北イスラエルの最後の王ホセアの登場である。
彼もまた「主の目の前に悪を行った」が、「彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった」と記されている。
他の王たちほどに背信の罪を激しく犯すことがなかったのか、それとも対アッシリヤ政策において違いがあったのか、考えさせられるところである。
ホセアはアッシリヤからの攻撃を受けた時、まずは服従して貢物を納め、アッシリヤの支配下にあることをよしとした。
その頃、南ユダ王国のアハズはすでにアッシリヤに貢物を贈っていたわけで、南北ともにアッシリヤの属国となってしまった。
しかし、預言者を通しての主からのメッセージは、南北どちらに対しても、一貫して「主を頼れ。主を待ち望め」であった。
ホセアは、その名が示す「主は救い」を選び取るのではなく、今度はエジプトに助けを求め、その力を後ろ盾にしてアッシリヤに対する謀反を働いた。
その謀反に気づいたアッシリヤは当然のごとく怒り、ホセアを捕らえ、国の全土に攻め上り、サマリヤを三年にわたって包囲し、陥落させてしまった。
イスラエルの民はサマリヤからアッシリヤへと捕らえ移され、このようにして主の裁きが北イスラエル王国に下されたのである。
主の裁きは突然下ったわけではなかった。
警告は発し続けられていた。裁きの猶予も与えられていた。
にもかかわらず、罪を離れず、背きを止めなかったのである。
神の民イスラエルは、エジプトから救い出してくださった主を忘れてはならなかった。
出エジプト後、カナンの地でどんなに周りの民が力強く見え、人々の風習が魅力的に映ろうとも、彼らに習ってはならないと戒められていた。
けれどもイスラエルは異邦の神々に習い、偶像を拝み、主を裏切って、裁きに突き進んだ。
そしてこの事実は、南ユダ王国に対する明確な警告として突きつけられていたのである。
サマリヤ陥落後、アッシリヤの占領政策は、次々とアッシリヤからの移民を連れてくることであった。
その時、移民してきた人々を獅子が襲う悲劇が起こった。
人々はおびえ、主を恐れないゆえの裁きと考え、主を礼拝する仕方を一人の祭司に教えてもらおうとした。
主は確かに、裁きとして獅子を送っておられたのである。
しかし、事は思うようには行かなかった。
イスラエルで、そしてサマリヤやベテルで、「どのように主を礼拝するか」の問題は、もうすでにかなり崩れていたのである。
それに、移民した人々にとっても、めいめいの思いがあった。
あちらこちらの高き所が、好き勝手のように偶像の神々の礼拝所となっていった。
主を礼拝しながら、同時に自分たちの神々にも仕えるという矛盾が広がるのである。
結局のところ、そこでなされていたことは、「主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行っているのでもない」礼拝行為であった。
「エジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえをささげなければならない」と教えられていたのであるが、もはやそこから遠く離れてしまったのである。
「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される」との約束は、出エジプト前の民に語られたものではない。
出エジプト後、すなわち救いにあずかった民に語られたのである。
救ってくださった主だけを恐れなさい、この主を礼拝しなさい、と。
救いの事実に基づいて、「この主だけを恐れなさい」というのが、旧約聖書、そして新約聖書を貫いているメッセージなのである。
それにしても、人は迷いやすいものなのか。
出エジプト後の民は、モーセに導かれながら、つぶやきを繰り返していた。
モーセからヨシュアに指導者が代わり、カナンの地に入ってからは、いよいよ近隣の民の習わしに惑わされることが増えていった。
ギデオンら士師たちの時代を経て、王国時代になると、いっそう偶像礼拝の惑わしが激しくなっていたのである。
北王国滅亡後、主はなお南ユダ王国を顧みておられたが、ユダもまた主の命令を守らず、イスラエルと同じ道をたどろうとしていた。
「これらの民は主を恐れ、同時に彼らの刻んだ像に仕えた」と記されている現実は、ことのほかやっかいなことである。
信仰の純粋さは、一度脅かされるなら、立ち直るのは非常に困難ということである。
聖書はだからこそ神の民イスラエルの歴史を記して、私たちにも教え、警告を発しているのである。
私たちにとっての「ただ主だけを」は、私のために十字架で命を捨ててくださった方、そして死からよみがえられたお方、「主イエス・キリストだけを」を意味している。
それは、「キリストを遣わしてくださった神だけを」という意味でもある。
キリストを信じて歩み始めたなら、この世でどれだけ心引かれるものがあったとしても、主にのみ仕えるよう求められている。
滅びから命に移された救いの確かさを喜ぶことが、ただ主だけを恐れる鍵となるのである。
主だけを恐れていると言いながら、自分勝手に都合よく偶像を拝む罠から免れるよう心したい。
礼拝の仕方、祈り方など、案外私たちは自分の好みや思いを優先させているのではないかと、自己吟味が迫られる。
主の前には、自分を低くして、もっともっと自分を無とすることをよしとする、そんな潔さが必要と思われる。
他教会の礼拝に出席した時など、そこに馴染みやすい自分かどうかを考えてみると、興味深いものがある。
もう一度一人一人、キリストにあって救いにあずかったことを、よくよく心に刻みたい。
そして、私を罪から救ってくださった主にのみ従う信仰を、新たにしていただきたい。
道をそれることなく、歩ませていただく者でありたい。