イエス・キリストの「福音」、「良きおとずれ」を告げるマタイ福音書は、キリストは確かにこの歴史上に存在された方、神の約束に基づいて世に来られた方と告げるため、まず系図を記していた。
これは、ただ単に嬉しい喜びの物語というのではない。
読者は、心して読み進むように、と促されているのである。
このように福音を告げ知らせるにあたり、マタイは「イエス・キリストの誕生は次のようであった」と語り始める。
キリストが世に来られたその始まりはこうであった、と。
何事も隠さず、何事も曲げることなく、イエス・キリストはこのようにして、母マリヤより生まれたと告げている。
ダビデの子孫としてヨセフの妻マリヤより生まれたが、それは聖霊による超自然的な出来事であったというのである。
「超自然的出来事」を記すのは、世の常としては、有り難いことをいっそう有り難く思わせるため、また人々をあえて驚愕させるための手法である。
しかしここでは、あくまでも真実はこのようであった、と告げるためであった。
超自然的な出来事でありつつ、全く普通に生活していたマリヤとヨセフの間にこの出来事が降りかかり、普通の人間の営みとして神が人となる出来事が起こったのである。
ここに記されている中心点は、イエスは処女マリヤより生まれたという事実である。
多くの人が、系図でつまずくだけでなく、この処女降誕で決定的につまずくという。
けれども、どんなに人がつまずこうと、この事実から目をそらすことはできないのである。
すでに婚約して事実上の夫婦となっていたマリヤとヨセフにとって、普通ならマリヤも胎の子も生き延びる可能性のないことが起こっていた。
ヨセフにとって、自分の身に覚えのない形でマリヤが懐胎したことは、心が張り裂ける痛みと悲しみ、そして憤りを引き起こすものであった。
彼の決断一つで、マリヤは石打ちの刑に処せられるというのが聖書の定めだったからである。
けれども「正しい人」、すなわち聖書の定めに従う人であったヨセフは、訴えることはしなかった。
「内密に去らせようと決め」、そもそも婚約はなかったことにして、マリヤが生きられるよう、身を退こうと心に決めたのであった。
その時、神が介入され、夢の中でみ使いによって、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と知らされたのである。
ヨセフは、マリヤの胎の子は「聖霊による」と告げられるとともに、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と知らされた。
思いもしなかったことである。
しかし彼はこのみ告げを心に留め、信じた。
ヨセフはマリヤを愛しており、また彼女を信じればこそ、胎の子は「聖霊による」こと、神のみ力によると確信した。
そして「イエス」と名づけるよう命じられ、その名のとおり「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と知らされた。
その時、自分こそが罪から救われるべき者との理解が与えられたのであろう。
眠りからさめると、迷うことなく「妻を迎え入れ」、やがて生まれた「その子どもの名をイエスとつけた」のであった。
この記述は、ヨセフ自身が神を信じ、また今起こっている事柄が神のみ業と信じて彼が行動したことを言い表している。
マリヤの懐妊という受け入れ難い状況を、彼がなぜ受け入れることができたのか、そして彼が何を信じ、何を期待したのかを暗示している。
彼は神の直接の介入を信じた。
そして神の約束の実現を喜んだ。
救い主の到来を待ち望んでいたので、罪から救ってくださる救い主が生まれることを心の底から喜んだ。
神は罪人を救うために、人のただ中に近づいてくださったのである。
ヨセフは神を信じていた。
しかし神がこのような方法を使って救い主を世に遣わしてくださることを知って、聖い神が罪ある者を救ってくださることをいっそう悟らされたのである。
聖い神が、全く聖いままで罪ある人間となられる不思議を知ったに違いなかった。
人に罪があること、神に背き、善を行うのにためらうばかりの自分であることを、誰もが認めるはずである。
愛することを求め、愛されることを願いながら、自分には本当の愛がないと気づかされる。
見えるものは一時的で、見えないものこそ永遠に続くと教えられながら、私たちの心はこの世で自分の心が満たされることばかりを求めている。
何と愚かで、また無力なことか。
しかし、だからこそ本当の救い、罪からの救いが私たち人間には必要なのである。
神は私たち人間を、一人一人生まれ変わらせて新しい命に生きるよう、罪から救うため、救い主イエス・キリストを世に送ってくださったのである。
遠くからただ手招きするような仕方ではなく、自ら近づき、人となって世に生まれ、悩み苦しむ人々と共に歩み、共に痛み悲しんでくださる方として。
罪からの救い主は、そのようなお方なのである。
罪人を招き、罪人と共に歩んでくださる救い主、罪から救ってくださる方こそ、ほめたたえられるべきお方である。