礼拝説教要旨 2020年10月4日
主に導かれた旅
(創世記 29:1~14)
今日の要点

リスクがゼロではない世界を、ともにおられる主に信頼して、臆せず歩む

今日のあらすじ

父イサクを欺き、兄を出し抜いたために、家にいられなくなったヤコブ。親元を離れて、ただでさえ心細い上に、後ろめたさがそれに輪をかけて、すっかり不安になっていたヤコブ。心に責めがあると、不安がつきまとうものです。しかしそんなヤコブを、前の28章で見たように、ベテルで、主なる神様が夢と御言葉によって励ましてくださいました。「わたしは、大勢の御使いをあなたを守るために遣わしている。あなたは決してひとりぼっちではない。それどころか、わたし自身があなたとともにいる。わたしはあなたを決して捨てない。わたし自身が必ずあなたを無事に故郷に帰らせる。」そんな約束を頂いて、勇気百倍、まだ見ぬ叔父をたずねての旅を続けました。1節の「東の人々の国」とは、メソポタミア地方の国のことです。目指すハランはメソポタミアにありました。ヤコブは、故郷を出てだいたい20日くらいとは、聞いていたでしょうから、そろそろと思って、人と会うたびに尋ねていたのでしょうか。ここでも折よく、羊飼いたちがたむろしているところに出会いました。

当時の習慣として、砂やゴミが入らないように、また蒸発を防ぐためでしょうか、井戸には大きな石でフタをしてあって、群れが全部集まってからその石をどかして、効率よく、羊に水を飲ませることになっていました。日本では「湯水のように使う」などという言葉があるくらい、水の豊かな国ですが、向こうでは水は貴重です。今日でも油より水の方が貴重と言います。羊が全部そろうまで待つことになっていたという、その習慣のおかげで、ヤコブは彼らと会うことができたのかもしれません。めいめいが、さっさと自分の羊に水を飲ませて帰っていたら、会えなかったかもしれません。ヤコブは羊飼いたちに「どこの方ですか」と尋ねました。すると「ハランの者です」との答え。ハラン!待ち焦がれていた町の名!ついに着いた!ヤコブの目は輝いたでしょう。続けて身を乗り出して聞きました「あなたがたは、ナホルの子ラバンをご存じですか」すると彼らは「ああ、ラバンなら知っているよ。」と!これでこの人たちに聞けば、家までたどり着ける!私ならここで大喜びするところですが、ヤコブは慎重です。「あの人は元気ですか。」と尋ねました。確かに、母リベカが家を出て数十年。

ラバンおじさんは、健在なのかどうか、確かめたのでした。さすが慎重なヤコブ。ところが、彼らの答えは、さすがのヤコブも予想していなかったものでした。「元気です。ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています」ナントナント、ラバンの娘がちょうどそのとき、羊に水を飲ませに来たのでした。神様の摂理です。導きです。神様は、私たちの思いを超えた展開を用意してくださいます。感謝です。すると突然、今度はヤコブは、羊飼いたちを追い出しにかかります。人払いをしたかったのでしょうが、まだ羊を連れ帰る時間でもないから、水を飲ませて、どこかに草を食べさせに行ったらどうです、などと適当なことを言いました。しかし彼らには彼らのルールがあったため、そうは問屋が卸しません。そうこうしているうちに、当のラケルが来て、みなが見ている前で涙、涙の御対面となったのでした。9節にラケルは羊飼いだったとありますが、当時も女性の羊飼いは珍しかったようです。特にここのように、大きな石を動かすのは、女性には骨が折れることでしょう。そこでヤコブは、ここぞとばかりにいいところを見せようと、張り切りました。男というのは単純です。

ヤコブはすぐに井戸の口の上の石をどけて、彼女の羊の群れに水を飲ませたのでした。猛アピールするヤコブ。ヤコブも必死なのです。そして一息ついたところで、ヤコブはこれまで抑えてきた不安から解放されてか、またラケルに母リベカの面影を見たか、今まで抑えていたものが一気に噴き出しました。ヤコブは、ラケルに、これは親愛の情を示す挨拶ですが、口づけし、声をあげて大泣きしました。自己紹介するより先に、声をあげて泣いてしまったというのですから、いかに彼がこれまで心細さや不安の中、我慢に我慢に重ねてきたか、うかがわれます。確かに、ベテルでは神様から大いに励ましを受けました。そのおかげで、旅を続けることができました。しかしだからと言って、途中、ヤコブが何も心配も恐れもなかったかというと、そうではないでしょう。元々ヤコブは、「なるようになるさ」などと大の字に寝て、ガーガーいびきをかいていられるような豪傑ではありません。慎重で心配性なタイプです。これは良い悪いではなくて、性格ですから、そういうものなのです。ベテルからここまでの間にも、怖い目にあったかもしれません。水やパンが底をつきそうになったことがあったかもしれません。

そのたびにヤコブは必至で神様に祈ったでしょう。決して鼻歌交じりにスキップしながらハランに着いたのではなかった。だからこそ、ラケルを見た途端、張り詰めていたものが一気に噴き出して、大声で泣いたのでしょう。しかしそんな旅は、これで終わり。あっけにとられているラケルに、ヤコブはようやく、自分はラケルのいとこであり、リベカの息子であることを告げました。ラケルは、リベカが遠くアブラハムの息子イサクに嫁いだ話は聞いていたでしょうから、すぐさま家に走って帰り、父ラバンに告げると、あとはトントン拍子。ラバンからも歓迎されて、家に落ち着くことができました。久しぶりの御馳走に舌鼓を打ちながら、彼はここにきたいきさつを話したのでした。ちなみに、13節に、ヤコブが事の次第をすべて話したとありますが、注解書によっては、実際にはすべてを話したとは思えないとするものもあります。自分の都合の悪いことを正直に話したとは、思えないということなのでしょうが、他方、このあとの展開を見ると、本当に包み隠さず、話したのかもしれません。

何しろ、ヤコブはラバンのところに、ある程度、長期滞在しなければいけないわけですから、ほかにうまい理由は考え着くのは難しいのではないでしょうか。少なくとも、私の頭では思いつきません。それに、事の発端はリベカですから、ラバンにすれば妹をフォローしてやらなければ、という気持ちも働くだろう、という読みもヤコブにはあったのかもしれません。としたら、14節のラバンの言葉も、なんだか妙に実感がこもっていたのかもしれません。このラバンという人も狡猾で、このあと、ヤコブをだますことになります。そういう面で、似たり寄ったり。ラバンは、ヤコブの話を聞いて、自分と似ているなあ、と思って、「あなたは本当に私の骨肉だ。血のつながった親せきだ。」と思わず口から出たのかもしれません。ともかく、こうしてヤコブは彼のところに、無事、滞在させてもらうことができたのでした。心細い思いをしながらも、続けてきた旅は、途中、怖い思いをしたかもしれませんが、結果的には、神様のお約束通り、無事に目的地にたどりつくことができたのでした。

主に信頼し、お委ねして、恐れず歩む

さて、ヤコブの時代の旅は、現代よりもはるかに危険な旅でした。リスクのある旅でした。GO TOナントカみたいな、お気楽な旅ではありません。狼や獅子などの野獣、強盗。眠っている間に襲われたらひとたまりもありません。それに食料と水の確保…。(それに今と違って、予め電話一本入れておいて「今度、ヤコブが行くからよろしく」などとお願いしておくこともできない。行ってみないと、どうなってるかもわからない。心配しだしたら、キリがないわけで、そんなこんなで)途中、心細い思いをしながらも、結局、最後は「神様がああして約束してくださったんだから」と自分自身に言い聞かせては、気持ちを持ち直して、旅を続け、こうして無事に目的地にたどり着いたのでした。しかし、考えてみれば、現代のこの世の旅路も、リスクと無縁ではありません。特に今は、コロナに対して適切な対策をしながら、できるだけ通常の社会生活を送るという方向に世の中が進んでいます。コロナに対しては、人によって温度差がかなりあるようで、もともとあまり気にしていない方もいらっしゃる一方で、とても注意している方もおられるようです。お互いに相手を裁かないようにしましょう。誰もそんなことをしていないと思いますが。

いづれにせよ、社会全体としては、対策をした上で、ある程度リスクを取って、通勤、通学、買い物等、社会生活を営むという方針で動いているようです。また先日は、知らない間に自分の口座からお金が引き出されていたという犯罪もありました。大手の携帯会社が、考えられないような、セキュリティを無視した販売戦略をしていたということで、大きな被害をもたらしました。ニュース番組で専門家が、こういう犯罪に対するリスクをゼロにすることはできないと言っていました。ゼロにはできないけれども、もはや逆戻りはできない、最大限の対策をしながら、IT化というのでしょうか、インターネット回線を最大限に利用する方向に進んでいくしかないだろう、と。世の中の動きとしては、好むと好まざるとにかかわらず、その方向に動いていくのでしょう。便利さと危険、リスクは表裏一体という面があると思うのですが、世の中は便利な方へと流れていくのでしょう。こういうことは、挙げればきりがないのかもしれません。考えてみれば、神様から離れた世界においては、リスクがゼロということはないのかもしれません。覚えておられるでしょうか。

アダムが神様に不信の罪を犯して以来、地はいばらとあざみを生えさせるようになったとありました。トゲトゲの、人を傷つけるものが生じたんですね。世界の造り主に背を向けて、リスク・ゼロの天国のような生活など、ありえないのでしょう。では、私たちはあざみといばらの生えている世界で、どういう姿勢で生活すればいいのでしょうか。それは、主に信頼して、お委ねして、臆せず歩む、ということだと思います。聖書によると、まずリスクにのみ、目を奪われることを戒めているようです。伝道者の書11:4(旧約p1114)風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。イスラエルの種まきは、「鬼は外」のように種を豪快にばらまきます。なので風が強いと吹き飛ばされて、散ってしまいます。だから、風を警戒して、種をまかない。雲があると、雨が降るかもしれないからと言って、刈り入れをしない。実際にそういう人がいるかどうかは別にして、似たようなことをしてはいませんか、というのでしょう。風が全く吹かないことが保証されない限り、種をまかない。雲が一つもないときでないと、刈り入れをしない。リスクがゼロにならない限り、行動しない、なんてことはできないでしょう。

そうではなくて、ある程度のリスクは取って、やるべきことをやるというふうにしないと、収穫(生活の糧)は得られない、というのでしょう。それが神様から離れた世の姿なのでしょう。アメリカの方の話ですが、何かのことで、ご主人が奥さんに、そんな可能性は1%だ、100人に一人だというのに、そんなことを心配しているのか?と言ったところ、奥さんは、その1%の人にとっては100%なのよ!自分がその1%でないという保証はあるの?と逆襲?されたそうです。確かに保証はありません。天国では、完全にリスク・ゼロが実現するでしょう。しかし、この世にあっては、ある程度のリスクを取りながら、生活していかなければいけないのが、現実ではないでしょうか。程度の高い低いはありますが、今はそれがやや高い時期ではあるでしょう。しかしコロナが収まっても、また別のことが出てくるかもしれません。モグラたたきのように、あっちをおさえたかと思ったら、こっちから首を出してきて…と。物事を完全にコントロールすることは、人間にはできません。

むしろ逆に、もし、完全に物事をコントロールできて、リスクをゼロにしたいと思っているとしたら、それは神様抜きで、自分の手で完璧な安全を手にしたいということではないでしょうか。それは肉に過ぎない者に、可能なのでしょうか。ヤコブ書4:14(新約p450)「あなたがたには、あすのことはわからないのです。」とある通り、私たちには明日のことすら、わかりません。人間の知恵や知識、能力は極めて限られていることを認めましょう。神様から離れて、安心、安全はありません。すべてをご存じですべてを御手に治めておられる神ご自身が、ともにおられることだけが、平安を与えるのです。たとえ回りは危険に囲まれても。(詩篇91篇、旧約p998参照)そしてもう一つ、覚えておきたいことは、リスクを取って前に進んだ結果、たとえばコロナに感染したとか、結果としてそうなるかもしれません。できる対策をした上で、それでもなるときは、なるでしょう。それも、神様のお許しなしに起こったことではない、神様の御手の中にあってそうなったのだ、ということが、私たちにとって支えとなります。神様には、何か御計画、御心があるのでしょう。確かなのは、偶然とかたまたまではないということ。

そして、コロナにかかったらかかった中で、そこにも主はともにおられる。その中を、主とともに歩ませていただくということです。詩篇 23:4 (旧約p926)たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。…こういう二段構えで備えるのが、よいのではないかと思います。神様に信頼して、委ねて、リスクがあるんだけれども、すべてを支配しておられる神様におすがりして、臆せず、歩む。もし万一、恐れていた状況になったとしても、それも主の御手の中、主の導きの中にあることとわきまえて、その中を主とともに歩ませて頂く。それも含めて、主の御手にすべてをお委ねして、臆せず歩む。主が用意してくださっている地上の旅路のゴール、天の御国を仰ぎ見ながら。