
主を愛することを求める
父イサクを欺き、兄エサウを出し抜いたために、家にいられなくなり、遠くメソポタミアの地にあるハランの町に住む母方の叔父ラバンの家に身を寄せることになったヤコブ。心細く、不安と恐れの旅でしたが、主なる神様の励ましと守りと導きーそれに赦しーによって、ヤコブは無事にラバンの家にたどり着き、迎え入れてもらえました。久しぶりにぐっすりと安眠することができ、目が覚めると近くには一目惚れしたラケルと毎日、顔を合わせて、食べるものにも困らず、ヤコブは元気を取り戻して、ハッピーな毎日を送っていたでしょうか。お世話になる以上、いくら親戚とはいえ、自分の食い扶持くらいは、と言う気持ちと、それにラケルといっしょにいられるという気持ちからか、ヤコブはかいがいしく働いたようです。実家にいた頃のヤコブは、兄エサウのように野原を走り回って狩りをするタイプではありませんが、おとなしい家畜の世話くらいはしていたのでしょう。ラケルと一緒にする家畜の世話は、まったく苦でなく、むしろ楽しく、うれしくて、毎日、朝が来るのが待ち遠しいほどだったでしょうか。そうこうして、あっという間に一ヶ月が過ぎました。
そのヤコブの働きぶりを見てか、あるいはもしかしたら二人の様子を見てか、腹に一物あるラバンはヤコブに「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってみなさい。」と水を向けてみました。おそらく身近でふたりの様子を見ているラバンには、ヤコブがラケルに首ったけな事は、手に取るようにわかっていて、そのヤコブの恋心を利用して、あっと言うような罠を仕掛けるのですが、それは次回見ることとして、何も知らずに、この頃は、まだ自分を大歓迎してくれた叔父ラバンを信じ切っていたヤコブは、嬉々として答えたのでした。「おじさん、金銀は要りません。私が最初に出会った下の娘さん、ラケルさんをお嫁にください。その代わり、花嫁料として7年間働きましょう。」即答したのでした。ところで、ラバンにはラケルの他に、姉のレアという名の娘もいました。17節に「レアの目は弱々しかった」とあるのは、視力が弱いということなのか、容貌に関することなのか、よくわかりません。対するラケルは容貌が美しかったとあります。羊飼いをするような活力もあり、生き生き、はつらつとした、健康的な魅力をたたえていたのでしょうか。
それに加えて、ヤコブにとっては、心細い旅の果てについに出会った叔父ラバンの娘は、それこそ救いの女神?のように写ったはずで、それも感動的な出会いだったでしょう。18節に「ヤコブはラケルを愛していた。」とある通り、ヤコブはラケルにゾッコンだったのです。それでヤコブはラバンに「ラケルさんをください」と申し出たわけですが、ラバンは最初から読んでいたでしょうから「そうか、わかった。わしとしても、娘をあかの他人にやるよりは、甥っ子のお前さんにあげるほうが良いというもんじゃ。私のところにとどまっていなさい」と二つ返事で快諾したのでした。内心、シメシメと笑いをかみ殺しながら。そうしてヤコブは、約束通り、ラケルのために7年間、一生懸命、仕えました。7年というとけっこう長いと感じると思うのですが、20節には「ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた」とあります。一読して、印象に残る一文です。ラケルを愛していたために、来る日も来る日も朝早く起きて夜遅くまで働きづくめでも、これもラケルを得るための労働と思えば、ラケルを得るための労苦と思えば苦にならないというのです。苦労より喜び・楽しみの方が大きいということでしょう。
好きなもの、ほしいものを買うために、朝早くから夜遅くまでアルバイトする若者。競技大会で優勝を目指して、日々、厳しい訓練を自分から進んで行う者。そういう人は、どんなに苦痛でもきつくても愚痴一つこぼしません。将来の喜び、希望の方が大きいからです。ヤコブもそうなのでした。それからもう一つ。ラケルとまだ結婚はしてないけれども、それでもラバンの家で、いっしょに暮らせているということも、あるでしょう。毎日、顔を合わせて、話をし、一緒に食事を取り、一緒に羊の世話をして、と。労働もデートのようなものであれば、毎日が天国・楽園で、時間が過ぎるのがあっという間なのもうなづけるでしょう。愛する二人にとっては、この世も天国のようなもの。愛あるところ、天国となるのです。もしかしたら、この頃が一番、幸せだったのかもしれません。
ここから思わされるのは、イエス様と私たちの関係は、どうだろうか?ということです。愛のあるところ、喜びがあり、楽しみがあります。普段の何気ない日常も、愛する主がともにおられれば、そこには喜びがあり、幸いがある。台所でも、車の中でも、主がともにおられ、主とともに語らうことができれば、そこは天国また楽園です。そしてまた、主を愛する愛があれば、苦もまた楽し。犠牲も喜びです。愛する方のために犠牲を払えることは、喜びです。ある人は、待望の赤ちゃんが与えられて、赤ちゃんは夜中に何度も起きて、その人も起こされるのですが「もっと起こしてほしいくらいだよ」と言っていました。なかなかこう言う人はいないと思いますが、それくらいかわいかったのでしょう。愛はこの世の生活を御国に変えるカギです。また、初代教会の使徒達は、福音を宣べ伝えたゆえに当局に捕まり、むち打たれてから釈放されたとき、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びました(使徒5:41)。ある人は次のように言っています。「愛のあるところ、労苦はむしろ愉快となり、長い時間も遠い空間もあってなきがごときものとなる。主を愛するものはこのことを知っている。
主を愛したパウロは『今の時の軽い患難は、私達のうちに働いて、計り知れない、重い永遠の栄光をもたらす』と計算し、『見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く』と算段しえた(第二コリント4:17-18、新約 p350)。時間の中に永遠を、労苦の中に甘美を、そのために神を愛せよ。」パウロの生涯は、苦難に次ぐ苦難でしたが(第二コリント11:23-28、新約p359参照)、それこそ「ほんの数日のように思われた」のでした。ひるがえって、もし、私たちの内に喜びがないとしたら、主を愛していないからかもしれません。絶えず祈ることができないのも、主を愛していないからかもしれません。愛しているなら、祈ることはむしろ、喜びとなるはずだからです。では、どうしたら、主を愛せるようになるのでしょうか。使徒パウロに聞いてみましょう。ガラテヤ2:20(新約 p366)これはよく暗唱聖句にもなっている御言葉です。暗記するように、トライしてみても良いかと思います。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。まず、自分自身の罪の性質・古い自分を、キリストとともに十字架につけてしまうこと。ここが、案外、忘れられていることが多いかもしれません。でもここが、けっこう大切なポイントです。「私はキリストとともに十字架につけられました。」キリストが十字架にかかられたとき、時空を越えて、自分もそこで、罪に対して、罪の性質に対してキリストと共に十字架につけられ、死んだのだと思いましょう。この古い罪の性質・古い自分を抱えたままでは、キリストを愛する愛にブレーキとなり、ストレスとなります。ブレーキとアクセルを一緒に踏んでるような状態ですから、前に進まないで、疲れるだけ。まず古い罪の自分をキリストとともに十字架につけることです。そしてキリストとともに新しいいのちに復活させて頂くのです。自分を、キリストとともに新しいいのちに復活した者、神様に対して新しく生きるようになった者だと思いましょう(参照ローマ6:4,8,10-11)。ですから、キリストとともに死に、キリストとともに生きるのです。
そのキリストが、私のうちに生きておられるのだと思いましょう。事実、キリストの御霊が私たちの内におられるのですから。そして、その私のうちにおられるキリストは、私を愛して、私のために十字架にかかってくださった神の御子なのだという信仰をもって、生きるのです。私を愛して、私のために十字架にかかってくださった神の御子が、私のうちに生きておられるのです。そのことを思い巡らしましょう。これは、一度だけすればいいことではなくて、何度でもすることです。私たちの内に残る罪の性質、自分でこれは間違っている、正しくないとわかっているのに、ムクムクと罪の性質―正しくない怒り、憎しみ、ねたみ、悪い思いなどーが頭をもたげてきたら、その都度すぐに、その罪の性質をもった古い自分を、キリストとともに十字架につけるのです。何度でも。そしてキリストとともに復活の新たないのちをもって神様に対して生きるのだと、自分に言い聞かせるのです。その繰り返しです。それを続けるなら、遅々とした歩みでも、同じ事を繰り返しているように見えても、私たちの霊性・霊の状態は、らせん階段のように少しずつ、上昇しているのです。成長しているのです。
キリストにあらわされている神さまの愛が少しずつ、心に染み渡っていくでしょう。中には、それはパウロの話、自分には関係ないと思われる方もおられるでしょうか。いいえ、そうではありません。神様を愛する事は人間の最も大切な戒めであるとイエス様は教えられました。マタイ22:35-40(新約 p46)22:35 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』22:38 これがたいせつな第一の戒めです。22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」神様は、私たちが全身全霊をもって、神様を愛することを求めておられます。それは、そのように神様を愛する事が、実は他の何物も与えることのできない深い喜びとなり、幸いとなり、魂を深く満たしてくれるからです。
なぜなら、人間は本来、神様と相思相愛の関係にある者として造られたからです。また、私たちが神様を愛する事が、隣人を愛する愛を生み出すのです。人は神に似せて神のかたちに造られているからです。誤解のないように。神様は天にふんぞり返って、上から目線で、下々の者どもよ、我が輩を何よりも愛せ、と命令しているのではありません。むしろ誰よりも身を低くされて、私たちを愛して、私たちにご自分のいのちをさえ注ぎだして、仕えてくださって、そのように仰っているのです。あるいはもし、上からだとするならば、それは十字架の上から、そのように呼びかけておられるのです。イエス様は、十字架の上に釘付けられなから「わたしを見なさい。これでもあなたは、わたしの愛に目をつぶるのですか。」と招いておられるのです。神様が私たちに、全身全霊を傾けて愛するようにと仰っておられるのは、神様ご自身がーあえて言いますがー全身全霊をもって私たちを愛しておられるからです。先に、愛する者のために払う犠牲は、喜びであると言いました。実は神の御子キリストご自身が、私たちに対してそうなのです。私たちを愛しておられるので、私たちのためにご自身を犠牲にすることも、喜びでした。
ヘブル12:2(新約p440)信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。私たちが、そのイエス様の喜びの対象なのです。罪によって、神様から断絶し、滅びるべき者だった私たちを、再び取り戻し、永遠にご自身と一緒にいさせるために、イエス様は喜んで、十字架を忍ばれたのです。十字架の苦しみよりも、私たちを取り戻し、私たちと永遠にいるようになる喜びの方が大きかったのです。私たちは、それほどまでに神様に、イエス様に、愛されているのです。この神さまの愛に気づくことが、幸いな信仰生活のカギです。もし、自分の心の内をかえりみて、神様を愛していない、イエス様に対する愛がない、と思ったら、まずは神様の前にその事実を認めて、悔い改める事です。私のうちには、神様を愛する愛がありません、と。そしてこれからは、神様を、イエス様を愛します、と決心することです。愛は、単なる感情ではありません。意志とも深くかかわるものです。感情がわかなくても、まず意志をもって、神様を愛することを選び取る。
それが、神様に対して、神様を愛しますという意思表示になります。聖霊の助けを頂いて、キリストの愛に囲まれた御国の生活を恵まれましょう。