エルサレムに向かう途中、主イエスは、パリサイ人たちの問い、「神の国はいつ来るのか」に答えて言われた。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(21節)「神の国の到来」を待つあまり、今、神が共におられる幸い、そして、主イエスが共に歩んでくださる幸いを見失ってはならないからであった。けれども「人の子の日」として、主イエスが再び来られる日を待つこと、すなわち「終わりの日」のあることを、決して忘れてはならないことも、はっきり弟子たちに告げておられた。その日には、神に従わない者に裁きが下されることが定められている。(30節)だから、その日を、幸いな日として迎えるのは誰なのか、弟子たちだけでなく、すべての人が、心して自分の生き方を問うこと、その大切さを教えようとされたのである。
その上で、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」と語られた。(33節)主イエスは、同じ趣旨の教えを折々に語っておられる。ペテロが正しい信仰告白に導かれた後、主に従う弟子たちの覚悟を促しておられた。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:24)マタイの福音書では、十二弟子を初めて遣わす時、やはり弟子たちの覚悟を問うように語られている。(マタイ10:39)「いのち」には二通りあることを。この世にある肉の「いのち」と、永遠に続く霊の「いのち」があり、「肉のいのち」を救おうと努め、かえって失ってしまうのが「霊のいのち」である。そして、「肉のいのち」を失うのを惜しまない時、それを保つのが「霊のいのち」なのである。人には、この地上で生きる「いのち」と、永遠に続く本当の意味での「いのち」、霊的な「永遠のいのち」があることを、主は語っておられた。
逃げ出したものの、ソドムの町に残った娘たちとその家族のことが、気にかかって仕方がなかったのであろう。自分の家や家財が心配というよりも、娘たちのことが、親として気がかりとなったのに違いない。けれども、この親心も、実は脱出前にこそ示すべきものであった。脱出した後は、この地上の事柄に引き戻されることなく、神の言葉に従うこと、それが本当の意味で、「いのち」を保つことになるのである。そのためには日頃から、心をどこに向けているか、今の生活と永遠に続く生活の、どちらを大切にしているか、そのような事柄の一つ一つを、自分で整理することが求められている。目に見えることですべてを判断するのか、それとも、目には見えないもののあること、目に見えない事柄の方に、はるかに大切なことが隠されていると信じるのか・・・、主は弟子たちだけでなく、人々にも問い掛けておられた。(マタイ6:19〜21、ルカ12:21)
あまりの明白さに驚いたのか、弟子たちが尋ねた。「主よ。どこでですか。」一体、どこでそんなことが起こるのですかと。(36節)やはり、「いつ」「どこで」「どのように」との問いが、繰り返される。主イエスの答えは、「死体のあるところ、そこに、はげたかも集まります」と、やや難解であった。(36節)少々不気味な言葉であるが、当時の格言と考えられている。死体に集まるはげたかの習性にふれ、必ず起こること、間違いなく成ることを表す格言と理解されている。神と共に歩む人が、神のもとに受け入れられることは、確実なこと、中途半端はない、心配することは何もない。だから、主イエスは約束されたのである。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。・・・」(ヨハネ14:1以下)
けれども、私たちは、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と教えられている。(コリント第二4:18)また、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストをともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます」という教えも、聞かされている。(コロサイ3:1)この地上のことが、どれだけ大きくのしかかっても、心配が広がっても、それでも神を信じ、神に信頼して歩ませていただきたいものである。心を神に向け、人の子の日を迎える人として生き抜くことができるよう、祈り続けようではないか! 主イエスが共におられることを信じて!!
