義と認められるのである。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義とみとめられるのです。」十字架のキリストを仰ぎ見る以外に、私たちの救いはない。それゆえに「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょう。それはすでに取り除かれました。…」(27~30節)とパウロは言う。ユダヤ人であっても異邦人であっても、何人であっても、信仰によって義と認められるという救いの道だけが、永遠のいのち、真の救いに至る幸い道なのである。<結び> それにしても、私たち人間はなかなか自分の罪を認めない。
一般的な裁判の罪状認否において黙秘したり、一度認めたものを否定したりすることが多い。交通事故を起こした時、自分から謝らないように…という助言を聞くこともある。けれども、聖書は、罪を罪と認めること、罪を悔い改めて謝ることの大事さを説いている、その罪を赦された後に、そこから立ち上がって前を向くこと、新たな歩みをすることこそ尊いと教えてくれる。生ける神の前に、罪を赦されて生きることこそが幸いであると。私たちに罪を認める潔さ、素直さ、率直さがあるだろうかと、今更のように問われる。私たちは、日頃のテレビや新聞のニュースで、人々の心の中の頑なさや、神を恐れない強情さを知らされる。他の人の姿から、罪を認めない、堕落した人間の姿が浮き彫りにされるが、自分の本当の姿に気づいているのか、よくよく思い返さねばならない。罪を赦し、たましいの救いは、神の恵みによる以外には、決してたどり着くことはできないと、今一度心に留めることが導かれるように。キリストを信じて義とされる救いの恵みは、神からの賜物と感謝をもって受け取り、その信仰を証しして歩めるように!※招詞:ガラテヤ2:20~21賛美:「新聖歌」112番(カルバリ山の十字架)