幼子イエスを王として礼拝した東方の博士たちは、大きな喜びに包まれて自分の国へ帰って行った。
彼らは夢でヘロデのところには帰るなと神からの戒めを受けたので、別の道から帰って行った。
しかしその直後から、マリヤとヨセフの身に、そして幼子イエスに危機が襲うのであった。
ヘロデの残忍さについては先にも触れたが、彼は博士たちが黙って帰ってしまったことに怒りを燃やした。
「だまされた」と。
彼にとって、新しい王の誕生はそれほどの脅威ではなかったのかもしれない。
まだ幼く、今のうちに抹殺が可能とばかり、「ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた」。
博士たちの話からして、そうしておけば自分を脅かす王はこの世からいなくなると考えたのである。
この世の強大な力が、幼子イエスの前に立ちはだかろうとしていた。
けれども救い主を世に遣わされた神は、危機が幼子に及ぶ前にヨセフに命じておられた。
「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
ヨセフは命じられたとおり、「立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき」、ヘロデが死ぬまでそこに滞在した。
幼子の命は危機一髪、しかし確かに守られていたのである。
ヘロデの死後、神はまたみ使いを遣わしてヨセフに命じられた。
「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」
ヨセフは命じられたとおりイスラエルの地に入ったものの、父ヘロデに劣らないほど残忍なアケラオがユダヤを治めていたので、その地に留まるのをためらっていた。
そこに神の導きがあって、ガリラヤ地方に立ち退くこととなった。
そしてマリヤとヨセフの故郷ナザレに、ようやく落ち着くことができたのである。
ヨセフは、み使いが夢に現れて示す神の導きと指示に、心から聞き従っていた。
もちろん彼は博士たちの来訪以来、何が起こるのか心配が膨らんだに違いなかった。
ヘロデ王に面会した後、教えられてベツレヘムに来たことなど、いろいろ聞かされて不安を抱くのは当然であった。
しかし、神に聞き従って行動することが、彼にとっては第一であった。
「エジプトへ逃げなさい」と告げられたなら、ためらうことなく、立って、夜のうちに行動を起こしたのである。
「イスラエルの地に行きなさい」と命じられたなら、直ちに立って、そのようにした。
不安で立ち止まっても、また戒めを受けて行動し、ナザレにたどり着くのであった。
神はヨセフを、鍵となる人物として用いておられた。
彼が疑ったり、ためらったり、また恐れて取り乱してしまったなら一体どうなったのか、事の推移はずいぶん違っていたであろう。
しかし「正しい人」と言われるヨセフは、聖書の言葉に聞き従う人、神の教えを聞き、それに従うには自分はどうすべきかを自ら考え、決断して行動する、そのような自立した人物だった。
これは私たちが見習うべき信仰者の姿である。
ヨセフはそのように神に用いられていたが、神ご自身は彼を用いて、ご自身のご計画、罪からの救い主を世に遣わす約束を果たしておられた。
エジプト逃避、幼子の虐殺、ナザレへの定住の一つ一つのことは決して偶然ではなく、主が預言者たちを通して言われていたことの成就であるというのである。
旧約聖書の預言の言葉が一語一語このように成就したというより、エジプト滞在の苦労や悲しみ、幼児虐殺の悲惨から真に救い出す方、涙を取り去ってくださる方、それがこの幼子イエスであると告げるのである。
特に「この方はナザレ人と呼ばれる」という言葉は旧約聖書にはなく、イエスがメシヤでありながら、人々にさげすまれ、嘲られ、「ナザレ人」と呼ばれたことを指している。
確かに預言は、メシヤが人からさげすまれることを告げている。
「ナザレ人と呼ばれ、人にさげすまれるメシヤ、すなわち救い主キリスト」、この方こそが本当の救い主である。
この方に聞き従い、この方によって救いに導かれる幸いな人は誰であるか、とこの福音書は語っている。
「エジプトへ逃げなさい」との命令に従って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへと向かうヨセフは、どんなにか不安であったことかと想像できる。
私たちは、「逃げる」ばかりの幼子イエスが「救い主」、また「王」であると考えることができるのだろうか。
弱々しく、みすぼらしく、痛まし過ぎると、世の人々は目にも留めず通り過ぎてしまう。
しかし、この方が救い主、信じて従うべき真の王なのである。
主イエスは私たちを罪から救ってくださる方、真の救い主である。
昔イスラエルの民がエジプトから救い出されたように、今私たちを罪の縄目から解き放ってくださるのである。
罪ゆえの悲しみや痛みは、この世の生活についてまわる。
理不尽な悲しみは誰にでもいつ襲うか、予測がつかない。
しかし主イエスこそは慰めを与え、悲しみを喜びに変えてくださる方である。
世の人々はイエスに頼ることなく、またイエスに従う者を嘲るとしても、この方にこそ救いがあると信じる人は幸いである。
エジプトへ逃れたイエスこそ、人の痛みや苦しみを思いやることのできる本当の救い主、真の王と心から信じて、今年のクリスマスを迎えたい。
そして大喜びの賛美をささげたい。
またこの喜びを他の人々に証しできるよう、祈りを厚くしてこの季節を過ごしたい。