「祈り」、そして「信仰」を教えるために語られた最後に、主イエスは、少々嘆きを含む言葉を発しておられた。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(8節)その言葉は、弟子たちの心を揺さぶったに違いなかった。遠巻きに教えを聞いていた人々もいたであろう。主は、人々に自己吟味を迫っておられたのである。誰もが、自分の心の内を探り、本当に神を信じているのか、それとも、本気で信じる気持ちなどはなく、人前で自分を取り繕うことで良しとしているのか、よくよく考えなさいと。そして、次のたとえを話された。弟子たちの他、多くの人々を前に、神の国に入る人の条件を、次々と明らかに示そうとされた。
「二人の人が、祈るために宮に上った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。」(10節)当時のユダヤの社会では、敬虔な人々は日に三度祈る習慣があった。そして、祈りのために宮に上るのは、多くの人が心掛ける、尊いことであった。その当然なこと、神を信じる者としての尊い行為でありながら、この二人の祈りは、全く好対照である、と主は言われた。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(11〜12節)
また彼は、「週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」と祈った。旧約聖書では、年に一度の断食が命じられていたが、行いを熱心に求める人々は、「週に二度」の断食を行うようになり、この人はそれを実行していた。また「十分の一」のささげ物も、決められた以上を実行していたのである。(※断食:贖罪の日に行うこと レビ16:29〜34、23:27〜29、ささげ物:農産物と家畜の十分の一 レビ27:30〜33) 確かに信仰深く歩んだのであろう。けれども、律法を守るのに、定められた以上に守っていますと、自分の徳を並べることになっていた。これは由々しきことであった。神に感謝し、祈っているようでいて、横を向いて、そばにいた取税人を見て、彼と自分を比べ、その違いを勝手に喜び、自己満足していたのに過ぎなかった。
「あわれんでください」の意味は、私に目を留めて下さいとの願いを込めた「あわれんでください」(39節)とは違っている。ヘブル人への手紙 2章17節にある、「それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」の「なだめがなされる」と訳される言葉、罪を「償う」という意味の言葉で「あわれんでください」と祈っていた。罪人の私にとって、神に向かって、罪の償いを願うしかないと、この人は胸を打ちたたいていたのである。罪に対する神の怒りは、神だけが鎮めることができると、心から信じたことを言い表していた。そして、主イエスは言われた。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(14節)
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」この教えを、主イエスは繰り返し語っておられる。人の心には、この教えを聞かなければならない、高慢さ、高ぶりやうぬぼれがあることを、主が知っておられたからである。神が人の心を知る方であると、何度知らされても、そして、もう分かったとしても、それでも、私たち人間は、自らの心を低くすることを、学び続ける必要がある。自分を知る人、自分の罪を知って、神に頼る人、神にあわれみを求めて神を呼ぶ人、そのような心のへりくだった人を、神は義と認められると、主イエスが告げておられる。私たちは、その主イエスを救い主、キリストと信じる信仰に導かれていることを感謝したい。そして、いよいよ心を低くする者とならせていただきたい。
