礼拝説教要旨 2020年10月18日
だまされたヤコブ
(創世記 29:21~30)
今日の要点

神様が、愛であり義なる方であられることを、心に刻む

今日のあらすじ

20節をお読みします。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」叔父ラバンの家に遠路はるばる、ようやくたどり着き、そこでラバンの娘ラケルに一目惚れしたヤコブ。やがて彼は、7年間の労働を花嫁料として、ラケルをお嫁さんにもらうという約束を、叔父ラバンとしました。7年の歳月も、ラケルを愛していたヤコブには、ほんの数日のように思われた。そこまで前回見ました。さて、7年が過ぎました。ヤコブが、期間が満了しましたから、約束のラケルさんを…と申し出ると、ラバンも「よし、ではご近所の人たちを集めて、盛大にお祝いしよう」と婚礼の用意を整えました。そして、いよいよ待ちに待った婚礼の日です。隣には、いとしいラケルが座って、人々からお祝いの言葉をかけられ、ごちそうを食べたり、ぶどう酒を飲んだりもしたでしょうか。ラバンもヤコブに「さあ、今日はめでたい婚礼の日だ。ドンドン飲みなさい」と勧めたに違いありません。祝宴は夕方まで続き、天にも舞い上がらんばかりのヤコブだったでしょう。ところが、です。ここで舞台は暗転します。何と、腹黒ラバンはあっと驚く罠を仕掛けていました。

夕方になって、花婿と花嫁さんが自分たちの幕屋に引き上げるときに、ラバンは隙を見て、夜陰に乗じて、ヤコブのお目当てのラケルではなくて、姉のレアの方をヤコブの幕屋に入らせた、というのです。23節「夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところに入った。」いくら酔っていたとはいえ、また当時はあかりもなくて、真っ暗だったかもしれないとはいえ、いくら何でも、気がつかないということがあるのかなあ…と思います。こんなことは滅多にない。それこそ、レアケースでしょう。朝になって、いとしいラケルの顔を見ようとしたヤコブは、そこにいるのがレアだと知って、ビックリ仰天。飛び上がって驚いたでしょうか。25節「朝になって、見ると、それはレアであった。」当然、ラケルと思い込んでいた相手は、朝、起きてみると、姉のレアだった。「アレ、レアだ」などとダジャレを言っている場合ではありません。ヤコブは、ラバンに猛抗議しました。「おじさん、あなたは、何ということをなさったのですか。私が7年間も、あなたに仕えたのは、妹のラケルのためではなかったですか。なぜ、私をだましたのですか。」。

さしものおとなしいヤコブも、烈火のごとく怒ったでしょう。しかし古狸ラバンは、涼しい顔で返すのです。「いやいや、前もっておまえさんに言ってなかったかな。いや、あんたのところはどうか知らんが、こちらでは長女より先に下の娘を嫁に出すと言うことは、しないことになっておるのじゃよ。だから下の娘ラケルをあげると言うことは、もしその時までに上の娘が嫁に行ってなかったら、まずこちらをあげて、それから下のラケルをやると言うことなんじゃ。」とかなんとか言ったのでしょうか。それから「約束だからラケルもやるけれども、そのかわり…」ともう7年間、働くという条件をつけたのでした。ヤコブは愛するラケルのためには、その条件を飲むしかありませんでした。せっかくの一世一代の喜びの日であるはずが、とんでもない苦々しい日となってしまいました。27節に「この婚礼の週を過ごしなさい」とありますが、向こうでは一週間、祝宴を催すことになっていたようなのですが、残りの六日間、ヤコブはどんな気持ちで過ごしたのでしょうか。

ところで、この展開はよく考えてみると、以前27章で見たように、今回、ヤコブがやられたこと、そっくりそのままを、実はヤコブ自身が、父イサクと兄エサウに対してやっていました。目が弱って見えないイサクの前に、自分が兄のエサウです、とエサウに成り済まして、父をだました。目の見えないイサクは、目の前の人物が兄エサウだと思って祝福した。それと同じように、ヤコブもまた、暗闇の中で、相手の顔を見ることができないまま、目の前の人物をラケルだと思って実はレアといっしょになっていた。もっと遡ると、ヤコブは、兄エサウがお腹をすかせて狩りから帰ってきたのを利用して、長子の権利を奪いましたが、今、ラバンは、ヤコブがラケルを愛しているというその恋心を利用して、だましたのでした。ラバンとヤコブは、似た者同士。考える事が同じなのです。かつて、ヤコブ自身が兄エサウに対して、父イサクに対してしたことを、そのまま、自分が今、身に受けているのです。忘れた頃に返ってきたブーメランでした。我が身をつねって人の痛みを知れ、です。もちろん、だからといってラバンの行為は正当化されません。彼は彼で、裁かれるべき罪を犯したのです。

まあラバンにすれば、レアの行く末を思っての親心からと言いますか、レアのことをヤコブに任せられれば、自分も安心してあの世に行ける、と思ったのかもしれませんが、当時のことですから、それはそれで理解できなくもありませんが、だからと言って、人をだまして良いということには、やっぱり、ならないでしょう。ともかく、それはそれとして、ヤコブにとっては、この経験は、神様から与えられた懲らしめと理解するべきものでしょう。情けは人のためならず、という諺がありますが、人に施した情けが、回り回ってやがて自分のためになるということがあれば、また逆に、人になした悪も、回り回って自分に帰ってきて同じ目に会うと言うことも、あるのかもしれません。

聖書的な因果応報:妥協なき愛と義の調和

今日読んだところには、神とか主という言葉が一つも出てきませんが、ここに記された出来事を思い巡らすときに、すべてを狂いなく、確かな摂理のうちに導いておられる、目に見えない御方の存在、というものをまざまざと思わされます。以前、因果応報ということを学びました。原因があって、結果がある。それぞれに応じた報いがある、ということ。善因善果、悪因悪果。良い原因には、良い結果。悪い原因には、悪い結果。それは、神様の義をあらわす正義の原理でもあります。もちろん、世の中はそれほど単純ではなくて、旧約聖書に出て来る義人ヨブのような例もあるのですが、ただ、ヨブの例をあまり気安く一般化するのも、どうなのでしょう。何でもかんでも、自分は悪くないのに、、、自分はヨブだと言うのでなく、へりくだって、自分の胸に手を当てて考えてみたら、それも神様からの懲らしめだったのかもしれない、ということも、あるのかもしれません。以下、聖書的な因果応報の理解について、3つのことを学んでおきたいと思います。

ヤコブは、自分がしたとおりのことを、自分もされました。それは、紛れもなく神様が許されたのです。主は、ヤコブがだまされないようにとは、守られませんでした。蒔いた種を刈り取らせました。もちろん、救いは揺るぎません。神様の約束は変わりません。主は彼とともにおられ、必ず故郷に帰らせてくださる。御国を受け継がせてくださいます。ただ、自分の罪が、どんなものだったか、知らされ、悔い改めの実を結ぶことが必要なのです。父なる神様が義なる方ですから、その子たる私たちも天の父に似た者に造り変えられるのです。そしてそれは、祈祷院かどこかにこもって、ただひたすら祈る中でなされることでなく、こういう実生活の歩みの中で、しばしば痛い思いをしたりして、学ばされ、なされるのです。でも、誤解されませんように。悔い改める心のある人には、それは確かに恵みなのです。その後に結ぶ悔い改めの実は、受けた苦しみを補って余りある慰め、恵みをもたらすでしょう。ヘブル書12:10-11(新約p441)12:10・・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。一つ、覚えておきたいことは、私たちが神様から懲らしめを受けて、砕かれて、悔い改めの実を結ぼうと努力するとき、主はそれを、ただ遠くで眺めてはおられない。私たちが、悔い改めの実を結ぶのを手伝けしてくださるということです。悔い改めて、主の御心に従おうと歩み出すとき、神様が、それこそすべてを働かせて、後押ししてくださるのを、感じることができるでしょう。砕かれて、悔い改めの実を結ぼうとする者を、主は放っておきません。必ず祝福されます。子どもが、何か悪いことをしてしまって、悪かったと思って、一生懸命、改めようとしているのを見たら、親なら誰だって励まさずには、いられないでしょう。ましてや、神様です。イエス様は、罪人を招いて悔い改めさせるために、来られた方です(ルカ5:32、新約p118)。一般的な因果応報のイメージは、こういうときに、「これも自分がしたことの報いだから、仕方がない」と運命論的に、うなだれる方向に行きがちかもしれませんが、聖書的な因果応報はそうではありません。

希望があるのです。私たちが悔い改めの実を結ぶのを、主が手助けしてくださり、後押ししてくださり、応援してくださる。悔い改めの向こうには、希望があるのです。他方、懲らしめに対して悔い改める事をせず、周りのせいにすることに終始したり、恨みがましいことを募らせるばかりのところには、祝福は訪れません。もしかしたら、さらなる鞭が加えられるかもしれません。本当に砕かれるまで。主は、弱った葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すことのないお方ですが、高ぶる者、頑なな者には、立ち向かわれる方です。

因果応報の原理には、神の正義・裁きという面があります。イサクのことを考えてみましょう。イサクは、ヤコブに欺かれましたが、ヤコブを恨みませんでした。自分が、神様の御心に従わず、自分の肉の思いを優先させてしまったことを悔い改めました。当然と言えば、当然そうあるべきなのですが、普通はそうはいきません。「親をだますとは、何事だ!意地でも祝福してやるものか!」となりかねません。そこを、さすがはイサクで、自分が御心に従わなかったことを悔い改めて、ヤコブを祝福しました。わが子とはいえ、自分を欺いたヤコブを祝福したのです。いかにも柔和の人イサクらしいことで、こういうところが、何とも言えない魅力です。イサクの人柄、イサクの信仰はいぶし銀のように光ります。ルカ6:28(新約 p120)あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。なかなかできないことです。イサク自身はヤコブのことを、わが子でもあり、赦していたでしょうが、神様がちゃんと懲らしめを与えられました。因果応報は、正しい裁きという面があるのです。神様はお裁きになります。

完全な裁きは、世の終わりに行われますが、この世においても、案外、部分的ではあっても、裁きは行われているのではないでしょうか。このことを知ると、少し、赦すと言うこと、あるいは裁きを主に委ねるということに、背中を後押ししてくれるのではないでしょうか(ローマ12:19、新約p309参照)。

最後に、因果応報という義の原理を貫くために、キリストは十字架にかかられました。私たちの罪は、何もせずに、いつのまにか蒸発して、消えたのではありません。罪は、たとえ自分が忘れても、神様の記録にはしっかり誤りなく書き記されていて、放っておいて消えるものではありません。何百年、何千年経とうとも、神様の義は一つの罪をも、うやむやにはしません。では、私たちの罪は、どうやって消えたのでしょうか。罪なき神の御子キリストが、代わりに私たちの受けるべき刑罰を受けてくださったからです。私たちが、神様に背を向けて積み上げてきた罪という原因に対する結果を、その報いを、キリストが代わりに受けてくださったからです。因果応報、神の義という原理が、なくなったのでも、無効になったのでもありません。キリストが、受けてくださったからです。ローマ3:25-26(新約p293-294)3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。なぜ、キリストは、十字架にかからなければならなかったのか。ただ私たちを赦す、と一言、仰るだけでは、だめなのか。それは神が義なる方だから。義を揺るがせにすることは、世界を治める方にふさわしくないことです。義が揺らいだら、悪がのさばり、力が強い者が勝つという世界。無法地帯です。義の実現なしに平和はありません。それゆえ、来たるべき新天新地も「正義の住む新しい天と新しい地」と呼ばれています(第二ペテロ3:13、新約p463)キリストの十字架は、私たちを一人たりとも絶対に失わないという神さまの愛のあらわれであると同時に、神様が絶対に悪をうやむやにはなさらないという、神様が義であられることのあらわれでもあるのです。決して妥協することのない神様の愛と義のあらわれが、イエス・キリストの十字架なのです。このキリストの十字架の聖なる美、麗しさを思いましょう。