礼拝説教要旨 2021年12月19日
クリスマス礼拝
永遠のいのち
(ヨハネの福音書 3:16〜17)

(ヨハネ3:16-17) 横田俊樹師

今日の要点

永遠のいのちとは、私たちのためにキリストを遣わされた神の愛を知ることである。

はじめに:すばらしい喜び

キリストの降誕を告げる御使いは、「すばらしい喜びを知らせに来た」と言いました。「すばらしい」と訳されたギリシャ語は、メガロポリスとかメガトン級とか(メガ盛りとか?)言うときの「メガ」という言葉で、とてつもなく大きいことを表わす語です。ちょっとやそっとの喜びでもなければ、大喜びでもない。この上ない、人類最大の、そして実は神ご自身にとっても最大の「喜び」の知らせなのです。それは、最初の人アダムが罪を犯し、その時から死すべき者となってしまった人間のために、その直後から預言され、待ち望まれていた救い主キリストが、お生まれになったという知らせです。その救い主とは、滅ぶべき人間に、永遠のいのちを与えるために、神が遣わした神の御子キリストです。永遠のいのちは、私たちにメガサイズの喜びをもたらすものなのです!

永遠のいのちは、誰に与えられる?

このキリストがくださる永遠のいのちは、神からの「賜物」です。ローマ6:23、新約、p298。罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。賜物とは、プレゼント、ギフトです。私たちからすれば、タダです。神はすべての人に、賜物として永遠のいのちを差し出しておられるのです。受け取るのに、必要なのは、受け取ります、という意志だけです。言い換えると、この神の約束を信じるということです。そうすれば、神は、信じる者には誰にでも、まったく差別なく、永遠のいのちをお与えになるというのです。先着何千名様までとか、抽選で何万名とか、でなく、あるいはまた、ウソをついたことのない人限定とか、罪を犯したことが10回までの人限定とか、警察に三回以上ごやっかいになった人はダメとかではありません。良い人の中で上から100番目までが合格ラインとか、そういう条件付のものではありません。信じる者には、誰にでも、限りなく与えてくださるのです。文字通り、ただで与えられる、神からの最大のプレゼントです。

罪を取り除く

一般に天国とか永遠のいのちは、善行を積んだ人がもらえるもの、罪びとは地獄、と言われます。しかし、どうでしょう。罪を犯さない人は、いないのではないでしょうか。聖書によると、アダムの堕落以降、すべての人は罪びとです。しかしヨハネ3:17を見てみましょう。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。神は、さばくためでなく、救うために御子を遣わされたと、ハッキリ書いてあります。イエス様ご自身も仰いました。ヨハネ12:47だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。では、どうして罪びとが、永遠のいのちにあずかることができるのでしょう。正義をチャラにして、無視して、ただ赦す、永遠のいのちを与える、と言うのではありません。正義のない所には、平和もありません。混乱と争いがあるだけです。神は、正義をどうでもいいと言っているのでなく、正義を全うする形で罪びとに永遠のいのちを与える道を備えられたのです。第二コリント5:21、新約p351神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。御子キリストが、私たちの罪を身代わりに背負って、正義が要求する刑罰を受けてくださったのです。それで、正義は貫かれ、しかも私たちは罪赦され、永遠のいのちにあずかるのです。もともと、人は死ぬようには、造られていませんでした。人が罪を犯したときに、死が入ってきたのです。ですから罪が取り除かれたら、死も取り除かれるのです。キリストは、恵みとまことに満ち満ちたお方です。正義を犠牲にすることなく、しかも、無尽蔵の恵みが、キリストからあふれ出ています。キリストは、さばくために来たのではなく、救うために来られた救い主です。悔やんでも悔やみきれない過去の過失、罪。今現在、苦しんでいる罪。それらをキリストは、代わりに負ってくださるために来られたのです。キリストに負って頂きましょう。キリストは、裁くために来たのではなく、救うために来た方なのですから。

唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ること

ところで、死が罪の結果なので、罪が処分されたら永遠のいのちが回復する、ということは、その通りなのですが、ここをもう少し掘り下げて考えてみましょう。ヨハネ17:3に次の御言葉があります。イエス様が、父なる神に祈っているところです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。唯一のまことの神とは、天地万物をお造りになった唯一の、文字通り全知全能の神のことです。いのちの源であり、すべての人をお造りになり、今も生かしておられるお方。額面通り、不可能なことの何一つないお方です。このお方と、このお方が遣わされたイエス・キリストを知ること、と言われています。どうしてこれが、永遠のいのちなのでしょう。永遠のいのちとは、何でしょうか。時間も、神がお造りになったもの。だから、神は、時間という枠の外側におられる。永遠とは、時間を無限に引き延ばしたものではなく、時間の外側にあるものだ、などと言われます。しかしここでは、そういう哲学的な、難しい話は脇に置いて、別な面から考えてみます。永遠のいのちとは、ただ単に今ある命をずーっと引き延ばして、いつまでも続く、というものではありません。

いのちの質が、まったく違うのです。それは、神の真実なご愛を知ることです。そのことが「あなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」と言われているのだと思います。天地万物の造り主なる神が、私たちを救うために、最愛の御子を救い主としてお遣わしになったという事実。先ほど述べたように、救い主は、私たちの罪を身代わりに背負って、刑罰を受けなければなりませんでした。十字架の苦しみを受けなければならなかったのです。そんな犠牲を、私たちを救うために、払ってくださったのです。その神の愛、神の真実は、想像を絶するものです。第一ヨハネ4:9-10、新約p4694:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。最愛の御子を、なだめの供えものとして、遣わすということが、御父にとってどういうことか。自分が切られるより、痛いはずです。しかし、神はそのことをしてくださいました。

もちろん、御子ご自身も、御父と同じ心で私たちを愛して、自ら進んでご自身を捧げてくださいました。神は一切、義理も義務も、同調圧力もありません。完全に独立した、ご自分の自由な意思でお決めになったのです。つまり、神は、私たちを愛されたのです。そして、神が愛すると言ったら、半端ではありません。神が、愛すると言ったら、とことん愛します。ちょっとやそっとの愛ではないのです。これほどの犠牲を払うほど、真実なご愛です。天地の造り主からの、それほどの愛が、自分に向けられていると考えたら、圧倒されるのではないでしょうか。しかし、その神のご愛を知ることが、単に時間を引き延ばしただけのものとは、全く違う、永遠のいのちなのだと思うのです。その神の愛を知ることこそ、私たちのうちに尽きない喜びと平安を湧き出させる泉となるのでしょう。最近、youtubeの画面で、「抱っことわかった途端、嬉しさが溢れる赤ちゃん」というのが、出てきました。大好きなお母さん、お父さんに、抱っこされることのうれしさを、手足をバタバタさせながら満面の笑顔で表しています。それに似ているかもしれません。

私たちも、神の愛を知ってー聖書的な意味での、体験を通して、人格的に「知る」度合いが深まれば深まるほどー私たちのいのちの質が変わります。喜び、平安が生まれてきます。天国という場所も、神の愛を知らずに、ただ神がそこにいて、だけども特に神の愛を知らず、ただずーっと無限の時間を過ごすというのではなく、神の愛を十分に知ってー今の私たちはほんの一部分しか、知っていないに違いありませんー心の奥底から喜びが湧き溢れて、嬉しさが溢れた状態なのだと思います。それが、キリストが与える永遠のいのちなのだと思います。以前、不思議な導きで、元総理大臣の人の義弟の葬儀をさせて頂いたことがあります。そのときにも永遠のいのちの話をしたのですが、その元ファースト・レディーの方は、永遠に生きるなんて大変じゃないかしら、私は今の世だけで十分、と仰ったのが、印象に残っています。それは、キリスト教に対する反感というより、素直な実感だったのだろうと思います。しかし、キリストが与える永遠のいのちは、今のいのちの延長ではありません。いのちの質が、アダムが罪を犯す前の状態にーというより、それ以上にー回復した状態です。

神を心から信頼し、愛し、また神にこの上なく愛されていると知る。その神と人との相思相愛の状態こそ、永遠のいのちの本質ではないかと思うのです。そもそも、人の世に死が入ってきたのは、人が、サタンの偽りを信じてしまったからでした。「善悪の知識の木から取って食べてはならない、それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」という神の戒めを、それまでは素直に信じて、守っていたアダムとエバでしたが、あるとき、サタンはエバに「そんな言葉を真に受けているのか。お人よしもいいところだ、神は、お前たちを、神のようにならせないように、善悪の知識の木から食べるのを禁じているのだ。あれを食べても、絶対に死なない。」と神の愛と真実を疑わせる言葉を語りました。そしてそれを信じてしまったこと―神を疑ったこと、不信の念を抱いたことーが、死をもたらしたのでした。サタンは最初から偽りものであり、人殺しです、とイエス様が仰った通りです(ヨハネ8:44)。いのちの源、万物の造り主、私たちをこの上ない愛をもって造ってくださったお方を疑い、不信を抱いて、幸せなはずがありません。このサタンの偽りは、アダムたちの遠い昔から今に至るまで、世界中にこだましています。

しかし、神の御子は、そんなサタンの偽りを粉砕するために、キリスト救い主として、十字架上でご自身の肉を裂き、血を注ぎ出して、私たちにいのちを得させるために、世に来てくださいました。サタンの言葉が偽りであることをハッキリと示し、神のご真実、ご愛を、これっぽっちも疑いの余地を残さぬ形で、あらわしてくださったのです。

結び:信じる者のうちに始まっている永遠のいのち

この神の愛を表わすために、聖書は、キリストを信じる者は、神の子とされたという言い方もしています。ガラテヤ3:26、新約p367。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。この新しいいのち、永遠のいのちは、信じる者のうちにすでに始まっています。今、私たちは、古い、生まれながらの肉体の命と、神の愛を知った新しいいのち、永遠のいのちと、両方のいのちを持っています。やがて、いつの日か、肉体の命は尽きるでしょう。しかし、神の愛にあずかっているいのちは、永遠に続きます。日々、肉体の命も大切にしながら、永遠のいのちをー神のこの上ないご愛をー知っていく歩みが、クリスチャンの歩みなのだと思います。試練にあっては、そんな神を信じているのか、とサタンがいまだにうそぶきます。しかし、私たちは、十字架にかかられ、三日目に復活された御子を指さして、神の愛を信じる姿勢を貫くのです。その信仰に、神は必ず応えてくださいます。キリストが三日目に栄光のうちに復活されたように。地上では、わからないこと、心から納得できないことも、あるかもしれません。

しかし、天の故郷に帰ったときに、すべてが氷解し、神への賛美をもたらすものとなるのでしょう。御使いが「すばらしい喜びを知らせに来た」と告げたのは、この神とともにある永遠のいのちの始まりだったのでは、ないでしょうか。