「人の子の日」は必ず来る。しかし、すぐに来るわけでなく、その日をどれだけ心待ちしても、それで早まるわけではない。確かに信じて待つこと、それが弟子たちのなすべきことであった。神を信じているなら、永遠に思いを向けること、見えないものにこそ心を向けること、それがどれだけ大切であるか、主イエスは語っておられた。次に主は、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを、たとえを用いて教えようとされた。「人の子の日」を迎える者として、弟子たちには、どんな時が来ても祈り続ける、確かな信仰を期待しておられたからである。(1節)
彼は、自分の意に添う裁判だけを行っていたのであろう。やもめが訴えても、それを取り上げることなく、「しばらくは取り合わないでいた。」それに関わろうとせず、彼女のために裁きを下すのを、先送りする態度を取った。やもめの訴えの内容は触れられていない。けれども、彼女は、「私の相手をさばいて、私を守ってください」と求め続けた。それは裁判官に向かって、正しい裁き=正義=を求める切実な求めであり、正当な訴えであった。そして彼女は、決してひるまなかった。追い返されても、また追い返されても、彼女は訴え続けたのである。そうこうする間に、この裁判官は考えを変えることになった。
たとえを語った後、「主は言われた。『不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。・・・』」(6〜8節)「不正な」とは、必ずしも良し悪しのことではなく、この世の、神を恐れない者を指してのことである。神を知らない裁判官でさえ、失望せずに、訴え続けるやもめの求めに、確かに答えているではないか。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」そんなことは、絶対にあり得ない。必ず求めを聞き上げ、答えてくださる。それがあなたがたの信じている神である。だからどんな時も、失望せずに祈りなさいと。
そのように語られた時、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と、主イエスは、少々嘆きを含んだ言葉も発しておられた。「人の子の日」を迎えるまでに、まだまだ時間があること、そして、そこに至るまでの間には、やはり苦難があって、信仰がふるわれることを暗示された。悲しいことや苦しいこと、失望し落胆することがあり、争いもあり、神の裁きを待つのに疲れることがあると。それゆえに、その日に「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と、深刻な心配をされた。教えを聞いていた弟子たちの反応は、何も記されていない。「主よ。大丈夫です。心配ありません」と、誰かが答えたのだろうか。それとも、皆が沈黙してしまったのだろうか。
神を信じ、神が遣わして下さった救い主、イエス・キリストを信じて、どんな時も、またどんなことがあっても、失望せずに祈る者となって、地上の生涯を歩ませていただきたい。カギとなるのは、神がおられ、私たちの祈りを聞いておられることを、心から信じる信仰があるかないかである。もし信じるなら、その信仰の大小を憂えることなく、今ある信仰で祈り続けること、それが大事である。もっと大きな信仰とか、もっと強い信仰を求めることはいらない。私たち一人ひとりは、主イエスのとりなし、そして聖霊の導きのもとに、失望せずに祈る者として歩むことが、確かに導かれているからである。
