礼拝説教要旨 2021年12月5日
知るようになる
(出エジプト記 6:2〜9)
今日の要点

神とともに歩む中で、体験を通して、人格的に神を知ることを求める。

あらすじ

前回の続きです。いっこうにイスラエルの民を救い出そうとしない主に、なぜですか、どうしてただ手をこまねいてみているだけなのですか、と訴えたモーセに対して、主は、わたしがパロに対してしようとしていることは今にわかる、とやさしくたしなめました。それに続けてか、しばらく経ってからか、わかりませんが、主が改めてモーセに語られたのが今日の箇所です。まずは2-3節「神はモーセに告げて仰せられた。『わたしは【主】である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、【主】という名では、わたしを彼らに知らせなかった。』」なつかしい名前が並びます。創世記でアブラハム、イサク、ヤコブの生涯を見ましたが、少し振り返ってみましょう。神はアブラハムにこう言われました。創世記17:1「アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」子どものいないアブラハムに、もう何十年も前から多くの子孫を与えようという約束を神は与えていました。が、待ちに待って今や99歳。妻のサラは89歳。

生物学的には、すでにあり得ない状態になっていましたが、そんな彼に神はこのとき「あなたは多くの国民の父となる。あなたの子孫をおびただしく増やす」と語られました。その時、アブラハムがどういう態度を取ったか、覚えていますか?彼は、ひれ伏し、そして笑ったのでした。そして心の中で「百歳の者に子どもが生まれようか。妻サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言いました。さすがのアブラハムも、信じるのに疲れて、シニカルな(皮肉っぽい)態度になっていたのでしょうか。当然の反応でしょう。しかし神は、ご自身の言葉通り、百歳のアブラハムと九十歳のサラにイサクを与えたのでした。天地万物を造った神には、不可能なことが何一つない。文字通り、全能の神(エル・シャダイ)であることを示したのでした。そのようなお方として、創世記の時代には、神はアブラハム、イサク、ヤコブにご自身を現されました。それに対して、この出エジプトの時代は、神はご自身の別の面を現します。それは、契約を実行する、真実な方としてご自身を現されるということです。神は約束を守られる方。不可能に見えることでも、全能の力をもって、人間と結ばれた契約を守る真実な方ということです。

2節の「主」は太字ですから、これは以前学んだ、いわゆる神聖四文字と言われる語で、ヤハウェと発音されたのではないかと推察されるものです。今回は太字の「主」をヤハウェと呼びます。ここで神は「わたしはヤハウェである。」と語られ、このヤハウェという名ではアブラハムたちに知らせていなかったとあります。しかし、実は、創世記を見てみると、アブラハムたちもヤハウェの御名によって祈っていましたし、誓ってもいました(12:8、13:4、14:22、21:33)。さらにさかのぼって創世記の4:26によると、最初の人アダムの孫にあたるエノシュの時代から、人々はヤハウェの御名によって祈り始めました。彼らはヤハウェという呼び名は知っていたのです。ただ、この時代以降、ヤハウェの名は、新しい意味合いをもって知られるようになる。すなわち、ヤハウェの御名は、契約を実行する真実な方として覚えられるようになる、ということのようです。それを説明しているのが、4-8節で、イスラエルをこれから救うと宣言するにあたって、2節、6節、8節と「わたしはヤハウェである」との宣言を織り交ぜることによって、この契約を実行することとヤハウェの御名を結び付けておられます。

わたしヤハウェが、これを行うのだ、と。4-8節をもう少し詳しく見ると、ここにもアブラハムたちとモーセとの対比があります。アブラハムたちは、契約を与えられていただけなのに対して(4節)、モーセたちは、ヤハウェがその契約を実際に行うのを体験する(6-8節)のです。エジプトで苦しめられているイスラエルの民を苦役から救い出し、彼らを取ってご自身の民とし、神は彼らの神となってくださる。そして彼らを、アブラハムたちに誓った約束の地へと連れて行き、その地を彼らの所有とされる。こうして彼らは、ヤハウェこそが、アブラハムへの契約に対して真実な方であることを、体験を通して知るようになる。ここがポイントです。以前にも言いましたが、聖書で「知る」という言葉は、単に頭の知識として持っているということでなく、実際に体験してわかる、という意味合いと言われます。水泳の仕方を本で学んで知識を得ても、見るとやるとでは大違い。それだけで泳ぎを知ったことにはなりません。実際に水の中に入って、手足を動かして泳いでみて、はじめて泳ぎを知ったことになります。

そのように、モーセ達は契約が実行される、その真っただ中に置かれて、身をもってそれがどういうことかを実際に体験して、ヤハウェを「知る」ことになるのです。私たちは、聖書で読んでいるだけですが、これを実際に体験した当時の人々は、どれほど感動したことでしょう。実際、彼らもいろいろとあったにせよ、ヤハウェが実際に行われた奇跡を実際に見た世代の人々が生きている間は、イスラエルはヤハウェに仕えました(ヨシュア記24:31、旧約p412)。実体験は、強い信仰、信頼を生み出します。こうしてイスラエルの民は、ヤハウェが確かに契約を実行される方、人間的には不可能なことでも、全能の御力をもって成し遂げられる真実な方だと、体験を通して知るようになるのです。「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れるわれに」(新聖歌 233 番)「神を知るということ」(J.I.パッカー著)という名著があります。どのような人向けに執筆されたかについて、「ただ信心深くしているだけのあり方には飽きたらず、本当に神を知りたいと欲している人」のためと述べられています。

本の内容は、組織神学のいわゆる「神論」について記されているのではなく、キリスト者が生活の場において神を知り続けていくこと、神がどのような方であるかをこの地上で、神から教え続けられることの大切さを語っています。アブラハム、イサク、ヤコブが、またモーセが、人生の真っただ中で、神に祈り、時に格闘して、神というお方を人格的に知ったように。神の教理について、三位一体とか、創造主であるとか、人の罪のために御子が十字架にかかってくださったとか、そのような教理ももちろん、とても大切です。が、たとえウェストミンスター信仰基準をすべて理解して暗記したとしても、神ご自身を知っているとは、必ずしも言えません。神についての知識を持っていることと、神ご自身を知るということは、別のことです。たとえば、ある人について、興信所の人が調査して、親のこと、出身、学歴、仕事、収入、趣味、健康診断の結果まで調べ尽くしたとしましょう。それは、この人についての情報をたくさん持っていることです。他方、その人に子どもがいるとして、その子は、興信所が調べたような情報は知らないかもしれません。が、その人自身を知っているのは、間違いなく、興信所の人ではなく、子どもの方です。

毎日、お父さんと呼んで、ふれあい、言葉を交わし、抱き上げられ、お風呂に入れてもらったり、ご飯を一緒に食べたり、一緒に寝たり、時に怒られ、一緒に遊んだりしている子どもの方です。体験を通して、人格的に知っているのです。興信所の情報は、その人についての周辺的な知識であって、その人の本質は人格そのものであり、それは実際に触れあってみなければ、わからないもの。交わりの中でわかるものです。神はアブラハム、イサク、ヤコブに、そのように生活の場で、人生の苦難の真っただ中で、彼らにご自身を全能の神(エル・シャダイ)として体験させました。そして今度は、モーセたちに契約を実行する方、具体的には、イスラエルを贖う方として、神はご自身を現されました。贖うとは、聖書では、犠牲を払って罪の償いをして、救い出し、ご自分のものとすることです。この順番は福音書でも見られます。イエス様は前半は、病を癒したり、悪霊を追い出したり、荒れ狂う波風を一言で静めたり、全能の方としてご自身を現され、後半、ご自分が十字架に渡されること、人々の贖いの代価としていのちを与えるために世に来られたことを教え始めました。そして事実、十字架であがないを成し遂げられました。

私たちの信仰の歩みも、この順番をたどることが多いかもしれません。最初は世界の造り主、全能の神、祈りに応えてくださる方などとして信じるところから始まり、それが、あるとき、自分の罪、醜さに気づかされた時に、はじめてキリストの十字架のありがたさ、そこにある神の力、神の愛を体験を通して知るようになります。上にあげた新聖歌233番の歌詞「驚くばかりの恵みなりき」で、「恵み」に「驚くばかりの」がついています。単に「恵み」というだけでは足りない、「驚くばかりの」と言わずにはいられない、心の感動が感じられます。神の恵みを体験した人の言葉だからです。この歌の作詞者はジョン・ニュートン (John Newton,1725?1807)という英国人で、母親は幼いニュートンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンでした。が、彼が7歳の時に亡くなり、やがて成長したニュートンは、商船の指揮官だった父に付いて船乗りになりました。そして、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に携わるようになりました。当時、奴隷への扱いはひどいもので、輸送される途中、病気や栄養不足などで命を落とす人たちも多かったと言います。

ニュートンも、奴隷に対してそのような扱いを当然のように行っていました。ところが、彼が22歳の時、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥りました。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈りました。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったといいます。すると船の外に流れ出していた貨物が、船体の穴をふさいで浸水が弱まり、船は難を逃れたのでした。彼はこの日を境に、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や信仰書を読むようになりました。また、彼は奴隷に対して、それまでになかった同情を感じるようになりました。が、その後の6年間は依然として奴隷貿易に従事し続けました。のちに、真の回心をするには、さらに多くの時間と出来事が必要だったと語っています。その後、28歳頃、彼は病気を理由に船を降り、牧師となりました。そしてその約20年後、「驚くばかりの(Amazing Grace)」が作詞されました。その歌詞の中で、彼がかつて奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにもかかわらず赦しを与えてくださった神の恵みに対する感謝が歌われています。こんな大きな罪を犯していた自分をも、神は赦してくださった。

その赦しの背後には、尊い御子の十字架の犠牲があった。そのことを知って、彼はその恵みを歌わずにはいられなかったのでしょうか。「神を知る」とは、「神に知られている」ことを知ることです。他にも神を知ることにはいろんな面がありますが、一番大切なのは、これです。上述の本の書評の中に、次のようなものがありました。「神は、ご自身の手のひらに私たちの名を刻んだと言われるほど、私たちを片時もお忘れにならない。一瞬たりとも、神の御目が私から離れるときはなく、神の注意が私からそらされることはない。いつどのような瞬間にも、神のご配慮が揺らぐことはない。神は私をとことん知り抜いておられます。」イザヤ書49:15-16、旧約p1208。49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。49:16 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。…人生の目的は、このように神を知ることだと言えるのかもしれません。神が、ほかならぬ自分を、そのように愛しておられると知ること。神の子どもとされた者たちにとっては、すべてのことが、そのために配剤されているのかもしれません。

それはもしかしたら、試練において、知るのかもしれません。そこに、ともにおられる主を知るのです。また、罪の呵責にあえぐとき、そこにおいて、イエス・キリストを体験として知り、私たちを命がけで愛しておられる神を知るのです。そしてこの世を去ったとき、また復活の時には、ハッキリと、キリストを信じる者が一人残らず、神の文字通り全能の御力と真実な愛を「体験して」知り、神を心からほめたたえるに至るのです!