礼拝説教要旨 2021年3月7日
主がともにおられ
(創世記 39:1〜23)

キリストを信じる者には、どんな所でも、主がともにおられる。どこでも、主とともに歩む。

あらすじ

内容的には37章の続き。兄弟たちの手によって、エジプト行きの商人に売られたヨセフのその後です。カナンの田舎から、荷台か何かにくくりつけられて、まったく見知らぬ異国の大都会へ連れられてきた17歳のヨセフ。どれほど不安だったことか。それゆえ、どれほど祈らされたことか。エジプトに向かう数十日の祈りの中で、ヨセフは神に取り扱われ、徐々に落ち着き、現実を受け入れ、何が待ち受けているか、全く予想だにできないこれからの展開を、ただ神にゆだねる信仰を強くされたでしょうか。心を注ぎ出しての祈りは、豊かな神のお取り扱いのときとなり、ヨセフは聖霊に満たされていったように思われます。エジプトでは、奴隷市場で他の奴隷たちといっしょに、商品のように並べられたでしょうか。奴隷の運命は、どんな主人に買われるか、にかかっています。良い主人ならいいのですが、横暴な主人だと悲惨です。ゆえに、神の御手がここで働かないはずはなく、ヨセフはエジプト王パロの侍従長ポティファルの手に渡りました。この家に売られたのが、神のご計画の中で重要なポイントとなります。生活の場、働きの場がどこかは、人生を形成する大きな要素です。

それゆえ、進学、就職などの人生の岐路にも、主の導きがあります。さて、37章には、ヨセフは羊飼いの兄達のお手伝いで、まだ半人前でした。ところがそんな彼のやること、なすこと、すべて祝福され、家畜などの財産は殖える一方。ポティファルはホクホク顔で、顔の筋肉がゆるみっぱなしです。ついには、ポティファル家の全財産を任されることになりました。ヨセフは、いろんなものを管理する賜物があった人です。それがやがてエジプト全土を治めるということになります。賜物は正しい心で用いることが大切です。箴言3:33(旧約p1061)「悪者の家には、【主】ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。」賜物は、正しい心で用いてこそ、祝福となるのでしょう。義人が迫害を受けるという面もありますが、だからと言って箴言の御言葉が無効なわけではありません。原理原則は大切です。ヨセフの場合もそうでした。すべての祝福の源であられる主が、まっすぐな心で主に信頼していたヨセフとともにおられたので、やること、なすこと、全て当たり。

2節「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり」また3節にも「主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださ」ったとある通りです。かつてアブラハムもゲラルの王アビメレクに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」(21:22)と言われ、イサクも「主があなたとともにおられるのをはっきり見た」と言われました(26:28)。その同じ、神がともにおられるという契約を、確かにヨセフも相続していたことがわかります。キリストを信じる私たちも、その同じ契約を受け継いでいます。ただ誤解してはいけないのは、彼らは何の苦労もなかったわけではなく、よそ者として苦労し、厳しい試練に会う中で、そのような祝福にあずかったことです。ヨセフも、ポティファルの家に来てすぐではなくて、ある程度の期間、下積みを経てのことでしょう。最初は、新入りの奴隷として下っ端から始まって、古株や同じ奴隷仲間から、いろんな扱いを受けたかもしれません。しかしそこでも腐らず、忍耐をもって忠実に務めを果たしていくうちに、主がともにおられたので、彼の働きは良い実を結び、認められたのです。

もちろん、ヨセフも生身の人間ですから、ときに、いろんな感情が沸き上がったかもしれません。が、そこに沈みこまず、それらの感情に未来をつぶされないよう、まっすぐな心を失わずにいられたのは、やはり神に対する揺るぎない信仰のゆえだったのでしょう。さらにヨセフの場合は、例の夢が、支えとなっていたのかもしれません。あの夢は、神からのものと信じていたので、必ずそれが実現する時が来る。その信仰から出る希望がヨセフを支えていたのかもしれません。夢や希望は、苦難の中で支え、力となります。生活に張り合いを与えます。社会には、あるいは自分の内側を見ては、希望が持てないと思っても、主にあってはそうではありません。主のもとにはいつでも希望があります。こうして主がともにおられて、彼は内面的にも支えられ、外面的にも祝福されたので、主人ポティファルは、食べ物のこと以外は、すべてヨセフに丸投げしました。そしてそれからというもの、主はヨセフのゆえに、この家をさらに祝福されました。ところが、そんな矢先でした。誘惑(むしろ災難!)そして試練がヨセフを襲いました。先ほど読んだ通り、ポティファルの妻が、立場にものを言わせて、恥も外聞もなく露骨に迫ってきたのです。

断ったら、何をされるか、わからない。奴隷のヨセフは、命を握られています。しかしヨセフは彼女に対して、キッパリと断ったのです。ここでNO!と言えるヨセフ!それを可能にしたのも、唯一の絶対者なる神への信仰です。8‐9節「しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。『ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。』」旧新約聖書中、さんぜんと輝く聖句の一つです。罪の誘惑に対する御霊の与える剣として、覚えておきたい御言葉です。万が一の時には、これでぜひ、スパッとやって頂きたいと願います。ある人はここで次のようにコメントしています。「主人ポティファルの妻の恐るべき誘惑の前に、ヨセフは、人生の選択を迫られました。人格というものは、次第次第に形成されていくものですが、いったん、事があったときに、明確に結晶するものです。

人はその選択によって、自らがいかなるものであるかを知り、正しきを選んだものはそのことによって次の機会には一層容易に正しきを選び、そのたびに強く固く立っていくものです。」さて、ヨセフはキッパリと断りましたが、彼女はその後もしつこく付きまといました。ヨセフは、彼女といっしょにいることもないようにと気を付けていましたが、あるとき、ついに彼女の好意は憎しみにひっくり返りました。かわいさ余って憎さ百倍。先ほど読んだ通りの罠を仕掛けて、ヨセフに濡れ衣を着せたのでした。妻の言葉を聞いたポティファルは怒りに燃え、ヨセフを牢に投げ込みました。忠誠を尽くしてきた相手に、嘘によってその忠誠が疑われるのは、とてもつらいことです。天国から地獄とは、このこと。今度こそ、神などいるものか!と啖呵を切って、グレてしまいそうなものです。神に従って、正しい道を選んだのに、私は潔白なのに、と。しかしヨセフはむしろ、神を信じていたからこそ、ここでも自暴自棄にならずに済んだのでしょう。ヨセフがもし、人しか見ていなかったら、ポティファルに望みを置いていただけだったとしたら、耐えられなかったでしょう。しかしヨセフは、背後に神を見ていました。神には誤解はありません。

すべてをご存じです。この神のゆえに、目の前の人にも、また人が見ていない所でも、真実を尽くすのです。なのでたとえ、人は誤解し、こちらの真実を疑うことがあっても、―もちろんそれはつらいことではありますがーしかし神が最後の拠り所なので、支えられるのでしょう。人を絶対化すると、失望します。絶対の信頼を寄せられるのは、神お一人です。この神は、最後まで信じ通すものを、決して失望させることはありません。この、神に基礎を置く世界観の確かさを確認しましょう。この時のヨセフも、最初は落胆し、混乱したでしょう。が、しばらくして落ち着いてみると、そこは地獄ではないと気づきました。なぜなら、そこにも主がともにおられたからです。神がおられるところ、そこはすでに地獄ではなくて神の国です。ヨセフはそこでも、最初は新入りですが、徐々に囚人の仲間内で信頼されるようになり、それが監獄の長の目に留まるようになって、ついにはすべての囚人の管理を任されるようになりました。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかったと、ここでも丸投げです。主が彼とともにおられたので、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったのです。

この監獄が、やがて、エジプト王パロに次ぐ座へと通じる地下道となっていたのです。そして世界中を、またヤコブや兄弟たちを、やがて来るききんから救うことになるのです。「主と共に歩む その楽しさよ」(新聖歌355番)ある人は次のように言っていました。「ヨセフという人物の生涯は、どん底に落ちながら、泥沼の中に蓮の花を咲かせる生涯なのです。」その通りです。それは主がともにおられたからです。そしてキリストを信じる者には、誰にでも、主はともにいてくださいます。だから、どこに行っても大丈夫。ヨセフのように、どこに落ちても、大丈夫。どれだけ落ちても大丈夫。そこにも神がともにおられるから。人の人生は、環境が決めるのでもなければ、自分の能力だけで決まるのでもない。人生を決定づけるのは、主がともにおられるということです。福島原発のまん前にあった教会の牧師が、しみじみと「主がご一緒なら、大丈夫」と仰っていたのを思い出します。あの3・11のとき、津波に追いかけられながら、神の臨在を感じたと言う人もいました。また、津波で家も車も通帳も全部流され、途方に暮れていた方々がたくさん、いました。

その牧師は、教会で希望者と近所の人たちといっしょに、米沢の方に行ったり、東京のキャンプ場に行ったり、流浪の旅をしました。今はいわき市に教会を新しく建てて、落ち着いていますが、あのとき、主がともにおられるのをひしひしと感じたそうです。もちろん、渦中にあっては、もう勘弁してください、と言いたくなるようなときもあり、もう一度、同じことを経験したいかと言われれば、嫌だと答えますが、でも主がともにおられて、必要を満たし、再び教会を建ててみなさんといっしょに礼拝できるようにしてくださったと。何もかにもはぎとられて、すぐ後ろに波が迫ってくるときに、最後の最後に拠り所となるのは、ともにおられる主ご自身です。このお方だけは、誰も、何物も私たちから奪い取ることができません。イザヤ 43:2(旧約p1194))あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。たとえ火の中、水の中、コロナの中…主がともにおられれば、何をか恐れん、です。日ごろから、主とともに歩むことを喜び、楽しみたいものです。そして人に期待しない。

ヨセフがポティファルに期待していたとしたら、失望に終わったように、人への期待は失望に至りますから。そうではなくて、主に望みを置く。そして主に従う方を選んで、なお状況が悪くなったと思っても、そこでも、悪くなったと思ったその場所で主とともに歩む。主とともに歩むことをあきらめない、やめない。人生は何が起きるか、わかりませんから、こんなところまで落ちては、もうだめだと思っても、そこにも主がともにおられます。そこで主とともに歩みましょう。置かれた所で、主とともに歩むということを、投げないで、続けていったその先に、どんな形でか、主が用意しておられる祝福が待っているでしょう。主とともに歩むために、具体的には、まず神を信じること。ヘブル 11:6 (新約p438)信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。そして私たちが、神に近づくことを可能にしてくださったのが、イエス・キリストです。私たちにご自身のいのちと引き換えに、罪の赦しを与えてくださったイエス・キリストを信じることも、同じく必要です。

そしてその信仰の火を絶やさないために、毎週の礼拝を捧げること、祈ること、聖書に親しむこと、そしてただ聖書を読むだけでなく、従うこと、行うことです。聖書の知識を、頭の中の中だけで終わらせず、できるところから、生活に形をとってあらわれるようにすることです。山あり谷あり、死の陰の谷あり。でも、どんなところででも、主とともに人生を歩むことができるとは、何と幸いなことでしょうか。インマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれる御子イエス・キリストの救いを改めて、心から感謝します。