礼拝説教要旨 2004年12月5日
神から恵みを受けた人
ルカ 1:26~38

救い主の誕生の出来事はマタイとルカの福音書に記されている。

マタイはヨセフに現れたみ使いの知らせを記し、ルカはマリヤに現れたみ使いの知らせを書き留めているという特長がある。

どちらも母マリヤの証言がもとになると考えられるが、特にルカは医者としての学識などを駆使して福音書を書き記したとされている。

一、ルカが順序立てて記した出来事

ルカ福音書は、救い主イエス・キリストについて、「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います」と、まず述べている。

イエスの誕生、生涯、十字架の死、死からの復活、そして昇天、それらすべてをルカは歴史の事実として書き留め、テオピロという人物に書き贈ったのであった。

イエスの誕生については、まずザカリヤとエリサベツの老夫婦にみ使いが遣わされたことを記し、次いでマリヤにみ使いが現れたことを順序立てて記している。

神の不思議なみ業が次々と成されていたのである。

いずれも人の思いを越えたみ業であり、人は心からひれ伏して受け止めるように迫られていた。

マリヤのもとに来たみ使いは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と告げ、戸惑うマリヤに、「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」と、みごもって男の子を産むことを告げ、名をイエスとつけなさいと命じたのであった。

彼女の戸惑いや恐れは当然のことであり、一体何が起こったのか問い返すほかなかった。

マリヤにとって事の始まりはあまりにも唐突で、信じるも信じないも、何が何だか分からないというのが真相だったのではないだろうか。

二、神の子が人となって生まれる

み使いは、イエスと名づけられる男の子が「すぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれる」こと、「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになる」こと、「その国は終わることがない」ことなどを明言していた。

それはイエスは神の子であり、神が人となって世に生まれ、ダビデの王位を継ぐ永遠の王となるとの宣言であった。

イザヤ7章14節、また9章6~7節などに符合することとして、み使いは告げていたのである。

マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と答えるしかなかったが、神はこのマリヤを用いて神の子を人として世に遣わそうとしておられた。

聖霊によってみごもるという特別の方法で神の子が生まれるのである。

いと高き方の力、すなわち神の力がマリヤを覆うことによって神の子が生まれるというのである。

マリヤの胎を借りるものの、人間の営みを通してではなく神の子が生まれるのであって、神は聖なる者、罪のない聖い方を世に送り出そうとされたのである。

三、身をまかせる信仰

マリヤへのみ告げは突然で、一方的であった。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言われても、彼女はひどく戸惑うしかなかった。

「あなたは神から恵みを受けたのです」と告げられても、どのように恵みを受けているのか、また何を受けたのか分からないでいた。

聖霊によってみごもることを知らされて、「なんて幸いなことでしょう」とは決して思えなかった。

このことでヨセフとの関係が壊れ、人々からとがめられ、命を奪われることが十分に予測できたからである。

けれども彼女が行き着いたところは、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」であった。

マリヤは主に身をまかせ、主の言葉が成ることを信じた。

自分を主に明け渡したのである。

神の恵みにあずかるとはこのことである。

一方的で強引とさえ見えるものの、その恵みに身をまかせるとき、神にあって幸いな者とされるのである。

彼女は決して盲目的に信じたわけではなかった。

むしろエリサベツの懐妊のことを知らされ、さらに「神にとって不可能なことは一つもありません」と告げられ、よくよく考え、潔く信じたのである。

結び

マリヤは確かに「神から恵みを受けた人」であった。

神の恵みを一身に受けて神のみ子を胎に宿した。

神が自分に近づいてくださること、また共にいてくださることにあらがうことなく、その神に身をまかせていた。

私たちは今日、どのような形で神の恵みを受けているのだろうか。

実際のところ何か特定のよいことがあって、神の恵みにあずかったと考えようとしていることがある。

そのため自分にとって好ましくないことは恵みとは考えられないのである。

マリヤのように突然、人生の重大な決断を迫られたならどうするかである。

自分に不利益がふりかかるとしたら、なお神に信頼できるだろうか。

人生に何が起ころうと、神への全幅の信頼を言い表すことができるか、そのような信仰をもって神に頼っているか、そのことこそ「神の恵みを受ける人」「神の恵みを受けた人」を決める鍵と言える。

マリヤのように神の全能を信じればこそ、神に身をまかせる人、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と心から告白する人が「神の恵みを受けた人」である。

現実に日々の生活の中で、神に身をまかせて生きる人は大きな力をいただくのである。

男であれ女であれ、大人も子どもも、勤めている人も家庭にある人も、自分の人生を大切にしつつ、主が用いてくださるなら「ほんとうに、私は主のはしためです」、また「主のしもべです」と自分を差し出すことができるように祈りたい。

そして主が私をどのように用いてくださるのか、おまかせしますと言うことのできる信仰者にしていただきたい。

私たちもまた、「神から恵みを受けた人」として。