イエス・キリストの系図、そしてイエス・キリストの誕生の次第と、マタイ福音書は幼子イエスの誕生をありのままに書き記していた。
歴史上の事実であること、超自然の不思議なことでありつつ、事実としてこの出来事はマリヤとヨセフの身に起こっていたことを告げているのである。
2章に進んでマタイ福音書は、改めてイエスの誕生は、いつ、どこで起こったのか、その頃どんなことがあったのか、人々はどのように考えたのかなどを記している。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」
「昔、昔、あるところに」というのではなく、イエスは、「ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」のである。
ヘロデ王、ヘロデ大王として知られる人物は、もともとエドム人で、ユダヤ人と敵対していた。
しかし紀元前40年にローマ皇帝から「ユダヤの王」との称号を与えられ、紀元前4年に死ぬまでユダヤを治めていた。
その地位を守るためには、身内さえも信用できず、王位継承の可能性のある者たちを次々と殺害したという人物である。
そのヘロデのもとに東方の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」と尋ねたのであった。
ヘロデ王が「恐れ惑った」こと、また「エルサレム中の人も王と同様であった」というのは、ヘロデが自分の知らないところで新しい王の誕生などあってはならないと激しく怒り、動揺したことを表している。
また、ヘロデの残忍さを知る人々が、恐れと不安を抱いて震え上がった様子を告げている。
イエスがお生まれになった時、ヘロデの統治の末期頃、喜びの出来事がエルサレムには現実に恐れをもたらしていたのである。
ヘロデの恐れや戸惑い、人々の不安と動揺とは裏腹に、博士たちは何のためらいもなくヘロデの前に立って尋ねたようである。
遠くアッシリヤ、バビロン、ペルシャ方面から旅をしてエルサレムにやって来た彼らは、目の前の王に取り入ることなく、訪問の目的を告げた。
どこに行けば、「王としてお生まれになった方」にお会いできるかと聞くのである。
「博士」と訳された言葉「マゴス」は、もともと「魔術師」「占い師」を意味し、占星術を行っていた人々を指す。
実際に天文学に通じていた彼らのうち、ユダヤ人の宗教、すなわち旧約聖書にも触れた人たちが、天体の観測からユダヤ人の王の到来という約束の実現を読み取って、エルサレムまで来たと考えられている。
彼らは「ユダヤ人の王」の到来について、自分たちにも深く関係のある方が来られることと、おぼろげながらも悟って行動していたのである。
博士たちは、ただ単に「ユダヤ人の王」を訪ねたわけではなかった。
聖書に約束された真の王、万民に関わりのある王、キリストを訪ねたのである。
だからこそヘロデは学者たちに、「キリストはどこで生まれるのか」と問いただしたのである。
神は、真の王、真の救い主キリストを世に送り出すと、旧約聖書を通じて約束しておられ、調べれば分かるように預言されていたのである。
ベツレヘムに送られた博士たちは、ついに幼子のイエスにお会いすることができた。
東方で見た星に導かれるように、母マリヤとともにいる幼子のもとに来た時、彼らは喜びにあふれ、幼子の前にひれ伏して礼拝した。
また、心からこの方を信じて服従する思いを、宝物をささげて表したのであった。
ヘロデが口先で「私も行って拝むから」と言ったのとは大違いである。
彼が本気で恐れを取り除こうとするのなら、博士たちとともにベツレヘムに行くことができた。
星の出現の時間を突き止めたものの半信半疑で、余裕を見せたかったのだろうか。
また聖書をよく知り、キリストの到来の約束を待ち望んでいたはずの祭司長や学者たちも、誕生の知らせを喜ぶこともなく、「ユダヤのベツレヘムです」と答えただけで、何の行動も起こさなかった。
それは、彼らの心の頑なさを表していた。
真の王にひれ伏して拝したのは、遠くからはるばるやって来た博士たちであった。
彼らは、決して多くのことを知っていたのではなかった。
むしろ、ごくわずかなことしか知らなかった。
けれども真の王がお生まれになったのなら、ぜひお会いしたい、ひれ伏して拝みたいと心に決め、遠くから来たのである。
その真実な求めは報われ、彼らは宝を、しかも最高の宝物を贈って、王に仕えることを喜んだのである。
この博士たちと同じ幸いにあずかるのは誰であろう。
私たちは同じ喜びにあずかっているだろうか。
幼子イエスの誕生は不思議な出来事の連続で、その不思議さに惑わされていることはないだろうか。
処女降誕がどうのこうの、また不思議な星の出現は一体何かと、そこで立ち止まってはいないだろうか。
しかし、惑わされることなく、真の王の誕生を心から喜び、この王にひれ伏すことが私にとっての幸いと告白することが大事である。
私たちは「本当のクリスマスは教会にある」と考えている。
巷のクリスマスにはキリストはいない。
クリスマスケーキ、クリスマスプレゼント、クリスマス何々と、商売になるなら何でもクリスマスである。
けれども私たちも本当のクリスマスを祝っているのか、検証は大いに必要である。
なぜなら私たちも、自分に都合のよいようにだけ、クリスマスを迎えていることがあるからである。
この世の王を恐れることなく、真の王を求めてイエスの前にひれ伏しているだろうか。
またこの王にお会いするためには、日常の生活を離れて旅に出るのも厭わない、そんな熱心を持っているだろうか。
そして、この方には自分の宝物をささげても惜しくはない、と心から仕えているだろうか。
一つ一つ自己吟味が必要である。
私たち教会に集っている一人一人こそ、イエスを王なる方と信じ、真心からこの方にひれ伏し、この方を礼拝するクリスマスを祝うことができるよう祈りたい。
そしてクリスマスの大きな喜びを、教会の外にいる多くの人々にも分かち合うことができるよう、心から祈りつつ今年のクリスマスを迎えたい。
救い主イエス・キリストこそ、私たちの望みであり、お仕えすべき真の王である。