北イスラエルが主の裁きに向かうばかりの時、南ユダ王国はなお主のあわれみにより、主の目にかなうことを行う王が四代にわたって続いていた。
けれどもその王たちも高ぶりの罪からは逃れられず、罪の繰り返しは王家の信仰はもちろん、民の信仰も危うくさせていた。
そしてヨタムの子アハズが王となった時、彼は父たちの信仰に歩むのではなく、イスラエルの王たちの道、バアル礼拝など、異教の偶像礼拝の習わしに突き進んでしまった。
アハズがなぜ罪に走ったのか、その理由は定かではない。
父ヨタムはウジヤの過ちを繰り返さないように心を配っていたが、その頃すでに、「民はなお滅びに向かっていた」と記されている。
ウジヤ、ヨタムと比較的安定した状況が続いた時、民はその繁栄と安定を喜びながら心を主に向けることなく、主を忘れて勝手な道を歩み始めていた。
主は警告を発しておられたが、王も民もますます主から離れたのである。
繁栄の中で、信仰を置き去りにしていたと考えられる。
アハズの背信は激しかった。
バアルのための像を作り、異教の民の習わしをまねて、自分の子どもを供え物とすることまでしていた。
国中に偶像礼拝が広がり、公然となされるようになっていたのである。
そこまで主から離れられるのだろうかと不思議なくらいである。しかし、それが現実であった。
主は、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカによる脅威をもって警告を発しておられた。
「わたしに返れ」と。
主からのメッセージは、「恐れの日にわたしを呼べ」であったが、アハズは決して主を呼ぼうとはしなかった。
彼は恐れて震え上がっていたが、それでも主に頼ろうとはしなかった。
自分で何とかできると考え、その考えこそが最善と思い込んだのである。
アラムとイスラエルによる脅威は、それによってユダが討ち滅ぼされることではなかった。
しかし、ユダが受けた痛手は大きく、十二万人の死者が出て、二十万人の捕虜がサマリヤに連れ去られたので、アハズはこの事態に震え上がってしまったのである。
主は、このような時にこそ「わたしを呼べ」と、預言者イザヤを遣わされた。
しかし彼は、「私は求めません。主を試みません」と言い放っていた。
アハズはこの時、アッシリヤの王に助けを求めていたからである。
主に頼るより、アッシリヤの王に頼る方が安心とばかり、贈り物を送っていた。
目に見えない助けより、目に見える助けこそ好ましいと考えたのである。
事実、アッシリヤの王はダマスコを攻め、レツィンを殺したので、アハズは助けられたかに見えた。
けれども実際は、何の助けにもならないばかりか、アッシリヤによって悩まされることになっていたのである。
アッシリヤの王は、アハズを助けていたわけではなかった。
アハズはそのことに気づくように、そして主に立ち返るようにと招かれていたが、ますます主に対する不信の罪を犯した。
ダマスコを表敬訪問した時に見た祭壇をまね、それと同じものを作らせ、主の宮を軽んじるのであった。
「ダマスコの神々」また「アラムの神々」とは、もうすでに「アッシリヤの神々」にほかならなかったと考えられる。
アハズは決して主を呼ばないと頑なになり、偶像が本当に助けてくれるのか確信のないまま、ますます主から離れていったのである。
イザヤによる「主に立ち返れ」との招きは、危機の時に慌てるな、静かにしていなさい、という呼びかけとして繰り返されている。
戦いを止め、すべての者が主の支配のもとに心を低くして生きよ、と呼びかけられている。
アハズはイザヤを通して、はっきりと主のメッセージを何度も知らされた。
それにもかかわらず聞き従わなかった頑なさは、何故なのだろうか。
イザヤは王の前に遣わされるたびに、預言者として心穏やかではいられなかった。
心細い思いさえしていたようである。
王や民に向かって、主を恐れよ、主にのみ頼れと呼びかけながら、彼は自分自身にも言い聞かせていたのである。
「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。」
「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」
人にとって、目に見えない神を待ち望むより、目に見える人や偶像を頼ることの方が易いとしても、それでも「主を求めよ、主を待ち望め」というのが、預言者を通しての神からのメッセージであった。
慌てふためくことなく、静かにして、主を待て、というのである。
アハズ王に告げたイザヤの言葉がイエス・キリストの誕生の預言に及んでいることを思うと、神の歴史支配の大きな流れの中に、今私たちもいることを気づかされる。
そして私たちもまた、聞くべきメッセージは、いついかなる時も「主を求めよ。主を待ち望め」である、と教えられる。
特に、困難な時、恐れのある日こそ、「静かにして、主を待て」と言われているのではないか、と気づかされる。
世の中の先行きはますます不透明である。
個人の生活も、国の将来も、世界中の国と国との関係も大変不安定で、混乱しているのが現実である。
世界の経済はとても安心してはいられないので、主要国の首脳会議は主に経済問題が議題となっている。
協調なしにもはや世界は立ち行かないところに来ている。
にもかかわらず、自国のみ、遅れをとることのないようにと首脳たちは躍起になっているのかもしれない。
日本はもちろんのこと、世界中が「お金」に支配されている。
このような時、心を静めて、主を、真の神を待ち望む信仰が固くされる必要がある。
為政者たちが何を考え、何をしようと、また周りの人々が何を考え、何をしようと、私は「神を待つ」とはっきり言えるだろうか。
私たちは、イエス・キリストを信じる者として、いついかなることが起こっても、静かにして神を待つ、そのような信仰が養われることを祈り求めたい。