
説教要旨(2021.3.14)神の時を待ち望む (創世記40:1-23)
神の時は人の思いと違う場合がある。神に信頼して、神の時を待ち望め。
1節「これらのことの後」とは、前回見た出来事を受けてのことです。ちなみにヨセフ28才頃と思われます(41:1,46)。ページにすると、ほんの2ページにも満たないですが、エジプトに連れられてきて10年以上の月日が経っていました。長い忍耐のときを過ごしていました。そこに、ある日、エジプト王パロの献酌官長と調理官長が、王に何か罪を犯したため、ヨセフのいる監獄に入れられてきました。「献酌官」は、文字通りには王に酌をする役ですが、これは毒見役で、ときには王の相談役になるとも言われます。側近中の側近です。調理官長も、王の口に入るものを作る人たちの責任者ですから、毒を盛るなど物騒なことが珍しくない古代においては、王の信頼を得ていた人物でしょう。彼らがどういう罪を犯したのか。ある人は、毒を盛ったのではないか、と言います。食べてすぐ死ぬ毒でなく、長い間、取り続けていくうちに、徐々に弱って、やがて死に至る毒。あるいはそれを防げなかったという「罪」だったのか。それが酒に入っていたのなら献酌官の罪、食べ物に入っていたら調理官庁の罪。それで調べが終わるまで二人とも監獄に入れられたのでしょうか。
3節に「侍従長の家に拘留した」とあるので、ポティファルの家の敷地に監獄があったのでしょう。この二人は、身分が高かったので、監獄でも付き人が与えられ、その付き人にポティファル自ら、ヨセフを抜擢しました。ポティファルも、落ち着いて考えてみれば、日ごろの妻の振る舞いとヨセフの振る舞いから、あれは妻の狂言だったか、と感づいたかもしれません。ともかく、超VIPに粗相があってはいけない、と思うと、こういうときに頼りになるヨセフに白羽の矢を立てたのでしょう。神のご計画は、寸分の狂いもなく、進められていきます。ある日のこと、この二人は同じ夜に夢を見ました。当時は、夢のお告げが信じられていて、夢を解き明かす夢占い師のような職業の人たちがいました。いつもなら、そこへ行って占ってもらうけれども、何しろここは監獄なので、それができない。それで夢が気になって仕方がない彼らは、イライラしていたのでした。翌朝、ヨセフは、すぐに彼らの様子がいつもと違うのに気づきました。自分自身、事実無根の濡れ衣で囚人とされながら、こういうことに気づくヨセフです。ヨセフは「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」
と彼らに促しました。ヨセフは、夢を解き明かす賜物が与えられていたのでしょう。献酌官長の夢は、目の前にぶどうの木があって、それには三本のつるがある。そして、まるでアニメーションの早回しのように、見る見る芽を出し、花が咲き、房が熟して、ぶどうがなった。ふと、自分の手を見ると、パロの杯があったので、目の前のぶどうを摘んで、杯にしぼって入れ、パロに捧げた。で、そのココロは、というと、三本のつるは三日をあらわす。そして三日のうちに、パロが呼び出して、もとの献酌官の地位に返り咲くということでした。良い知らせ、福音です。これを聞いた献酌官の顔は、パーっと明るくなったでしょう。ヨセフは、これは神が与えたチャンスと思ったのでしょう、すかさず、その時には私のことを思い出してください、私は何も悪いことをしていないのですから、ここから出られるように、パロに取り計らってください、とお願いしました。一つ、注意しておきたいのは、ヨセフはここで、兄たちのことにも、ポティファルの妻のことにも、触れていないことです。自分はヘブル人で、さらわれてエジプトに奴隷として売られたと言って、兄たちの罪を覆っています。誰かの悪口は一言も言っていません。
こんな、世を呪いたくなるような環境にありながら…。さて、二人のやり取りを横で聞いていた調理官長、何やら、夢の解き明かしがよかったので、少し似ている夢だし、それなら自分も、と口を開きました。彼の夢はこうです。自分の頭の上に、枝編みのかごが三つあった。確かに枝編みは同じ植物だし、三という数は同じ。そして一番上のかごには、パロのために調理官が作ったあらゆる食べ物が入っていた。これもパロに捧げるものが出てきて、さっきの夢と似ている。ところが、最後が違いました。鳥が自分の頭の上のかごから、それを食べてしまった、と。献酌官長は、ちゃんとパロの手に杯を捧げましたが、ここはその肝心なところがなく、本来、パロのために用意したものを鳥にとられてしまいました。ヨセフは彼に厳しいことを告げなければなりませんでした。三つのかごは、三日のこと。三日のうちにパロがあなたを呼び出し…、とここまでは献酌官長の時と同じですが、次に衝撃の言葉が続きました。「あなたを木につるし、鳥があなたの肉をむしり取って食うでしょう。」それにしても、ヨセフは、こういうことを面と向かって言ったのです。普通はなかなか、言えないでしょう。
人間的には、何もあんなにハッキリ言わなくても良かったのに、お茶を濁してあげるくらい、してあげればよかったのに、と思うかもしれません。しかし、この時、ヨセフが、神様から示されたことを、隠すことも、曲げることもせず、まっすぐに語ったために、彼の夢の解きあかしが、真に神からのものであることがあかしされ、やがて、パロの側近としてエジプト全土の上に立つこととなるのです。そしてそれが多くの人々の救いとなるのです。神から示されたことは、曲げたり隠したりせずに、そのまま伝えなければいけないのです。福音の真理も、曲げることなく語らなければいけません。使徒パウロは、笑われながら、死者の復活を宣べ伝えました(使徒17:32以下、新約p265)。イエス・キリストの十字架の贖い、悔い改め、罪の赦し、永遠のいのち、キリストの再臨、復活、神の愛、栄光の御国、等々、真理を恥じることなく、証しすることができますように。こうして運命の三日目が来ました。ヨセフが口から出任せ男か、それとも真に神によって語ったのか、明らかになります。三日目は、パロの誕生日でした。彼は盛大な祝宴を催し、そこで献酌官長と調理官長を呼び出し、家臣たちの前で判決を言い渡しました。
みせしめでしょう。結果はヨセフの言った通りでした。ここまで来たら、いよいよヨセフが釈放される時が来るか、と思う所です。ところが、40章の最後は、えっ、そんなのアリ?という言葉で終わります。23節「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」笑うに笑えない笑い話みたいな話です。献酌官長にすれば、奴隷一人のことなど、覚えていられないのでしょう。そんな状態が二年間、続きました(41:1)。ヨセフにしてみれば、今日か、明日かと、首を長くして待っていたでしょうに。いい加減、心が折れそうなものです。しかしヨセフは、なおもキレずに、神に希望置き続けて、日々の務めを果たしつつ、その時を待っていました。<真実なる主の手に ただ任せよ 汝が身を>新聖歌298番ヨセフが献酌官を神が与えてくれた助けと思って、パロへの口添えを頼んだことは、何も間違っていません。実際、彼は神が与えた助けでした。ただ神の時がまだだったのです。献酌官長は忘れても、神はヨセフのことを忘れていません。人間的には一日も早く、と思いますし、ヨセフもそう祈っていたでしょうが、ただ、神の時は二年先だったのです。
神のタイムテーブルは、おうおうにして人間のタイムテーブルと違います。そういうときに、時を決めるのは神であられることを改めて思わされます。主権者は神。時は神が決めておられます。伝道者の書3章1‐11節(旧約p1104)は有名な聖句です。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」から始まり、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」「嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。」「愛するのに時があり、憎むのに時がある。」そして11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。…」スピードと快適さを求められる時代に生きる現代人は「待つ」ことが苦手と言われます。しかし神の時計を私たちに合わせて早めることはできません。どんなにジタバタしても、怒っても、泣いても、私たちが神の時を待ち望むしかないのです。そして、それが最善なのです。そこには信仰と忍耐がいります。彼は試されました。詩篇105:18-19(旧約p1012)105:18 彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った。
105:19 彼のことばがそのとおりになる時まで、【主】のことばは彼をためした。four days late「4日遅れ」という歌があります。ヨハネの福音書11章(新約p200)で、ラザロという人をイエス様が生き返らせたことを題材にした歌です。ラザロが死にそうなとき、姉妹のマルタとマリヤは、癒して頂くためにイエス様に来てくださいと使いを出しました。ところがイエス様はすぐには行かず、しばらくしてから行きました。しかしその時、すでにラザロは死んで4日経っていました。イエス様はラザロが葬られた墓(洞窟のようなところ)に入ろうとしたとき、マルタはもう4日も経っていますから、臭くなっているでしょう、と言いました。それに対してイエス様は仰いました。ヨハネ11:40(新約p202)イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」人の目には4日遅れに見えても、神のjust on time「ちょうどぴったりのとき」に来られるという歌です。「キリスト教における『待ち望む』ことは神の栄光と共にある」とは、あるブログにあった言葉です。
人間にとっては時間は絶対ですが、神にとってはそうではない。神の時が来たら、神の栄光を見るのです。もし信じるなら、です。信じましょう。私たちは、ただ漠然と待つのでなく、神の約束、御言葉に基づいて、待ち望みます。根底には、神が約束を与えた以上、神が必ずそれを実現されるという神への信頼があります。前回も触れましたが、ここでも、もしヨセフが人を見ていただけだったらー献酌官に望みを置いていただけだったとしたらー絶望し、怒りが込み上げたかもしれません。確かに、1週間経ち、2週間経ち、1か月、2か月と経つにつれて、落胆はしたとは思いますが、しかし、そこで気持ちが折れてしまわなかった。彼が、神に望みを置いていたので、怒りに支配されてしまうこともなく、絶望することもなく、前を向いていることができたのでしょう。「上を向いて歩こう」という歌にならえば「天を見上げて歩こう」です。どんなときにも。ここでも神に基礎を置く世界観の確かさというものを確認しておきましょう。彼のような状況で信仰が微動だにしないというのは、奇跡です。彼の心が超自然的に守られていたとしか、思えません。
ただ、ひとつには、神が与えていた例の夢の力が支えになっていたということはあったでしょう。今日に適用すると御言葉の力です。何か特定の状況の中で、その時に必要な、支えとなる御言葉を与えられることは幸いです。クリスチャンの中にはleading verse、座右の銘というのでしょうか、人生を導く聖句を持っている人がいます。あるいは特別なときに、支えとなる御言葉を与えられることもあるでしょう。日々のデボーション、または礼拝を通して、あるいは本などを通して、あるいは、全く関係ない時にフッと心に与えられることもあるかもしれません。御霊が与えてくれた御言葉を心に留めておくことです。また、そのような御言葉を求めることです。求めなさい、そうすれば与えられます、とある通り(マタイ7:7-11、新約p11)、聖霊が、求める者に御言葉を与えてくださるでしょう。たとえば、箴言 23:18(旧約p1088)確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。最後にクリスチャンはみな、待ち望む者です。キリストが雲に乗って来られて、悲惨の渦巻く今の世を終わらせ、神の義と平和が支配する栄光の御国が来るのを。
それは遅れているのではなく、神の時がまだなだけ。待ち望みましょう!第二ペテロ3:9,13、新約p4633:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。