
信仰生活の基本原則は、きよい良心をもって神に従うこと。そのためには、罪を示されたら、主に告白して、赦しを得ること。
1節「そのころのことであった。ユダは兄弟たちから離れて下って行き、・・・」そのころとは、前の章を受けて、ヨセフを兄弟たちが商人に売り渡した後のこと。ユダ25歳前後と推測されます。重苦しい雰囲気のヤコブの家にはいたくなかったのでしょうか。抜け殻のような老父ヤコブの姿は見ている方もつらかったでしょう。兄弟たちの間でも、お互いに責め合うこともあったでしょうか。ユダはつくづく嫌になって、離れたのでしょう。しかしそれは危ないこと。欠けはあっても、同じ信仰をともにしている兄弟姉妹がいるなら、その交わりから離れるのは危険です。この後見るように、ユダは目も当てられない大失態を演じ、それこそ末代までの恥を聖書に残すことになってしまいます。兄弟たちの交わりからスーッと離れていったユダは、アドラムなる所に居を構えました。ヤコブの住んでいたヘブロンから北西に約13キロの低地にある小さな町です。そこでユダは、ウマの会う友人を見つけ、意気投合しました。アドラム人ヒラという人は12節では友人と呼ばれ、またこのあとも何くれとなく、ユダの気の置けない友人ぶりを発揮します。
親兄弟から離れて、気の合う友人と羽を伸ばして、嫌なことを忘れたいユダは、すっかりそこに根を下ろします。結婚し、家庭を築いて、子供も次々と3人恵まれました。月日は矢のように過ぎて、おそらく長子エルが20才前と推測されますが、タマルという妻を迎えました。タマルはなつめやしの木の意。表面上はうまく行っているように見えましたが、内側はもはや手の施しようがないほど、腐敗が進行していました。7節「しかしユダの長子エルは【主】を怒らせていたので、【主】は彼を殺した。」「怒らせていた」は意訳し過ぎで、原語は「主の目に悪(または悪い者)だった」です。口語訳、新改訳2017はそう訳しています。彼が、具体的にどんな悪だったのかは、わかりませんが、憐れみ深い主が厳しく裁かざるを得ない悪だったのでしょう。子がないまま長男エルが取り去られたので、ユダは次男のオナンというのに、兄嫁のところに入って兄のための子孫を残すよう指示します。これは逆縁婚、レビラート婚などと呼ばれて、広く世界各地で見られる風習です。こうして生まれた子は、兄の跡継ぎとされます。それで、兄の家系を途絶えさせないようにするという制度です。
ところが、次男オナンは、自分の相続分が減るからか、そうしなかった。同じ血を分けた兄弟でありながら、助けようという気持ちもなく、兄の名誉のために義務を果たそうとしないオナンはこれまた、その悪のゆえに、主に裁かれました(10節も「主の目に悪、悪い者だった」が直訳)。さて、二人の息子を続けざまに失ったユダは、二人とも、タマルと結婚してまもなく、なくなったからでしょう、何か、タマルが呪われた女性ででもあるかのように思ったのでした。それで三男シェラが成人するまで、実家に帰って、待っていなさいと命じました。とんだ濡れ衣です。本当は自分の息子達の罪ゆえだったのに。本当はタマルは被害者です。タマルのようなことが起こると、まるで自分が悪いかのように感じてしまう人もいるかもしれませんが、ここに書いてあるように、まったくそうでないこともあるのです。悔い改めるべき罪に心当たりがないなら、気にしないことです。タマルは、ユダの言葉を信じて、実家に帰っておとなしく待っていました。村の若い男の所に遊び歩くこともなく、やもめの服を着て身を慎んでいました。ところが、シェラが成人しても、一向に音沙汰がない。
そこで、ユダにはその気がないと見るや、タマルの逆襲となります。こんな状態に放っておかれて、タマルか!と一計を案じて反撃に出ました。それは先ほど読んだ通りのことです。前14―13世紀のヒッタイトの法律文書には、夫が死んだ場合は、夫の兄弟が、夫の兄弟が死んだ場合は夫の父が代りに夫になる、という規定があるそうです。タマルは当時の流儀に従ったのでしょう。羊の毛を刈るというのは、農業で言えば収穫のようなもので、その大仕事を終えたあとは、お決まりの飲めや歌えやがあったようです。ユダもユダんしたか。ことは、タマルの計画通りに運びました。ひもつきの印形(はんこ、茶筒ような円筒形)、杖(持ち主がわかるように彫り物がしてある)をユダから手に入れて、タマルはまた家に戻って身を潜めます。3か月ほどして、ユダの所に聞き捨てならぬ知らせが入ります。24節「約三か月して、ユダに、『あなたの嫁のタマルが売春をし、そのうえ、お聞きください、その売春によってみごもっているのです』と告げる者があった。そこでユダは言った。
『あの女を引き出して、焼き殺せ。』」何年も音信不通にしていたとは言え、法律上はユダ家の嫁であるタマルが、そのようなことをしたとあっては、ユダ家の恥。単に殺せでなく、「焼き殺せ」と言っているところに、怒りの激しさがあらわれています。ところが、タマルのお腹の子の父親は、これらの品々の持ち主です、と告げられて、例のひもつき印形と杖を見たユダは、愕然としました。動かぬ証拠とはこのこと。印形まであっては、知らぬ存ぜぬとシラを切ることもできない。何しろ印形とは、本人であることを証するものなのですから、調べればすぐにわかります。追い詰められて、どう出るか。逆ギレしてちゃぶ台返しするか。しかし、ユダは本当の意味で聖なる人でした。26節「ユダはこれを見定めて言った。『あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。』」これがユダという人の本当の姿なのでしょう。見苦しい弁解や逆ギレすることなく、自分の罪を認めました。正しい良心というものを持ち合わせていたのです。神の尊い恵みです。ユダは、タマルのお腹の中にいるのは自分の子であると認め、タマルともども引き取りました。これがユダの悔い改めの実ということになるでしょう。
この時を境に、ユダは再び神に立ち返ったのではないかと思われます。神はすべて正しく裁かれる、と身に染みてわかって。そして、ユダは兄弟たちのいるヘブロンに再び帰ったのかもしれません(42:1,3)。ユダは、神を礼拝する家族が集まって生活することの大切さが、わかったのではないでしょうか。後に43章44章で再び姿を現すときには、ユダは見事に造り変えられています。そして最後27節以下には、その、ユダの悔い改めをあかしする、タマルの生んだ子たちが記されます。うち、一人が、イエス・キリストの系図に名を記されることになります。29節の「ペレツ」は、マタイ伝の冒頭にあるイエス・キリストの系図に出てきます。そこではパレスとギリシャ語風になっていますが、「ユダに、タマルによってパレスが生まれ、」とあります。神の御子キリストは、ピカピカの自慢したくなるような系図でなく、こんなドロドロした罪びとの、恥ずかしい系図の中に、厭わず、降りて来てくださった。罪びとを救うために世に来られる救い主の系図ですから、そういう意味ではふさわしいことといえるのかもしれません。そして、ここにこそ、真の神の栄光があらわれているのを見る目というものを持ち合わせたいものです。
「妙にも尊き 神の愛よ 底いも知られぬ 人の罪よ」(新聖歌230)26節「あの女は、私よりも正しい。」これはなかなか言えない言葉ではないでしょうか。古代社会において、父の権威が強かったことを考えると、なおさらです。これは、聖霊の御業のように思われます。これは、嫁に対して負けを認めることになる、などと勝ち負けの問題ではなく、良心の問題だからです。神は良心を非常に大切にしておられます。そのことをまず心に刻みましょう。使徒パウロの言葉からいくつか。使徒 23:1(新約、p276)パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」またⅡテモテ 1:3 (新約、p413)私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。また、これは目標の一つであるとも言っています。Ⅰテモテ 1:5 (新約、p406)この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。逆に、良心を捨てることは、信仰の破船です。Ⅰテモテ 1:19(新約、p407)
ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。良心と信仰は結び付いているのです。なぜならキリストの血潮は私たちの良心をきよめてくれるものだからです。ヘブル 9:14(新約、p434)まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。またヘブル 10:22(新約、p436)・・・私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。洗礼(バプテスマ)も良心と結びついています。Ⅰペテ 3:21 (新約、p456)・・・バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。罪びとである私たちが、きよい良心をもって生活することを可能にしてくれたのが、イエス・キリストです。キリストは、私たちの罪のための身代わりとして十字架上で刑罰を受けてくださいました。
ただし、その赦しを自分のものとするには、天におられる大祭司イエス・キリストの前に自分の罪を認め、告白しなければいけません。気付かない罪は別として、示された罪については、良心を欺きながら、罪の赦しを受けることはできません。神は、欺きのない霊を尊ばれ、赦しを与えます。詩篇32:2(旧約、p934)幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。「罪を全くおかさない人」でなく「その霊に欺きのない人」が、幸いなんですね。そういう人は、罪がないんじゃなくて、主がその咎をお認めにならない。罪を犯さない人はいません。それを認めるか認めないか、良心を欺くか欺かないかが大切なのです。自分に罪があるのに、罪を認めず、誰のせい、誰が悪い、私は悪くない、と言い張るのは、自分を偽っています。第一ヨハネ1:8(新約、p465)もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。また罪を告白せずにいることは、苦しいことです。詩32:3-4(旧約、p934)私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。しかしそれを告白するなら、神は赦しを与えます。詩32:5(旧約、p934)私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。使徒ヨハネもそのことをあかしします。第一ヨハネ1:9(新約、p465)もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。罪を認めるのはつらいことですが、口先だけのきれいな言葉を並べても、神の目には何の価値もありません。神の目に尊いのは、心からの罪の告白です。詩篇51:17(旧約、p955)神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。最後に、罪の告白は神に対してなされれば、それで十分です。しかし誰かに聞いてもらうことで、心の荷が軽くなるという面もあります。
カトリックの「告解」のように、そうしないと赦されないという意味ではなく、心が解放されるという効果において、意味のあることのように思われます。信頼のおける人に、あるいは牧師に(牧師は職務上、守秘義務を負っています)話を聞いてもらうというのも有益なことです。ヤコブ 5:16(新約、p451)ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。