
いつも慈しみ深いまなざしを注ぎ続けておられる主の愛に気づく。
30節「・・・ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。」前回見ましたように、叔父ラバンにだまされて、本当は妹ラケルの方を愛していたのに、そのラケルをいわば餌にして、姉のレアを抱き合わせで押し付けられた格好のヤコブ。不本意ながら、二人の妻をめとることになってしまいました。当時は、一夫多妻は当たり前のことだったようで、それでラバンもそれほど深刻には考えずに、「一人も二人も同じようなもの」と思って、レアに対する親心から、そんなことをやってしまったのかもしれません。しかし、きよい倫理観をもっていたアブラハム、イサク、ヤコブの家系は、自ら好き好んで一夫多妻の悪習に染まることはなかったと思われます。本当はラケル一人でいい。ラケル一人がいい。ヤコブはそんな思いだったでしょう。しかし結婚した以上、レアも妻として接しなければいけない。ラバンの手前もあったかもしれませんが、ヤコブ自身、レアのことを積極的に憎いとは思っていなかったと思われます。31節に「レアがきらわれているのを」とありますが、聖書では、誰かと比べてより少なく愛するということを表すのに「憎む」と訳される言葉を使います。
実際に、いわゆる憎んでいるわけではなくて、ただほかの人と比べてより少なく愛するという意味で使われるのです。(参照 ルカ14:26、新約p145)聖書独特の用法です。ともかく、ヤコブは、レアを積極的に憎んでいるわけではないものの、ラケルが本命だったので、どうしても態度はそっけなくなったでしょう。ラケルといる時間のほうがずっと長く、レアはいつも蚊帳の外でしょうか。不憫なレア。かわいそうなレア。誰しも、そう思うでしょう。主なる神様も、そう思われました。31節「【主】はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。」人間的には、不遇。薄幸の女性。しかし主は、そういう人を心に留められます。主は彼女を顧みて、ヤコブの子を与えられたのでした。32節「レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、『【主】が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう』と言ったからである。」ヤコブにとって初めての我が子。第一子・長男は、レアの胎から生まれました。ヤコブも、おおいに喜んだことでしょう。「ルベン」とは、「見よ、わが息子を」という意味です。
レアは「私の勝ちよ、ラケル」と心の中で言ったかどうか…。レアは、「主が私の悩みをご覧になった」と言いました。レアは、主に祈っていたのでしょう。主に、自分の心の嘆きを注ぎ出していたのでしょう。訴えていたのでしょう。サムエルの母ハンナも、心の嘆きを主に注ぎ出して、主が顧みてくださいました。祈りを軽く見ては、いけません。嘆きがあったら、一人で抱え込んでいないで、主に聞いて頂くということを、ぜひ、して頂きたいと思います。神様という御方は、それこそ雲の上の方で天の御座にどっかりと座って下界の下々のことなどお構いなしという方ではないのです。くるしゅうない、よきにはからえ、などと言う馬鹿殿様ではない。広大な全宇宙を造られ、すべ治めておられる一方で、地上に這いつくばって生きている私達人間を、心を砕いて見つめておられます。おそらく私たちが思っている以上に身近に、私たちのことをご覧になっています。それこそ、レアには申し訳ないけれども、全宇宙、全世界から見たら、こんなくだらないことにも、御心を留めてくださる。
もちろん、レアにとっては大きなことですが、ただヤコブがレアにそっけないからと言って、地球がどうなるわけでもなければ、日本列島が沈没するわけでもない、ちっぽけなことです。ありふれたことでもあるでしょう。でも神様は、そんなくだらんことを…などと見過ごしにならない。心を焦がすようにしているレアを不憫に思わずにはいられずに、そこに御手を差し伸べてくださるのです。レアのような人々を格別に憐れんで、応援せずにはいられない御方なのです。「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」ではありませんが、神様はそれ以上に、悲しみの中にある者、不遇な運命に涙を呑んでいる者を格別に顧みてくださる御方です。「私達の主イエス・キリストの神は、慈愛の父、すべての慰めの神」(第二コリント1:7,新約p345)とある通りです。さて、レアとしては、自分がヤコブの長子、しかも男の子を産んだということで、期待に目を輝かせて-その弱々しい目を輝かせて(29:17)-ヤコブに見せたでしょう。「見てください、あなたの息子です。」と。これでヤコブの心を向けてもらえると、淡い期待を抱いて。
ところが、誇らしげに、期待たっぷりに我が子を差し出したレアの表情はやがて、また曇り、うなだれるのでした。ヤコブのレアに対する態度は、少しは変わったかもしれません。愛するまではいかないけれども、大事にはしたでしょう。子供可愛さに、レアのところにいる時間も増えたでしょう。しかしそれ以上ではなかった。まあ子供を産んだから愛するというものでもないだろう、そういうこととは関係なくヤコブは、ラケル自身を愛していたのだろう、と思いますが、レアとすれば切なさが増すというものでしょうか。主もまたそんなレアを再度、顧みて、二人目をお授けになりました。33節「彼女はまたみごもって、男の子を産み、『【主】は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった』と言って、その子をシメオンと名づけた。」「シメオン」は「聞く」の意です。ここでも「主が」と言っています。やはりレアは主に訴えていたのでしょう。私はヤコブに子を産んだのに、まだ嫌われています、と。その声を主が聞いてくださって、この子を授けてくださったと、祈りに対する応えとして受け止めたのでしょう。レアという女性は、よく祈る人だったのかもしれません。
さて、子供が二人になるとまた一段と手もかかります。ヤコブも、ラケルにばかりピッタリくっついているわけにはいかなくなり、レアの所にいる時間もさらに長くなったでしょうか。しかしそれでも、レアを愛するということには、なかなかならない。なれない。子供は可愛がってくれるが、自分のことは、、、と思うとまた、レアは切なかったでしょうか。そんなレアを見て、心を痛めつつでしょうか、主は3人目を授けてくださいました。34節「彼女はまたみごもって、男の子を産み、『今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから』と言った。それゆえ、その子はレビと呼ばれた。」「レビ」は結び付けるの意。三度目の正直。今度こそ、夫は私に結び付くだろうと、期待を抱くレア。けなげというか、痛々しいというか。あきらめきれないのか、はたまた妹に負けたくない、意地でも、ということなのか、レアはまだヤコブをあきらめませんでした。他方、こうなると自然、ヤコブもレアのところにいる時間が長くなり、今度はラケルが蚊帳の外、、、と思われもしたでしょうか。
ラケルも心穏やかでいられるはずもなく、実際、次の30章に入って早々に、ヤコブに向かってキレるのですが、ヤコブは、悲しいやら悔しいやらで八つ当たりしてくるラケルをなだめ、慰めるのに、一苦労といったところでしょうか。一夫多妻の弊害です。しかし、レビを産んで、3人もの男の子を生んで、ヤコブが愛してくれるのを期待したレアでしたが、それもむなしく終わりました。3度期待しては、3度落胆することになりました。もうこれ以上傷つきたくない。さすがに、レアも心境の変化があったようです。ヤコブを求めることはやめました。もうヤコブを振り向かせくださいと祈ることも、やめたでしょう。しかし主は4人目を与えられました。ヤコブとは関係なく、主は4人目を与えられました。そしてヤコブの心は、変えられませんでしたが、レア自身の心が変えられました。35節をご覧ください。「彼女はまたみごもって、男の子を産み、『今度は【主】をほめたたえよう』と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。それから彼女は子を産まなくなった。」「ユダ」とは「ほめたたえる」の意です。彼女の口から讃美が出たのです!ひたすらヤコブの方に向いていたレアの心は、今、主なる神様の方に向きました。
ヤコブが自分のほうをついに向いてくれたから、主をほめたたえると言うのではありません。自分の願いが叶ったから主をほめたたえると言うのではないのです。ヤコブが自分のほうを向こうと向くまいと、主はこれほど自分を顧みてくださり、祝福しておられる。私は、主に愛されている!だから、主をほめたたえる!というのでしょう。自分は、ヤコブの心がこっちに向くように、こっちに結びつくようにということしか、頭になかった。しかしその望みもこの数年ですっかり絶たれた。淡い期待も捨てざるを得なかった。しかしふと、気がついてみると、主なる神様はいつも自分のほうを向いてくれていたではないか。主なる神様の心は自分に結びついていたではないか。そうして自分を祝福してくださっていたではないか。そういうことに気づいたのではないでしょうか。レアは、それまでにも主に祈ってはいましたが、しかしそれは、ヤコブの心をこちらに向かせるためでした。レアの心は主なる神様のほうではなくてヤコブのほうを向いていました。ヤコブの心を求めて、主に祈っていたというだけでした。しかしここに来て、初めてレアの心そのものが主の方を向いたのです。
そしてレアの心が主のほうに向いた途端、あたかも、これで十分、というかのように、レアは以後、しばらく子供を生まなくなりました。
最初、神様はレアを憐れんで、彼女の胎を開いてくださいました。それはレアにとって喜ばしいことでした。しかしそれは、必ずしもレアの望み通りになったと言うことではありませんでした。レアが望んでいたものは、得られませんでした。神様の御心は別なところにあったのです。神様は、レアが望んでいたのとは別の、もっとすばらしい祝福を用意しておられたのです。神様はレアが自分でそのことに気づくようにと、忍耐強く、一歩一歩導いていかれました。そしてついに、「今度は主をほめたたえよう」という、印象的な信仰告白が彼女の口から生まれたのです。この御言葉によって、多くの人々が救われ、支えられてきたことでしょう。ある姉妹は、長年連れ添ったご主人から、根底から夫婦関係を否定するような、また奥さんを否定するような、ひどい言葉をかけられたそうです。長年、良く仕え、老後は神様を中心とした穏やかな生活をと夢を描いていた姉妹は、大きなショックを受けて、「ついにちゃんとした夫婦にはなれなかったんだなあ」と悲しく思われました。しかしその姉妹は、今日の箇所の35節「今度は主をほめたたえよう」の御言葉に支えられて「イエス様は、私を極みまで愛してくださっているんだ。
主をほめたたえる生涯を送ろう」と心を切り替え、決心されました。世の中には、同じように、この35節の御言葉を支えにしておられる方は、少なくないと思います。往々にして、人間的に不遇な状況の中から真剣な祈りというのは、生まれるものです。満たされて、真剣に祈ることを知らないまま一生を終えるのと、人間的には試練続きでも、その中から主への真剣な祈りをささげるに至った人と、果たして本当の幸せ、あるいは神様の目に価値ある人生は、どちらなのか、ということも考えさせられます。人間の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことなのですから。本当は、人間的な幸不幸に関係なく、神様に造られたすべての人が、神様の向けておられる熱い視線に気づいてほしいと、神様は願っておられるでしょう。そのために御子イエス・キリストを世に遣わして、私たちに対するご自身の真剣なご愛を明らかに示されました。(ヨハネ3:16、新約p177)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ここの「永遠のいのち」とは、単にいつまでも終わらないということだけではなくて、真に満ち足りた、豊かないのちという意味です。神様とともにいるいのちだからです。神様は、決して失望させることのない、本当の幸いを得るようにと私たちを招き、待っておられます。神様がずっと前から私たちに温かいまなざしを注いでおられ、私たちがご自身に立ち返るのを今か今かと首を長くして待っておられたことに気づいたとき、そこから主をほめたたえる賛美の人生へと変えられるでしょう。地上の旅路の最後を迎えるとき、最後は一人です。愛する人とも別れ、大事にしていたものも、どんな宝物も、置いていかなければいけません。慕っていたものは、すべて置いていかなければいけません。その時、その瞬間にも、変わることなく両手を広げて、微笑んで、私たちを迎えてくれるお方、私たちの救い主イエス・キリストに心を向け、祈り、主を賛美する歩みを、と願いたいと思います。