礼拝説教要旨 2004年8月15日
知れ!主こそ神!
詩篇 46篇1~11節

今年は「8月15日」を、今日「主の日」として迎えた。

「1945年8月15日」から59年目の特別な日である。

「敗戦記念日」または「終戦記念日」として、決して忘れることのできない歴史を心に刻む一日である。

これまではほとんど疑問なく「戦後40年、戦後50年」と年を数えてきたはずである。

しかし今年は果たして「戦後なのか、新たな戦前なのか、いやもうすでに戦中なのでは」と心騒ぐ世界の情勢である。

私たちは心を静めて、み言葉に耳を傾けたい。

一、苦しむとき、そこにある助け

詩篇46篇は、天地を造られた神こそが信頼すべきお方、真の神であると歌っている。

神の民イスラエルの歴史において、神は何度も何度も民を救ってくださった。

全くの絶望の淵から、不思議な救いを与えてくださったのである。

出エジプトの出来事はもちろん、ヨシュアから士師の時代、そして王国の時代も変わらず助けの手を差し伸べておられた。

ちょうど今学び続けている列王記の時代、主に信頼した王たちは不思議な救いを経験している。ヨシャパテ、ヒゼキヤがそうである。

神の助けの確かさは、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」と言われているところにある。

「そこにある助け」とは、歴史の折々に必ず主が共にいてくださったことを思い出す時、主は今も必ず共にいてくださると確信できるということである。

助けを探さねばならないのではない。

気づくなら、今そばに助けとなる神がいてくださるのである。

この神は、たとい地が揺れ動いて崩れ去ろうと、決して揺るがないお方なのである。

口語訳では「悩める時のいと近き助けである」、共同訳では「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と訳されている。

二、神はそのまなかにおられる

また神の助けの確かさは、「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる」と言われるところにある。

神の民の真ん中に、神が共にいてくださるのである。

そばにいて助けの手を差し伸べてくださるだけでなく、真ん中にいてくださるというのである。

これは、城壁が確かとか、兵力が十分とか、装備が万全との問題ではない。

神の臨在のゆえに周りの国々は揺らぎ退くしかない、それほどの守りなのである。

神ご自身が城壁であり、砦そのものとなってくださるからである。

悩みや苦しみなど、問題の真ただ中に共にいてくださるという助けである。

イスラエルの民の歴史において、王たちの多くが主に頼るよりは兵力に頼り、あげくは外国に頼る道を選んだ。

預言者たちは「主に頼れ」と叫び続けたが、王たちは聞かなかった。

しかし、しばしば敵は不思議な退散を余儀なくされ、イスラエルは不思議な勝利を得させられていたのである。

王も民も、主に信頼する者は必ず守られることを現実に具体的に経験することができ、大いに励ましを得ていたのである。

三、戦いをやめよ

ところでこの詩篇は、神が成してくださった守りと助けを思い出させながら、国と国が争った後の惨状を見よと言う。

「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」と。

果たしてイスラエルに向かって、勝利を喜べと招いておられたのだろうか。

惨状や荒廃こそが「主のみわざ」というのだろうか。

「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」のである。

戦闘終結後の惨状をよくよく見て、主のみ心はどこにあるかを考えてみよ、思いめぐらしてみよと言われるのである。

イスラエルは勝利したとしても、後に残った地の荒廃を見て、「戦いをやめさせる」ことこそが主のみ心と悟るように招かれていたのである。

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」

主は争いを「やめよ」と言われるのである。

ここで使われている言葉は、「放棄する、捨てる」ことを意味する言葉である。

国を守ることに必死になる努力の行き着くところで戦争が繰り返され、イスラエルは諸国との同盟を模索し、主なる神への全幅の信頼をいつも後回しにしていた。

そうした力頼みはもう潔くやめ、「わたしこそ神である」と知りなさいと言われているのである。

結び

「やめよ」との一言は、前後関係から明らかに「戦いをやめよ」と命じられていると解釈できる。

共同訳聖書は「力を捨てよ。知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」と訳している。

イスラエルの民、そして代々の神の民だけでなく、世界中のすべての民は争いを繰り返している。

しかし、その争いがもたらす地の荒廃を見て、神は争いをやめることを求めておられることを悟るべきなのである。

争いや力頼みはやめ、心を静めて神を知れ、と。

日本は、そして日本に住む人々は、先の戦争がもたらした国土の荒廃、広島や長崎の目を覆う惨状を見て、二度と戦争をしてはならない、決して戦争をするまいと決心したはずであった。

確かに戦争を放棄すると宣言し、力を捨てたはずであった。

けれども振り返ってみると、主を知ること、真の神を知って恐れることについてはおろそかにしてしまった。

そのため、今また他国の脅威を感じ、かつ他国を頼み、戦争の危機が迫っているかのように有事法制などの法整備に懸命となっているのである。

戦いをやめることは神のみ心であると、改めて心に刻む必要がある。

そして、本当に頼るべきは生きておられる真の神のみと知らなければならない。

人は国と国、民と民、力と力の衝突をあおり、生き残りをかけ戦争を起こしてしまう。

しかし、後に残るのは地の荒廃と悲惨であることをしっかり見届けねばならない。

戦争をやめるのは遠い終末の希望なのではなく、今この地上においてこその神のみ心である。

誰が果たすのか。それを果たすのは、主を知り、主を恐れ、主をあがめる神の民である。

「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」と心から言うことができるのは、天地の造り主なる神を信じ、その神が遣わしてくださった救い主イエス・キリストを信じる私たちである。

「キリストこそ私たちの平和であり、敵意を廃棄された方です」と言われている。

キリストを信じる私たちこそ、何ものをも恐れることなく戦いをやめ、神がもたらしてくださる平和を生きる者とならせていただけるに違いないのである。