列王記第二は18章以降、新しい段落となる。
17章において北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国のみとなって神の民イスラエルの歴史が刻まれることを記している。
その歩みは、ダビデに約束された祝福を確かに受け継いでいるとは言い難く、民の歩みは必ずしも安泰ではなかった。
南王国もまた背信を繰り返し滅びへと向かっていたが、ヒゼキヤは北王国の滅亡を教訓として受けとめ、改革に取り組むのであった。
ヒゼキヤは二十五歳で王となった。
彼は父アハズが主に頼らずにアッシリヤの力を頼もうとしたこと、また北王国が主に背いて怒りを買っていたことなど、よくよく見聞きして学習していた。
実際に北王国が滅んだのは彼の即位後であったが、その理由は、「彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行わなかったからである」と気づいていたのである。
王となったヒゼキヤが最も心を注いだのは、「すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行う」ことであった。
主を信じ、主に従うことにおける誤りを正すことに心を配り、主ご自身との関係を正し、神礼拝を改革しようとしたのである。
具体的な改革は、「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた」ことに現れた。
それらはこの時に至るまで、だれも手を着けることができないまま、真実な神礼拝を妨げる偶像礼拝として続けられていたことであった。
出エジプト以来の記念品である青銅の蛇さえも、香をたく対象になっていたのである。
歴代誌第二29章によると、ヒゼキヤによる改革は、「主の宮の戸を開き、これらを修理した」ということから始まっている。
彼は主の宮での礼拝こそ重視して、神礼拝を正すには、主の宮を聖別し、そこでささげられる礼拝によって主に立ち返ろうとしたのである。
彼は次々と改革を進め、民を招いて過越しのいけにえをささげる礼拝を導いて、主に立ち返る祈りをささげている。
「エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、こうしたことはエルサレムになかった」とは、それほど主の宮がないがしろにされていたことを意味していた。
このように主の宮を尊び、そこでの礼拝を真実にささげようとしたことに続けて、高き所を取り除き、偶像を打ちこわし、切り倒すことが行われたのであった。
ヒゼキヤは、「主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行った」と評価されている。
彼は、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行い、その目的を果たした。
列王記第二は、「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った」と記している。
こうしてヒゼキヤの治世は、波乱の時代にあって大いに祝福されていた。
大国アッシリヤの恐怖にさらされながらもこれに屈せず、近隣の民との戦いにも勝利していた。
彼は主に信頼し、主に堅くすがっていたのである。
信仰からくる力は何ものにも優り、主を恐れる者の幸いを彼は味わっていた。
彼の幸いを聖書は、「主は彼とともにおられた」と言い切っている。
確かに彼は主に信頼した。また主に堅くすがっていた。
けれども、彼の信仰が厚かったので彼は強かったのかというと、必ずしもそうではないのである。
主が共におられることを知って、彼は主に信頼したのである。
神の民の幸いの根拠は、主が民と共にいてくださることにあり、民はそれに気づいて主に従うことが肝心なことであった。
主は一貫して王たちと共におられた。
民の一人一人と共におられた。
背く者たちからみ顔を隠されたことはあったが、それでも決して見捨てることなく、共に歩んでおられたのである。
神の真実は揺らぐことなく、共におられる神に信頼する者は大きな力で守られていたのである。
背いた王たちは、共にいてくださったはずの主に、文字どおり背を向けていたわけであった。
預言者たちは、共におられる主に信頼せよ、と語り続けていたのである。
私たちはともすると、私たち信じる者の信仰そのものがまず問われていると考えてしまう。
信仰の有る無し、強い弱い、大きい小さいが気になるのである。
しかし大切なことは、「主が共におられる」と気づくか否かであり、主を認めてこの方に従おうとする、その信仰を明らかにすることである。
主が共にいてくださることを喜ぶ心が大切なのである。
ヒゼキヤは、共にいてくださる主に何とかしてお従いしようと心を尽くした。
まず礼拝を改革し、刷新して、その上で長年の課題であった「高き所」を取り除くことを決心した。
長年そのままの事柄に手を着けるには勇気と決断が必要であったが、主に真心をささげようと決めたとき、それが可能となったのである。
私たちの信仰の歩みにおいても、同じことが言える。
主が共にいてくださることを心から喜ぶとき、大切な決断と行動が必ず導かれるのである。
主は私たち一人一人と共にいてくださる。
今共にいてくださる主は、世の終わりまでも必ず共にいてくださると約束してくださっている。
主が共におられるゆえに、恐れなく主に頼って歩むことができる。
この世で乗り越えるべき課題が一つ一つ襲ったとしても、主が共にいますゆえに、力を得て進むことができるのである。
私にとって、取り除くべき「高き所」があるだろうか。
また神礼拝をささげる上で改革すべきこと、刷新されるべきことがあるだろうか。
主によって心を探っていただこう。
そして何よりも私の人生において、「主は私と共におられた」事実の一こま一こまを思い返して、感謝と賛美をささげたいものである。